後編 ひとつも、分からない
拝み屋の診立ては「祓うものが、何もない」。
四十二年目の宿題と、作中いちばんの一言のお話です。後編です。
図星を刺されて、居直る客を、この人は何人も見てきたのだろう。
私が言い返す前に、慈恩さんは茶をひと口飲んだ。
「最初に言っておきます。あなたに、憑き物はいません」
「なら、この耳は何です」
「生まれつきの才能です。化け物じみてますけど」
「それなら、妻と部下のことだけ説明してください」
「できますよ」
慈恩さんは、あっさり答えた。
「問題は、あなたに聞こえているものの正体です。あれは、心じゃない。頭のなかで、言葉になったものです」
「同じことでしょう」
「ぜんぜん違います」
初めて、強い声だった。
「人は、いちばん最初に、言葉で自分に嘘をつくんです」
私は黙った。
「岡本くんの頭は、最後まで『やれます』と言ってた。そうでしょうね。潰れかけた人ほど、頭のなかで唱えるんです。まだやれる。大丈夫だ。そう言っていないと、立っていられないから」
「では、本音ではなかったと?」
「悲鳴の、裏返しです」
慈恩さんは、自分の目の下を指でなぞった。
「顔色。声のかすれ。手の震え。そういうところに、先に出ていたはずです。ほかの人は、そっちを見ます」
「私の妻は、何も考えていなかった。葬式のときも、出て行く前の晩も」
「悲しみは、考えませんよ」
その言葉に、私は顔を上げた。
「深い悲しみほど、言葉になるのは、ずっとあとです。頭が段取りを考えている、その下で、音のしないものが鳴っている。あなたは、聞こえる言葉を正解だと思って、その下を見なかった」
糸のような目が、わずかに開いた。
「あなた、頭は読めても、心は読めないんですね」
私は反論した。
感情は数字にならない。
契約も法廷も、感情では動かない。
読めなくても、私は勝ってきた。
慈恩さんは、否定しなかった。
「勝ってきたでしょう。これからも、たぶん勝てます」
湯呑みが、机に置かれた。
「で、いま、家に誰がいます?」
答えられなかった。
広くて、静かな部屋が浮かんだ。
あの静けさを、私はずっと、勝ちの積み上がる音だと思っていた。
「賢いことと、人の痛みが分かることは、別の才能です。あなたは片方だけを、化け物みたいに持って生まれた」
「もう片方は、私にはないと?」
「ありますよ。練習すれば」
「……練習」
「聞こえた言葉を、答えにしない。口で訊くんです。いま、どういう気持ちだ、と。相手が答えるまで待つ。分からなくても、最後まで聞く」
帰りぎわ、慈恩さんは、無地のカードを一枚くれた。
「あなたの言葉で、一言」
翌週、私は、もう一度、岡本の家を訪ねた。
今度は、部屋へ通された。
岡本は、パジャマの上に上着を羽織り、目を伏せていた。
頭を聞くまいとした。
だが、無理だった。
――やれます。
――すみません。
――まだ、やれます。
壊れたレコードのように、同じ言葉が回っていた。
私は、初めて彼の顔を見た。
頭ではなく、顔を。
目の縁が赤い。
頬が痩せている。
膝の上で重ねた指が、小さく震えていた。
言葉とは、まるで違うものが、そこにあった。
きっと、最後の日の朝にもあったのだ。
私が見なかっただけで。
「岡本」
私は、口で訊いた。
「いま、どういう気持ちだ」
沈黙が続いた。
頭のなかでは、まだ「やれます」が回っていた。
やがて、岡本の唇が動いた。
「……こわい、です」
私は、聞こえるほうではなく、目の前の顔を信じた。
「すまなかった」
何が、どう、悪かったのか。
私は、まだ正確には分かっていなかった。
分からないままの謝罪など、私の基準では欠陥品だった。
それでも、岡本は泣いた。
私は口を挟まず、そこにいた。
彼の悲しみは、最後まで聞こえなかった。
見えただけだった。
たぶん、それでよかったのだと思う。
数日後、神宝町へ報告に行った。
慈恩さんは、糸目のまま訊いた。
「分かりましたか。部下の気持ち」
「いえ」
私は答えた。
「ひとつも、分かりませんでした」
「上出来です」
慈恩さんは、少し笑った。
「世の中の人は、みんな分からないまま訊いて、間違えて、謝って、それでやってるんです。あなたは、四十二年遅れの新人です」
家に帰り、私は、もらったカードに文字を書いた。
どんな決裁より、時間がかかった。
『分からないので、訊きます』
妻には、まだ会いに行けていない。
ただ、鞄の内ポケットから、書き置きを取り出すことがある。
読むたび、滲んだ字のところで目が止まる。
以前の私は、そこに書かれた言葉だけを読んでいた。
いまは、その滲みの理由を考える。
答えは、出ない。
出ないから、いつか、本人に訊かなければならない。
人の頭は、今日もうるさい。
駅でも、会議室でも、言葉が絶えず流れ込んでくる。
その下で鳴っているという、音のしないものを、私は、まだ聞いたことがない。
ただ――。
それが鳴っていることだけは、もう知っている。
「分からないので、訊きます」。読める男の、はじめての練習でした。
知能と共感は、別物。それでも、訊くことはできる。ここで一区切りです。




