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燃えカスの守り人 外伝  作者: K3
燃えカスサッカー

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13/17

植え込みの、奥

月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!


【FM歴】 FM18 〜


それでは、本編をお楽しみください。

——海斗


夏休みの、朝。

 

 学校がない。

 

 それだけで、楽になるはずだった。

 

 それでも、楽には、ならない。

 

 目が覚めると、まず脇腹を確かめる。

 

 布団のなかで、そっと。

 

 指で押すと、奥のほうが、まだ熱を持っている。

 

 昨日の。

 

 色は見ない。

 

 見なくても、わかる。

 

 紫が、黄色に変わりかけている頃だ。

 

 起き上がると、肋骨のあたりが引きつった。

 

 息を、浅くする。

 

 深く吸うと、痛む。

 

 だから、浅く。

 

 顔は、無事だった。

 

 やつらは、顔を狙わない。

 

 殴るのは、服で隠れるところだけ。

 

 だから母さんは、気づかない。

 

 台所へ行くと、母さんは、もう出る支度をしていた。

 

「海斗、陽菜のこと、お願いね。学童、九時までに送ってって」

 

「うん」

 

「お昼は冷蔵庫。翼のミルク、忘れないで」

 

「わかった」

 

「ありがと。……ほんと、助かる」

 

 母さんは、ぼくのほうを見ずに言う。

 

 見たら泣くから、かもしれない。

 

 それか、ただ見る時間がないだけか。

 

 どっちでも、いい。

 

 見られたら、困る。

 

 長袖を着ていた。

 

 六月の終わりの、もう夏みたいな朝に。

 

「あんた、暑くないの、それ」

 

 母さんが、振り向かずに言う。

 

 鞄に何かを詰めながら。

 

「冷房、効きすぎてるとこ行くから」

 

 嘘は、すらすら出る。

 

 最近、上手くなった。

 

「……そう」

 

 母さんは、それ以上聞かなかった。

 

 聞く時間も、たぶんない。

 

「いってきます」

 

 母さんの足音が、玄関で消える。

 

 それから、家のなかがすこし広くなった。

 

 陽菜が、起きてくる。

 

 寝癖のついた頭で、目をこすりながら。

 

「おにいちゃん、おなかすいた」

 

「パン、焼くよ」

 

「ジャムは?」

 

 冷蔵庫に腕を伸ばす。

 

 途中で、脇腹が引きつった。

 

 息を止めてやり過ごす。

 

「いちごの、あったかな」

 

「いちごがいい」

 

 陽菜のほうへ背を向けたまま、トースターのつまみを回す。

 

「ねえ、きょう、プールある?」

 

「あるよ。学童で」

 

「やった。あのね、きのうね、めぐちゃんがね、ビート板でバタフライしたの」

 

 陽菜の話は、いつも誰かの話から始まる。

 

 めぐちゃん、せんせい、ひまわり組のだれか。

 

 世界が、まだ、優しい人でできている。

 

「でね、せんせいに、おこられたの」

 

「そっか」

 

 相槌だけ打っていれば、陽菜は勝手に喋り続ける。

 

 聞いていなくても、ばれない。

 

 聞いている、というだけで、陽菜は満ちる。

 

「おにいちゃんも、プールくる?」

 

「……兄ちゃんは、行かないよ」

 

 陽菜が、振り向く。

 

 不満そうに。

 

「なんで」

 

「もう、おっきいから」

 

 水着になれば、痣が見える。

 

 それだけのことが、言えない。

 

「えー。むかしは、いっしょにプールいったのに」

 

「……むかしの話だろ」

 

「むかしって、いつ?」

 

「忘れた」

 

 忘れたわけじゃない。

 

 去年の夏は、まだボールを蹴っていた。

 

 陽菜は、すこし口をとがらせた。

 

 それから、すぐ忘れて、焼けたパンにいちごジャムを、山ほど塗りはじめる。

 

「いってきまーす」

 

 手を振る陽菜の、小さな背中。

 

 学童までの道を、ぼくの半歩うしろを、跳ねるように歩く。

 

「おにいちゃん、はやい」

 

「ごめん」

 

 歩く速さも、わからなくなっていた。

 

「ねえ、なんで長そでなの。あついよ」

 

「……兄ちゃんは、寒がりなんだ」

 

「へんなの」

 

 陽菜が、笑う。

 

 その笑い声だけは、まだ何にも汚されていない。

 

 守らないと。

 

 これだけは。

 

 角の家の前で、田中さんのおばさんが、水やりをしていた。

 

「あら、海斗くん。えらいわねえ、毎朝、妹さん送って」

 

「いえ」

 

「お母さん、大変そうだもんねえ。あんたが、しっかりしないと」

 

「……はい」

 

 しっかり。

 

 その言葉が、肩に、また一枚、積もる。

 

 みんな、ぼくに、優しい。

 

 優しいから、誰も、気づかない。

 

 ぼくだって、誰かにしっかりしなくていいよ、と言われたい。

 

 言われたら、たぶん立っていられなくなる。

 

 だから、言われないほうがいい。

 

 学童の門で、陽菜は、振り返らずに走っていった。

 

 先生に、おはようございます、と頭を下げる。

 

 先生は、ぼくの長袖を、ちらりと見た。

 

 何も、言わなかった。

 

 家に帰ると、翼が、泣いている。

 

 ミルクの時間だ。

 

 粉を、お湯で溶かす。

 

 哺乳瓶を頬にあてて、温度を確かめる。

 

 母さんが、そうしていた通りに。

 

 翼は、ぼくの腕のなかで、必死に飲んだ。

 

 小さな喉が、こくこく鳴る。

 

 飲み終わると、翼は、また眠ってしまう。

 

 背中を、とんとん、と叩いてやる。

 

 げっぷのあと、口の端から、ミルクが垂れた。

 

 ガーゼで、拭く。

 

 全部、ぼくがやる。

 

 母さんは、いないから。

 

 弟と妹がいるあいだは、平気な顔ができる。

 

 一人になると、顔がほどけてしまう。

 

 家にいると、考えてしまう。

 

 だから、外に出る。

 

 昼前の住宅街は、誰もいない。

 

 みんな、どこかにいる。

 

 学校、仕事、学童。

 

 居場所のある人たちは、居場所へ行く。

 

 ぼくの足は、自然と公園のほうへ向かった。

 

 大きな公園じゃない。

 

 ブランコと、砂場と、植え込み。

 

 それだけの、小さな公園。

 

 昼間は、誰も来ない。

 

 小さい子は学童に取られて、大きい子は別の場所へ行く。

 

 ちょうど、空白の時間。

 

 その空白に、ぼくはいる。

 

 植え込みの、奥。

 

 ツツジの、葉の裏。

 

 大人の腰くらいの高さの茂みの、いちばん奥に、しゃがみ込む。

 

 膝を抱えると、肋骨が痛んだ。

 

 構わない。

 

 ここなら、誰からも見えない。

 

 日陰は、土の匂いがする。

 

 湿った、冷たい匂い。

 

 背中を塀に預けると、コンクリートの冷たさが、長袖ごしに、じわりと染みてくる。

 

 長袖の内側は、もう汗で湿っている。

 

 それでも、脱げない。

 

 脱げば、痣が、外に出てしまう。

 

 隠している、というより、なかったことにしている。

 

 見えなければ、ない。

 

 そういうことに、している。

 

 目を、閉じる。

 

 夏休みなのに、教室が、まぶたの裏に浮かぶ。

 

 べつに、殴られるだけじゃない。

 

 朝、机がいつも、ほんの少しずれている。

 

 昼、教科書の向きが、入れたときと違う。

 

 なくなったものは、ひとつもない。

 

 だから、何も起きていないことになる。

 

 返事をしても、会話はそのまま進む。

 

 まるで、そこだけ椅子が空いているみたいに、誰の目も、ぼくを通り過ぎていく。

 

 いちど、プリントが一枚足りなかった。

 

 先生が「隣に見せてもらって」と言う前に、隣の席の子が、机を少しだけ離した。

 

 その一センチに、たぶん、許可がいる。

 

 誰も、笑っていなかった。

 

 誰も、止めなかった。

 

 その沈黙だけが、いちばんはっきり、ぼくの味方じゃなかった。

 

 だから、ここがいい。

 

 目を、閉じなおす。

 

 ここには、机も、椅子も、視線もない。

 

 誰の目も、通り過ぎる必要がない。

 

 最初から、誰もいないから。

 

 どこかで、音がする。

 

 ボールを蹴る音。

 

 遠い。

 

 たぶん、川の向こうのグラウンド。

 

 誰かが、サッカーをしている。

 

 とん、とん、と地面を弾む音。

 

 それから、ぱあん、と芯を食った音。

 

 ぼくの体が、その音を覚えている。

 

 膝の裏が、ひとりでに、走る形を、思い出そうとする。

 

 去年まで、ぼくもあの音の側にいた。

 

 うまかった。

 

 ……うまかったから、だ。

 

 入ったばかりのぼくが、試合に出た。

 

 先輩を、差し置いて。

 

「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ」

 

「一年のくせに、なんでお前なんだよ」

 

 なんで、お前なんだよ。

 

 ぼくが、答えを持っていたわけじゃない。

 

 でも、あの問いに答えはなかった。

 

 声だけは、よく覚えている。

 

 生意気だ。

 

 調子に乗るな。

 

 理由は、あとから、いくらでもついた。

 

 最初に何かが軋んで、それから、全部が軋みはじめた。

 

 ボールには、もう触らない。

 

 好きだった。

 

 好き、とは、もう言えない。

 

 遠くの音が、また鳴る。

 

 ぱあん。

 

 胸の奥が、ひとつ跳ねた。

 

 走り出したい、と体のどこかが言う。

 

 それでも、足は動かない。

 

 膝を抱えたまま、動かない。

 

 ガラケーを開くと、画面のすみに、知らない番号からのメール。

 

 クラスの裏サイトの、URLだ。

 

 また、何か書かれている。

 

 開かなくても、わかる。

 

 見ない。

 

 ふたを、閉じた。

 

 ポケットには、もう何も入っていない。

 

 昨日、また持っていかれた。

 

 母さんの財布から、出すしかなかった金だ。

 

 返して、とは言えない。

 

 言えば、次は、もっと持ってこいと言われる。

 

 それも、たぶん、誰にも証明できない。

 

 落ちていた、と言われたら、それまでだ。

 

 膝に、額をつける。

 

 ここには、誰も来ない。

 

 だから、ここがいい。

 

 世界が、この植え込みの奥だけになる。

 

 それくらいが、ちょうどいい。

 

 狭いほど、誰も入ってこられない。

 

 明日のことを、考えようとする。

 

 考えようとして、できない。

 

 夏休みが明けたあとの教室を思っても、そこに、ぼくの席だけが、うまく見えない。

 

 その先の景色が、どうしても、浮かんでこない。

 

 でも、夕方には、陽菜を迎えに行く。

 

 それだけは、ちゃんと、浮かぶ。

 

 だから、まだ、立てる。

 

 遠くで、また、ボールが鳴った。

 

 その音が、だんだん小さくなっていく。

 

 やがて、それも聞こえなくなる。

 

 あとは、蝉と、自分の浅い息だけ。

 

 ——と。

 

 すぐ近くで、かさり、と葉の音がした。

 

 ぼくのいる茂みの、すぐ外。

 

 ぼくは、息を止めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


月曜・木曜の定期更新に加え、時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


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