名前のない履歴書
履歴書を書くたび、氏名の欄だけ、書いた字が薄くなって、消えていく。
四十三社に落ちた青年の、就職活動のお話です。
履歴書を書くたび、おれの名前だけが薄くなる。
住所も、学歴も、志望動機も残っている。
それなのに、いちばん上の「氏名」の欄だけ、一日たつと灰色になり、二日で読めなくなる。
この一週間は、もっと早かった。
名前を書いて、ペンを置く。
少し息を吐いてから、もう一度見る。
それだけで、黒かった字が、薄い灰色に変わっている。
指でこすっても、汚れない。
消しゴムをかけたわけでもない。
ただ、紙の上から、おれの名前だけが消えていく。
大学を出て、二年。
受けた会社は、四十三社。
全部、落ちた。
『採用を見送らせていただきます』
同じような文面の通知が、机の引き出しに束になっている。
捨てようとするたび、手が止まった。
腹が立つから、文章の間違いを探した。
日付。
句読点。
会社名の表記。
「今後のご健勝」を「今後のご検討」と誤記している通知もあった。
赤ペンで丸をつけてから、余計にみじめになった。
そんなことをしても、落ちた事実は変わらない。
友達の田口に、名前の話をした。
「おまえ、一回、拝み屋に見てもらえよ」
最初は、冗談だと思った。
けれど、名前が消えた履歴書を見せると、田口は笑わなかった。
神宝町の、看板もないビル。
その十階を教えてくれた。
部屋には、煙草のにおいがこもっていた。
糸のように目の細い、痩せた男が、古い腕時計をいじっている。
二十代の半ばくらいに見えた。
「拝み屋の慈恩です」
おれは、履歴書を出した。
名前の欄だけが白い。
慈恩さんは、紙を光に透かした。
裏返し、机に置く。
「履歴書に、何かが憑いてるわけじゃないですね」
「じゃあ、どうして消えるんですか」
「さあ。誰が消してるんでしょう」
「それを訊きに来たんです」
「心当たり、あるでしょう」
細い目が、おれを見た。
「名前を書くとき、何を考えてます?」
答えようとして、言葉に詰まった。
履歴書に名前を書くたび、頭に浮かぶものがある。
――また落ちる。
――こいつは要らない、と言われる。
――こんな名前、書く意味があるのか。
口には出していなかった。
それでも、毎回、考えていた。
「名前ってのは、自分がここにいると、相手に差し出すものです」
慈恩さんは言った。
「あなたは書くたびに、自分で引っ込めてる。どうせ要らないだろうって」
「治せますか」
「消えないペンなら、文房具屋で売ってますよ」
「そういう話じゃなくて」
「そういう話です」
慈恩さんは、少し笑った。
「ぼくが赤の他人のあなたに、『必要な人間です』と言えば、治りますか?」
答えられなかった。
たぶん、その場では安心する。
けれど、次の不採用通知が来たら、また消える。
「あなたは、自分に不採用を出すのが、少し早すぎるんですよ」
慈恩さんは、鞄からはみ出していた紙の束を指した。
「それ、見せてもらえます?」
不採用通知を、机に並べた。
赤い丸と、書き込みだらけの紙を見て、慈恩さんが一枚を持ち上げた。
「『ご検討』じゃなくて、『ご健勝』」
「間違っていたので」
「こっちは、会社名の株式会社が前と後で違う」
「それも間違いです」
「これは?」
「日付が、前年のままです」
慈恩さんは、何枚かめくった。
「よく見つけますね」
褒められた気はしなかった。
「落ちた会社の粗を探してるだけです。みじめな癖ですよ」
「癖かどうかは、使う場所で変わります」
慈恩さんは、不採用通知を束に戻した。
「あなた、いいものを持ってますね」
「何ですか」
「言いません」
「どうして」
「言ったら、また履歴書に書くでしょう。『私の長所は何々です』って。それで会社に値段をつけてもらう」
図星だった。
「田口さんの会社、小さな工場ですね」
「知ってるんですか」
「いいえ。あなたから、油と鉄のにおいがするので。最近、行ったでしょう」
昨日、田口に呼ばれ、荷物運びを手伝っていた。
「もう一度行ってください。就職させてもらうためじゃなくて、何か困ってないか訊きに」
田口の会社は、社員六人の小さな部品工場だった。
翌日、訪ねると、田口は出荷前の検査記録を整理していた。
人手が足りず、三日分たまっているらしい。
「数字を転記するだけだから」
そう言われて、おれは手伝った。
紙に書かれた測定値を、パソコンへ入力する。
二日目。
同じ製品なのに、検査表によって基準寸法の数字が違うことに気づいた。
一枚だけ、小数点以下の数字が入れ替わっていた。
おれは田口を呼んだ。
「これ、どっちが正しい?」
田口の顔色が変わった。
古い検査表が混ざり、去年変更された規格が、一部だけ戻っていたらしい。
その数字を基準に検査した二箱は、出荷直前だった。
田口と工場長が、倉庫へ走った。
調べ直すと、二箱のなかから、基準を外れた部品が見つかった。
「よく気づいたな」
田口が言った。
「数字が違ってたから」
「俺、毎日見てたのに、気づかなかった」
おれは、もう一度、検査表を見た。
特別なことをしたつもりはなかった。
ただ、違っているものが、気になった。
工場長は、その日から一週間、検査記録を整理する仕事を頼んできた。
正社員ではない。
採用でもない。
それでも、おれが見つけたものを、必要だと言ってくれた。
一週間後、家で新しい履歴書を開いた。
氏名の欄に、名前を書く。
また消える気がして、しばらく目をそらせなかった。
黒い字は、少しも薄くならない。
次の朝も、名前は残っていた。
けれど、おれは、その履歴書を送らなかった。
代わりに、新しい紙を一枚出した。
工場で気づいたこと。
検査表の直したほうがいいところ。
間違いが起きにくくなる並べ方。
思いついたことを、上から順に書いた。
最後に、自分の名前を書いた。
誰かに選んでもらうためではない。
これを見つけたのは、おれだと残すために。
引き出しの奥には、四十三枚の通知がある。
あれは、もう、才能の証明ではない。
落ちた記録は、落ちた記録だ。
ただ、その全部に赤い丸をつけた目は、四十四枚目の履歴書にも、ちゃんとついている。
名前は、もう消えなかった。
落ちた記録ではなく、間違いに気づける目を持っている、という記録。
慈恩は、才能の名を言いません。値札をつけさせない、ためでした。




