誰もいない家族写真
何度シャッターを切っても、その子だけが、写真の中から消えようとする。
真ん中で笑う両親と、姉。
父親に抱かれた、幼い弟。
四人は、くっきり写る。
それなのに、いちばん左端に立つ小学生の兄だけが、すりガラスの向こうにいるみたいに、うすい。
撮り直すたび、その子は、さらに透けていった。
露出の失敗ではない。
ピントの問題でもない。
祖父の代から続く写真館で、わたしは三代目になる。
七五三も、卒業写真も、遺影用の写真も撮ってきた。
人がうまく写らない理由くらい、いくつも知っている。
けれど、この薄さは違った。
カメラが失敗しているのではなく、その子のほうが、写真から半歩退こうとしている。
そんな写り方だった。
七五三でも、卒業でもない、ただの「家族写真」を撮りに来たその一家で、それは起きた。
次男の光太くん。
ほかの家族は問題ない。
何度撮っても、あの子だけが、フィルムに乗らない。
試しに借りたデジタルカメラでも、同じだった。
気味が悪くて、昔から噂に聞いていた、神宝町の拝み屋を呼んだ。
◆◇
来たのは、三十前の、痩せた男だった。
糸のように細い目。
よれたアロハシャツ。
ポケットに、小さな灰皿。
慈恩と名乗った彼は、わたしが並べた失敗写真を、一枚ずつ、黙って見た。
それから、付き添いで来ていた光太くん本人を、長いこと、見た。
光太くんは、待合の椅子の端に座っていた。
膝の上で、両手をぎゅっと握っている。
姉が母親に学校の話をしている横で、父親は弟の背中をさすっていた。
光太くんは、そのどちらにも入らず、ただ床の木目を見ていた。
「この子、写るのが下手なんじゃない」
慈恩さんは言った。
「写らないように、写ってるんです」
「どういう」
「見てください。いつも列の端。半歩下がって。顔を伏せて。カメラと、目を合わせない」
彼は写真を指でなぞった。
「自分を、小さく写そうとしてる。何年も、そうしてきた癖です」
わたしは、光太くんを見た。
慈恩さんの言うとおり、その子は、わたしと目が合うと、すっと下を向いた。
さっきまで、わたしはそれを「緊張している」と思っていた。
写真館に来る子どもには、よくあることだと。
でも違った。
この子は、緊張しているのではない。
目立たないようにしている。
「お姉ちゃん、優秀でしょう。弟さん、体が弱い」
慈恩さんは、両親のほうへ、ちらりと目をやった。
「お父さんとお母さんの目は、その二人で、いっぱいだ。この子に向く番が、もう何年も、回ってきてない」
母親が、なにか言いかけて、口をつぐんだ。
父親は弟を抱き直した。
悪気がある顔ではなかった。
ただ、今も自然に、光太くんではなく弟のほうを見ていた。
「見てもらえない子は、自分で自分を、消すんですよ。撮り直すたび、『また、ぼくのせいだ』って、もっと縮む」
光太くんの肩が、小さく揺れた。
その子は、何も言わなかった。
何も言わないことに、慣れた子の顔だった。
◆◇
慈恩さんは、立ち上がって、館の奥の、古い柱に近づいた。
指先で、隅のほうを撫でて、止まる。
「ここ、昔、焼けてますね」
「……ええ。祖父が、戦争のあと、焼け残りの柱を使って、建て直したと」
その柱の話は、子どものころから聞かされていた。
この館でいちばん古いものだと。
祖父は、柱だけは替えなかった。
写真館は、人がいた証を残す場所だから、建物にも証がいるのだと、よく言っていた。
「なるほど」
彼は、その翳りを、しばらく撫でていた。
「この写真館には、ずっと、居るんです。空襲で親を亡くして、誰にも撮ってもらえないまま、消えた子が。……怨んでるんじゃない。ただ、さみしいだけの子です」
背筋が、冷たくなった。
祖父の古いアルバムに、名前のない子どもの写真が何枚かあったのを思い出した。
けれど、その中に写ることさえできなかった子がいたのだとしたら。
この館は、ずっとその子の寂しさを、柱の奥に抱えていたのかもしれない。
