植え込みの、奥
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
【FM歴】 FM18 〜
それでは、本編をお楽しみください。
——海斗
夏休みの、朝。
学校がない。
それだけで、楽になるはずだった。
それでも、楽には、ならない。
目が覚めると、まず脇腹を確かめる。
布団のなかで、そっと。
指で押すと、奥のほうが、まだ熱を持っている。
昨日の。
色は見ない。
見なくても、わかる。
紫が、黄色に変わりかけている頃だ。
起き上がると、肋骨のあたりが引きつった。
息を、浅くする。
深く吸うと、痛む。
だから、浅く。
顔は、無事だった。
やつらは、顔を狙わない。
殴るのは、服で隠れるところだけ。
だから母さんは、気づかない。
台所へ行くと、母さんは、もう出る支度をしていた。
「海斗、陽菜のこと、お願いね。学童、九時までに送ってって」
「うん」
「お昼は冷蔵庫。翼のミルク、忘れないで」
「わかった」
「ありがと。……ほんと、助かる」
母さんは、ぼくのほうを見ずに言う。
見たら泣くから、かもしれない。
それか、ただ見る時間がないだけか。
どっちでも、いい。
見られたら、困る。
長袖を着ていた。
六月の終わりの、もう夏みたいな朝に。
「あんた、暑くないの、それ」
母さんが、振り向かずに言う。
鞄に何かを詰めながら。
「冷房、効きすぎてるとこ行くから」
嘘は、すらすら出る。
最近、上手くなった。
「……そう」
母さんは、それ以上聞かなかった。
聞く時間も、たぶんない。
「いってきます」
母さんの足音が、玄関で消える。
それから、家のなかがすこし広くなった。
陽菜が、起きてくる。
寝癖のついた頭で、目をこすりながら。
「おにいちゃん、おなかすいた」
「パン、焼くよ」
「ジャムは?」
冷蔵庫に腕を伸ばす。
途中で、脇腹が引きつった。
息を止めてやり過ごす。
「いちごの、あったかな」
「いちごがいい」
陽菜のほうへ背を向けたまま、トースターのつまみを回す。
「ねえ、きょう、プールある?」
「あるよ。学童で」
「やった。あのね、きのうね、めぐちゃんがね、ビート板でバタフライしたの」
陽菜の話は、いつも誰かの話から始まる。
めぐちゃん、せんせい、ひまわり組のだれか。
世界が、まだ、優しい人でできている。
「でね、せんせいに、おこられたの」
「そっか」
相槌だけ打っていれば、陽菜は勝手に喋り続ける。
聞いていなくても、ばれない。
聞いている、というだけで、陽菜は満ちる。
「おにいちゃんも、プールくる?」
「……兄ちゃんは、行かないよ」
陽菜が、振り向く。
不満そうに。
「なんで」
「もう、おっきいから」
水着になれば、痣が見える。
それだけのことが、言えない。
「えー。むかしは、いっしょにプールいったのに」
「……むかしの話だろ」
「むかしって、いつ?」
「忘れた」
忘れたわけじゃない。
去年の夏は、まだボールを蹴っていた。
陽菜は、すこし口をとがらせた。
それから、すぐ忘れて、焼けたパンにいちごジャムを、山ほど塗りはじめる。
「いってきまーす」
手を振る陽菜の、小さな背中。
学童までの道を、ぼくの半歩うしろを、跳ねるように歩く。
「おにいちゃん、はやい」
「ごめん」
歩く速さも、わからなくなっていた。
「ねえ、なんで長そでなの。あついよ」
「……兄ちゃんは、寒がりなんだ」
「へんなの」
陽菜が、笑う。
その笑い声だけは、まだ何にも汚されていない。
守らないと。
これだけは。
角の家の前で、田中さんのおばさんが、水やりをしていた。
「あら、海斗くん。えらいわねえ、毎朝、妹さん送って」
「いえ」
「お母さん、大変そうだもんねえ。あんたが、しっかりしないと」
「……はい」
しっかり。
その言葉が、肩に、また一枚、積もる。
みんな、ぼくに、優しい。
優しいから、誰も、気づかない。
ぼくだって、誰かにしっかりしなくていいよ、と言われたい。
言われたら、たぶん立っていられなくなる。
だから、言われないほうがいい。
学童の門で、陽菜は、振り返らずに走っていった。
先生に、おはようございます、と頭を下げる。
先生は、ぼくの長袖を、ちらりと見た。
何も、言わなかった。
家に帰ると、翼が、泣いている。
ミルクの時間だ。
粉を、お湯で溶かす。
哺乳瓶を頬にあてて、温度を確かめる。
母さんが、そうしていた通りに。
翼は、ぼくの腕のなかで、必死に飲んだ。
小さな喉が、こくこく鳴る。
飲み終わると、翼は、また眠ってしまう。
背中を、とんとん、と叩いてやる。
げっぷのあと、口の端から、ミルクが垂れた。
ガーゼで、拭く。
全部、ぼくがやる。
母さんは、いないから。
弟と妹がいるあいだは、平気な顔ができる。
