履歴書
履歴書を書くたびに、おれの名前だけが、薄くなる。
まるで、落ちるたびに社会から消されていくみたいに。
住所も、学歴も、志望動機も、ちゃんと残る。
なのに、いちばん上の「氏名」の欄だけ、書いた黒い字が、一日たつと灰色になり、二日で読めなくなる。
この一週間は、もっと早い。
ペンを置いて、顔を上げて、もう一度見ると――名前が、消えている。
まっさらな、白い欄だけが、残っている。
自分の名前を書いたはずなのに。
そこだけ、最初から誰もいなかったみたいに。
大学を出て、二年。
受けた会社は、四十三社。
全部、落ちた。
「採用を見送らせていただきます」
同じ文面の葉書が、机の引き出しに、束になっている。
最初のころは、読んで落ち込んだ。
そのうち、文面を比べるようになった。
この会社は句読点の位置が変だ。
この会社は宛名の敬称が抜けている。
この会社は日付と消印が合っていない。
そんなことを見つけては、みじめになった。
落とされた側が、落とした側の間違いを探してどうするんだ。
そう思って、葉書を引き出しの奥に押し込んだ。
でも、見つけてしまう。
間違いだけは、どうしても。
◆◇
友達の田口に、その話をしたら、変な顔をされた。
「おまえ、一回、拝み屋に見てもらえよ」
冗談だと思った。
でも、名前の消えた履歴書を見せたら、田口は笑わなかった。
神宝町の、看板もないビルの十階を、教えてくれた。
部屋には、煙草のにおいがこもっていた。
糸のように目の細い、痩せた男が、古い腕時計をいじっていた。
二十代の半ばくらいに見えた。
「拝み屋の慈恩です」と、その人は言った。
おれは、履歴書を出した。
名前の欄だけ、白い。
住所も、学歴も、志望動機もある。
なのに、氏名だけがない。
それを見られるのが、裸を見られるより恥ずかしかった。
慈恩さんは、それを長いこと見て、「なるほど」と言った。
「これ、履歴書に、なにかが憑いてるわけじゃないですよ」
煙をまっすぐ吐く。
「消してるのは、あなたです」
「おれが?」
「四十三回、落ちましたね」
数えていたわけでもないのに、その数字は、合っていた。
「そのたびに、あなたは思った。『自分は、社会に要らない人間だ』って。何十回も、自分で自分に言い聞かせた。……名前ってのは、魂と、糸でつながってるんです。あなたはその糸を、自分の手で、少しずつ切ってる。だから、名前だけが、消える」
おれは、履歴書の白い欄を見た。
違う、と言いたかった。
でも、違わなかった。
不採用通知を読むたび、思っていた。
おれは要らない。
この会社にも、あの会社にも、どこにも要らない。
そう思うたびに、名前を書く手が重くなった。
「治せますか」
「治すも、なにも」
慈恩さんは、少し笑った。
食えない笑い方だった。
「病気じゃない。あなたは、自分に×をつけすぎただけです」
慈恩さんは、おれの手を、ちらりと見た。
それから、目を、細いまま、ほんの少しだけ開いた。
なにかを見た顔だった。
「へえ」と、小さく言った。
「あなた、いいもの持ってますね」
「いいもの?」
「それは、言いません」
きっぱりと、彼は言った。
「言うと、あなたはまた、それを『会社に売れるかどうか』で計りはじめる。値札をつけた瞬間に、また落ちるのが怖くなる。だから、言いません」
おれには、意味が分からなかった。
褒められた気もしなかった。
ただ、値札、という言葉だけが残った。
おれはずっと、自分を会社の棚に置いていたのかもしれない。
誰かに値段をつけてもらうために。
誰かに、買ってもらうために。
◆◇
慈恩さんは、机の上の、おれの葉書の束を指さした。
さっき、鞄から出して見せたものだ。
「あなた、この不採用通知、一枚ずつ、間違い探してましたね。『この会社は、たぶんここの説明がおかしい』とか。無意識に」
図星だった。
落ちた会社の粗を探すのは、みじめな癖だと思っていた。
性格が悪いのだと思っていた。
「人の間違いを見つけるの、好きでしょう」
彼は、それだけ言った。
職業の名前も、向いてる仕事も、教えてくれなかった。
ただ、その一言だけ。
「田口さんの会社、小さいとこでしょう。人手、足りてないはずです。あなた、そこの製品を、いっぺん見せてもらいなさい。売り込むためじゃない。間違いを、探しに」
「仕事を、紹介してくれるんですか」
「違います」
慈恩さんは、即座に言った。
「あなたが何を見つけるか、見に行くだけです」
◆◇
田口の会社は、社員六人の、小さな部品工場だった。
おれは、手伝いのつもりで、出荷前の製品を、一つずつ見た。
金属の小さな部品が、箱の中に整然と並んでいる。
どれも同じに見えた。
最初の一時間は、何もわからなかった。
でも、見ているうちに、ひとつだけ角の光り方が違うものがあった。
次に、穴の位置がほんの少しずれているものがあった。
図面と見比べる。
定規を当てる。
何度も見直す。
三日目に、寸法のずれたロットを、二箱、見つけた。
田口が、目を丸くした。
「よく気づいたな。これ、出してたら、取引先に怒られてた」
その瞬間、おれは初めて、間違いを見つけて、みじめにならなかった。
誰かを笑うためじゃない。
自分を守るためでもない。
気づいたことで、何かが止まった。
誰かの仕事が、少しだけ助かった。
品質管理、というらしい。
おれは、その言葉を、あとで知った。
◆◇
家に帰って、久しぶりに、履歴書を書いた。
氏名の欄に、自分の名前を書いた。
ゆっくり、一画ずつ。
次の朝、見ると――名前は、消えていなかった。
黒いまま、そこに、残っていた。
でも、おれは、その履歴書を、どこにも送らなかった。
正社員になりたい、と思っていた。
どこでもいいから、拾ってほしいと。
でも今は、少しだけ、違う。
おれは、拾われるより先に、自分がなにをやるかを、選びはじめている。
引き出しの奥で、四十三枚の葉書は、まだ束のままだ。
でも、もう、一枚ずつ間違いを探す気には、ならない。
あれは、落ちた記録じゃない。
おれが、間違いに気づける目を持ってることの、記録だったんだと思う。
翌朝、おれは田口の工場へ、もう一度行った。
履歴書は持っていかなかった。
代わりに、昨日見つけたずれのメモを持っていった。
氏名の欄ではなく、メモの最後に、自分の名前を書いて。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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