「その子が、光太くんに、共鳴してる。『自分は、いない方がいい』って気持ちに。写してもらえなかった子と、見てもらえない子だ。似た者どうしなんですよ」
わたしは、手の中の写真を見た。
薄く写った光太くんの横に、誰かの影が重なっているような気がした。
でもそれは、怖い影ではなかった。
一緒に端へ寄っている、小さな影だった。
◆◇
そこへ、様子を見に来た両親が、口をそろえて言った。
「早く、息子を元に戻してください」
慈恩さんは、首を振った。
「消したの、ぼくじゃないですから」
細い目が、開いた。
「戻すのも、ぼくの仕事じゃない」
両親が、絶句した。
「祓いはしません。代わりに、撮る順番を、変えてもらいます」
慈恩さんは、わたしのほうを向いた。
「家族写真の前に、この子だけを、一人で撮ってください」
「主役でもないのに」と、父親が言った。
その言葉に、光太くんの指がまた強く握られた。
慈恩さんは、取り合わなかった。
わたしも、取り合わなかった。
その瞬間、わたしは少しだけ恥ずかしくなった。
写真館の人間なのに、わたしも同じことをしていた。
家族写真の中のひとりとして、この子を並べただけだった。
この子ひとりを、ちゃんと見ていなかった。
慈恩さんは、光太くんの前に、しゃがんだ。
「きみが、決めていい。どこに立つか。カメラの、どこを見るか。どんな顔をするか。……誰も、指図しないから」
光太くんは、しばらく動かなかった。
両親を見た。
姉を見た。
弟を見た。
それから、おそるおそる、レンズの正面に立った。
誰にも譲らず、真ん中に。
わたしは、その子が、自分から、ファインダーのどまん中に立つのを、初めて見た。
「笑わなくてもいいよ」
わたしは言った。
「まっすぐでも、横でも、下でも。光太くんが決めていい」
光太くんは、少し迷ってから、レンズを見た。
笑わなかった。
でも、目をそらさなかった。
シャッターを、切った。
◆◇
一人で撮った写真には、光太くんが、はっきり写っていた。
薄くも、透けても、いなかった。
ちゃんと、そこにいた。
両親が、息を呑んだ。
母親は、写真と光太くんを交互に見た。
父親は、何か言おうとして、言葉を失くしたようだった。
けれど、そのあと撮った家族写真では、あの子は、まだ少し、薄かった。
完全には、治らない。
家庭の目が、一日で変わるわけではないからだ。
慈恩さんも、それは言っていた。
「ここから先は、ぼくの仕事じゃない」と。
それでも。
家族写真の撮り直しのとき、光太くんが、初めて、自分から口を開いた。
「僕、ここがいい」
姉の隣の、真ん中寄りの場所を、指さして。
誰かに譲られたのでも、押しやられたのでもない。
自分で選んだ、立ち位置だった。
母親が、少し驚いた顔をした。
それから、小さくうなずいた。
父親は弟を抱いたまま、半歩、横へずれた。
光太くんが、そこに立った。
わたしはファインダーをのぞいた。
さっきより、家族の形が少しだけ変わっていた。
その少しだけを、撮るのが、わたしの仕事だった。
◆◇
仕上がった家族写真の、真ん中すこし左。
光太くんは、まだ、うっすらしている。
でも、もう、消えかけてはいない。
自分の足で立っている。
自分で選んだ場所で、カメラを見ている。
そして、館の古い柱の隅の翳りも、その日から、少しだけ、薄くなった気がした。
写してもらえなかった子が、やっと一人、ちゃんと写る子を、見届けたみたいに。
それからわたしは、家族写真を撮る前に、必ず子どもへ訊くようになった。
「どこに立ちたい?」
誰かの後ろでも、端でもなく。
その子が、自分で選ぶまで、シャッターは切らない。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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