一人になると、顔がほどけてしまう。
家にいると、考えてしまう。
だから、外に出る。
昼前の住宅街は、誰もいない。
みんな、どこかにいる。
学校、仕事、学童。
居場所のある人たちは、居場所へ行く。
ぼくの足は、自然と公園のほうへ向かった。
大きな公園じゃない。
ブランコと、砂場と、植え込み。
それだけの、小さな公園。
昼間は、誰も来ない。
小さい子は学童に取られて、大きい子は別の場所へ行く。
ちょうど、空白の時間。
その空白に、ぼくはいる。
植え込みの、奥。
ツツジの、葉の裏。
大人の腰くらいの高さの茂みの、いちばん奥に、しゃがみ込む。
膝を抱えると、肋骨が痛んだ。
構わない。
ここなら、誰からも見えない。
日陰は、土の匂いがする。
湿った、冷たい匂い。
背中を塀に預けると、コンクリートの冷たさが、長袖ごしに、じわりと染みてくる。
長袖の内側は、もう汗で湿っている。
それでも、脱げない。
脱げば、痣が、外に出てしまう。
隠している、というより、なかったことにしている。
見えなければ、ない。
そういうことに、している。
目を、閉じる。
夏休みなのに、教室が、まぶたの裏に浮かぶ。
べつに、殴られるだけじゃない。
朝、机がいつも、ほんの少しずれている。
昼、教科書の向きが、入れたときと違う。
なくなったものは、ひとつもない。
だから、何も起きていないことになる。
返事をしても、会話はそのまま進む。
まるで、そこだけ椅子が空いているみたいに、誰の目も、ぼくを通り過ぎていく。
いちど、プリントが一枚足りなかった。
先生が「隣に見せてもらって」と言う前に、隣の席の子が、机を少しだけ離した。
その一センチに、たぶん、許可がいる。
誰も、笑っていなかった。
誰も、止めなかった。
その沈黙だけが、いちばんはっきり、ぼくの味方じゃなかった。
だから、ここがいい。
目を、閉じなおす。
ここには、机も、椅子も、視線もない。
誰の目も、通り過ぎる必要がない。
最初から、誰もいないから。
どこかで、音がする。
ボールを蹴る音。
遠い。
たぶん、川の向こうのグラウンド。
誰かが、サッカーをしている。
とん、とん、と地面を弾む音。
それから、ぱあん、と芯を食った音。
ぼくの体が、その音を覚えている。
膝の裏が、ひとりでに、走る形を、思い出そうとする。
去年まで、ぼくもあの音の側にいた。
うまかった。
……うまかったから、だ。
入ったばかりのぼくが、試合に出た。
先輩を、差し置いて。
「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ」
「一年のくせに、なんでお前なんだよ」
なんで、お前なんだよ。
ぼくが、答えを持っていたわけじゃない。
でも、あの問いに答えはなかった。
声だけは、よく覚えている。
生意気だ。
調子に乗るな。
理由は、あとから、いくらでもついた。
最初に何かが軋んで、それから、全部が軋みはじめた。
ボールには、もう触らない。
好きだった。
好き、とは、もう言えない。
遠くの音が、また鳴る。
ぱあん。
胸の奥が、ひとつ跳ねた。
走り出したい、と体のどこかが言う。
それでも、足は動かない。
膝を抱えたまま、動かない。
ガラケーを開くと、画面のすみに、知らない番号からのメール。
クラスの裏サイトの、URLだ。
また、何か書かれている。
開かなくても、わかる。
見ない。
ふたを、閉じた。
ポケットには、もう何も入っていない。
昨日、また持っていかれた。
母さんの財布から、出すしかなかった金だ。
返して、とは言えない。
言えば、次は、もっと持ってこいと言われる。
それも、たぶん、誰にも証明できない。
落ちていた、と言われたら、それまでだ。
膝に、額をつける。
ここには、誰も来ない。
だから、ここがいい。
世界が、この植え込みの奥だけになる。
それくらいが、ちょうどいい。
狭いほど、誰も入ってこられない。
明日のことを、考えようとする。
考えようとして、できない。
夏休みが明けたあとの教室を思っても、そこに、ぼくの席だけが、うまく見えない。
その先の景色が、どうしても、浮かんでこない。
でも、夕方には、陽菜を迎えに行く。
それだけは、ちゃんと、浮かぶ。
だから、まだ、立てる。
遠くで、また、ボールが鳴った。
その音が、だんだん小さくなっていく。
やがて、それも聞こえなくなる。
あとは、蝉と、自分の浅い息だけ。
——と。
すぐ近くで、かさり、と葉の音がした。
ぼくのいる茂みの、すぐ外。
ぼくは、息を止めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
★感想・評価をいただけると、執筆の励みになります。




