後編 影の餌
翌日、わたしは、また十階へ行った。
昨日より、影は重くなっていた。
エレベーターを降りてから、部屋のドアまでの数歩が、ひどく遠かった。足首に絡む黒いものが、一歩ごとにわたしを後ろへ引く。
それでも、わたしは頭を下げた。
「消してください」
声が、喉の奥でひっかかった。
「お願いします。もう、耐えられないんです」
慈恩さんは、煙草をくわえて、火はつけずに、言った。
「祓っても、また太りますよ」
「……どういう、ことですか」
「こいつはね」
彼は、わたしの影を指した。
「妖なんです。影喰、とでも言っておきましょうか。人を襲うために来るんじゃない。人の気持ちに、寄り添いすぎて、こうなる」
寄り添う、という言葉が、その黒い塊に、ちっとも似合わなかった。
わたしの足首を冷たく締めつけているものが、寄り添っている。
そう言われても、すぐには飲み込めなかった。
「あなたは、十三年、自分に『お前が悪い』って言いつづけた。こいつは、それを、そばで聞いてた。毎日、毎日。……そのうち、いっしょに言うようになったんです。あなたに代わって、あなたのぶんまで。『そうだ、お前が悪い』って。うなずいて、慰めてるつもりで」
慈恩さんは、めずらしく、少しだけ声を落とした。
「悪気は、ないんですよ。こいつは、あなたに、いてほしかっただけだ。あなたが自分を嫌うぶんだけ、こいつは太って、あなたのそばに、いられる」
足もとの影が、ほんの少し揺れた。
喜んだようにも、怯えたようにも見えた。
だから、と彼は言った。
「餌をやめないと、いくら祓っても、また来る。腹が減れば、においを嗅ぎつけて、戻ってくる。だから、ぼくが消しても、意味がないんです」
「餌、って」
「謝ってるでしょう。一日に、何回も」
図星だった。
スーパーで、レジに並ぶ人に。
すみません。
電車で、肩がぶつかった人に。
すみません。
会社で、自分は悪くないときでも。
すみません、わたしが。
口ぐせのように、息を吐くように、わたしは一日じゅう、謝っていた。
「その『すみません』が、ぜんぶ、こいつのごはんです」
慈恩さんは言った。
「あなたは、自分を差し出すのが、上手になりすぎた。十三年、練習させられたんだから、上手にもなる」
「じゃあ、どうすれば」
慈恩さんは、指を一本、立てた。
「一日に、一回だけでいい。『違います』って、言ってください」
「……それだけ、ですか」
「それが、いちばん難しいんです。あなたには」
そのとおりだった。
◆◇
家に帰って、鏡の前で、練習した。
ちがいます。
声が、出なかった。
喉のところで、つかえた。
「違います」と言おうとすると、すぐうしろで、あの声がした。
お前が悪いくせに。
おまえに、何を否定する権利がある。
影が、足首を、きゅっと締めた。
おかしなことに、その声は、責めているだけでは、なかった。
ときどき、すがるように、聞こえた。
いかないで。
おまえには、わたししか、いないでしょう。
まるで、わたしを、手放したくないみたいに。
慈恩さんの言葉を、思い出した。
こいつは、あなたに、いてほしかっただけだ。
ぞっとした。
それなのに、ほんの少しだけ、かなしかった。
十三年、いちばんそばにいたのは、この、黒い声だったのかもしれない。
◆◇
一日目、言えなかった。
二日目も。
三日目、スーパーで、前の人が落とした財布を拾って渡したのに、「見てたんでしょう」と睨まれた。
違います、と胸のなかでは思った。
でも、口から出たのは、「すみません」だった。
影は、その晩、天井まで届いた。
わたしが布団に入ると、黒いものが部屋の隅まで広がっていた。
満腹になったものが、静かに寝そべっているみたいだった。
四日目は、電車だった。
降りる人の波に押されて、よろけて、隣の人の足を踏んでしまった。
反射のように、「すみません」が出た。
踏まれたのは、わたしのほうだったのに。
違います、と言えばよかった。
でも、相手の顔が少しでも曇るのが怖かった。
面倒になる前に、自分を差し出したほうが早い。
その癖が、わたしの口を勝手に動かした。
影は、足首からふくらはぎまで這い上がった。
五日目、会社で、コピー機が紙づまりを起こしていた。
わたしが使う前から、詰まっていた。
それでも、通りかかった課長に、「あ、すみません」と、頭を下げていた。
課長は、こちらを見もしなかった。
それなのに、影だけが、うれしそうに濃くなった。
わたしが謝るたび、ひとまわり太る。
夜、布団に入ると、足首のあたりが、氷みたいに冷たかった。
一週間、言えなかった。
◆◇
その週の金曜だった。
会社で、わたしの担当ではない書類の不備を、上司が、わたしのせいにした。
みんなの前で。
「これ、全部、君が悪いんだよな」
いつもなら、うつむいて、すみませんと言う場面だった。
そう言えば、その場は終わる。
誰も、機嫌をそこねない。
わたしだけが、少し、へこむ。
それだけだ。
十三年、そうやってきた。
結婚していたころも。
離婚してからも。
会社でも。
スーパーでも。
電車でも。
わたしが悪いことにすれば、空気は荒れない。
わたしが悪いことにすれば、誰もそれ以上、わたしを見ない。
でも、その日、足もとの影が、いつもより、ずっと重かった。
もう、これ以上は、ひとかけらも、食べさせたくないと思った。
十三年ぶんの、その先の、たった一日ぶんも。
謝ろうとして、息を吸った。
その息が、うまく、吸えなかった。
足首の影が、期待するように、ぬくもって、締まった。
さあ、いつものやつを、と。
待たれている。
その感じが、いやだった。
生まれて初めて、心の底から、いやだと思った。
わたしは、顔を上げた。
「……違います」
声は、震えていた。
小さかった。
でも、言った。
上司の眉が動いた。
まわりの人の視線が、こちらに集まる。
怖かった。
喉が閉じそうだった。
それでも、もう一度、言った。
「この不備は、わたしの担当ではありません」
指先が震えていた。
膝も震えていた。
でも、足は床についていた。
「わたしは、悪くありません」
生まれて初めて、他人に向かって、そう言った気がした。
その瞬間だった。
足もとで、なにかが、崩れる感触がした。
見ると、あんなに黒く、長く、重かった影が、さらさらと、砂のように、端から崩れていく。
足首の冷たさが、ふっと、ほどけた。
窓から差す夕方の光のなかで、わたしの影は、みるみる縮んで、ただの、普通の、わたしの形になった。
崩れた砂は、床に触れる前に、光に溶けて、消えた。
あとには、なにも残らなかった。
十三年ぶんの重さが、こんなにも、あっけなく。
わたしは、しばらく、自分の足もとを、見ていた。
ただの、短い影を。
憎らしいほど、軽かった。
上司は、変な顔をしていた。
まわりの人も。
でも、もう、どうでもよかった。
◆◇
その帰り、わたしは、また十階に寄った。
報告したかったのだ。
子どもみたいに。
慈恩さんは、話を聞いて、糸目のまま、少しだけ笑った。
それから、いつもの気のない声で、言った。
「妖怪って、案外、ダイエットに弱いんですよ」
わたしは、少し、笑ってしまった。
半年ぶりか、もっとぶりに。
「一回崩れたからって、油断しないで」
帰りぎわ、彼は、無地のカードを一枚、くれた。
「腹を空かせて、また来るかもしれない。来たら、また、言ってやってください。一日、一回でいい。祓うのは、ぼくじゃない。あなたの口です」
カードには、なにも書いていなかった。
「あなたの言葉で、一言」
慈恩さんは言った。
◆◇
家に帰って、わたしは、そのカードに、書いた。
長いこと、ペンが動かなかった。
三十四年、誰にも言われなかったし、自分でも、思ったことのない言葉だった。
「わたしは、悪くない」
書いた字は、朝になっても、消えていなかった。
朝、カーテンを開けた。
東の窓から、光が入ってくる。
影は、わたしの足もとで、ちゃんと、短くなっていた。
朝の光の、いくべき向きに、みんなと同じ長さで。
わたしは、窓ぎわを避けなかった。
短い影を連れて、まっすぐ玄関まで歩いた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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