前編 ぜんぶ、聞こえる
人の考えが、声になる前から聞こえる男のお話です。
営業成績は全国一位。詐欺も見抜く。それなのに——前編です。
人の考えというものは、声に出る半歩手前が、いちばん正直だ。
私には、その半歩手前が、生まれたときから聞こえている。
最初に聞いたのは、母の考えだった。
三つか四つのころだ。
熱を出した私の枕もとで、母は「かわいそうに」と言いながら、頭のなかでは、明日のパートを休む言い訳を数えていた。
責める気はない。
ただ、そのとき知ったのだ。
人間は、口と頭の、二枚でできている。
そして、本当のことを言うのは、いつも頭のほうだと。
小学校では、先生の頭に浮かんだ答えを、挙手より先に言った。
中学では、「親友だろ」と笑う相手の頭から、「調子に乗るなよ」と聞こえた。
高校を出るころには、覚えた。
この耳は、隠して使うものだ。
人に好かれることには、一度も役に立たない。
人に勝つことには、いくらでも役に立つ。
いま、私は生命保険会社の営業部長をしている。
四十二歳。
営業成績は、全国一位を八年続けた。
種を明かせば、簡単だ。
客が口で「考えておきます」と言う。
頭は「保険料が高い」と言っている。
ならば、値段の話だけをすればいい。
「妻に反対される」と聞こえたら、奥様向けの資料を出す。
断り文句を失った客は、契約する。
三年前には、会社へ投資話を持ち込んだ男の考えを聞いた。
――この決裁権者なら、三千万は引ける。
私は一言で追い返した。
役員たちは、私を「人を見る天才」と呼んだ。
半分だけ、正しい。
私は人を見たことなど、一度もない。
聞いているだけだ。
――間違えたことは、ないはずだった。
岡本という部下がいた。
二十七歳。
実直で、頭のなかまで実直な男だった。
仕事を渡すたび、彼の頭は言った。
――やれます。
ある晩、私は大口案件を二つ、彼の机に置いた。
岡本の顔が、一瞬、こわばった。
それでも、頭は迷いなく言った。
――やれます。
本音がそう申告している。
ならば、任せて何が悪い。
私は数字だけを確認して、会議室を出た。
あの晩の彼の顔を、私は思い出せない。
頭しか、聞いていなかったからだ。
私は任せ続けた。
岡本は、この春から会社に来ていない。
診断は、うつ病だった。
私は、上等な機械が壊れたときのような不快を覚えた。
彼の頭は、最後の日まで「やれます」と言っていた。
どこにも、エラーはなかった。
それなのに、壊れた。
妻が出て行ったのは、半年前だ。
前の晩も、妻の頭は、味噌の買い置きと、ベランダの鉢の植え替えを考えていた。
不満の言葉は、一語もなかった。
翌朝、食卓に書き置きがあった。
「あなたと暮らすと、自分が、いなくなる」
意味が取れなかった。
いなくなるも何も、妻の考えなら、誰よりも私が聞いていた。
字は、ところどころ滲んでいた。
私はそれを捨てず、鞄の内ポケットに入れた。
なぜ入れたのかは、分からない。
先月、岡本の見舞いに行った。
本人には会えず、玄関先に母親が出てきた。
「息子が、ご迷惑をおかけして……」
口では、そう詫びていた。
だが、頭は違った。
――この人だ。
――この人が、うちの子を。
私は聞こえなかったふりをして、帰ろうとした。
その背中に、母親が言った。
「神宝町に、拝み屋さんがいるんです」
岡本の相談をしたところ、妙なことを言われたらしい。
――憑き物じゃないですよ。強いて言えば、その上司の方が、少し変わった耳をしてる。
会ったこともない人間の耳を言い当てた。
詐欺師の手口を暴いてやろうと思った。
少なくとも、私は、そういうことにした。
神宝町のはずれにある、看板もないビル。
その十階に、拝み屋はいた。
ドアを開けると、煙草のにおいがした。
よれたアロハシャツを着た男が、古い腕時計のねじを巻いている。
机の上には、小さな塩の瓶と、ポケット灰皿。
「拝み屋の慈恩です」
私は、椅子に座るより先に、彼の頭を聞いた。
初対面の人間は、まず頭から聞く。
それが、私の癖だった。
――ねじ、巻きすぎたな。
それだけだった。
値踏みも、警戒も、営業の算盤もない。
頭と口のあいだに隙間のない人間を、私は初めて見た。
慈恩さんは腕時計を置き、私の顔の少し上を見た。
糸のような目が、上から下へ動く。
「ああ、なるほど」
彼は言った。
「よく聞こえる耳だ。会う前から、だいたい聞こえてるでしょう。ぼくが次に言うことも」
聞こえていた。
私は、驚いたふりだけをした。
そして、試すつもりで話した。
部下のこと。
妻のこと。
書き置きの一行。
感情を交えず、決裁報告のように。
慈恩さんは、最後まで黙っていた。
やがて、腕時計を机に置いた。
「で――」
その音が、妙に大きく聞こえた。
「それだけ聞こえるのに、奥さんが出て行った理由は、聞こえなかった」
口は「考えておきます」。頭は「保険料が高い」。彼には、ぜんぶ聞こえます。
それなのに、書き置きの一行だけが読めない。後編へ。




