毎晩帰ってくる靴
夫の革靴が、毎晩、玄関に戻ってくる。
わたしを迎えに来るみたいに。
捨てたはずだった。
町を三つ越えた先の、この小さなアパートまで、そんなもの持ってきていない。
それなのに朝、ドアを開けると、たたきに、あの黒い革靴がそろえて置いてある。
爪先を、部屋の奥、わたしのほうへ向けて。
靴底には、湿った泥がついている。
まるで、夜のあいだに、どこか遠くから歩いてきたみたいに。
玄関の幅は狭い。
その靴があるだけで、外へ出る場所が半分ふさがる。
わたしは毎朝、息を止めてそれをまた袋に入れる。
手が震えないように、何も感じていないふりをして。
◆◇
わたしは、夫から逃げた。
殴られたのは、たぶん、きっかけにすぎない。
「お前は一人では生きられない」と、毎日、言われ続けた。
「おれがいないと、なにもできない」と。
財布の置き場所。
電話をかける相手。
服の色。
笑う声の大きさ。
少しずつ、わたしのものではなくなっていった。
逃げたあとも、その声は、頭のなかで鳴りやまなかった。
ドアの鍵を二度確認しても。
窓のカーテンを閉めても。
新しい住所を誰にも教えていなくても。
声だけは、わたしの中に入っていた。
◆◇
シェルターの支援員さんが、心配して、ある人を紹介してくれた。
神宝町の、拝み屋。
来たのは、三十くらいの、痩せた男だった。
糸のように細い目。
よれたアロハシャツ。
玄関で煙草を消して、たたきの革靴を、しばらく黙って見ていた。
「これ、旦那さんのですね」
「はい。……夫が、追ってきてるんでしょうか。生き霊、みたいなものが」
「いや」
慈恩さんは、しゃがんで、靴底の泥に触れた。
「旦那さんの霊力じゃない。こんな器用なこと、あの人にはできませんよ」
思わず、変な息が漏れた。
笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でもわからなかった。
「じゃあ、どうして」
「これ、あなたが呼んでるんです」
わたしは、うまく言葉が出なかった。
呼んでいる。
わたしが。
あの家から逃げてきたのに。
あの靴を見るだけで、胃が縮むのに。
「怒らないで聞いてください」
彼は、細い目のまま言った。
「長いこと、言われ続けたでしょう。『一人では生きられない』『必ず戻ってくる』『お前が悪い』。その言葉が、この靴に、しみこんでる。で、いちばんやっかいなのは、あなた自身が、半分、それを信じてることです」
胸の奥が、冷たくなった。
違う、と言いたかった。
わたしは逃げた。
ちゃんと逃げた。
住所も変えた。
電話番号も変えた。
それなのに、半分信じていると言われて、怒るより先に、思い当たってしまった。
「あなたは、逃げた。頭では、正しいと分かってる。でも心のどこかで、まだ思ってる。自分は、あの家に戻るべきなんじゃないか、って。その気持ちが、毎晩、靴を呼び戻してるんですよ。泥は、あなたの罪悪感が、夜のあいだに歩かせた跡です」
「わたしの、せいなんですか」
声が、自分でも驚くほど細かった。
「いいえ」
彼は、はっきり言った。
「あなたのせいじゃない。刷り込まれたものは、あなたが選んだものじゃない。でも、外に出すのは、あなたの手じゃないと、だめなんです」
あなたのせいじゃない。
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
それでも、靴はまだ玄関にあった。
黒く、重く、部屋の奥を向いて。
◆◇
慈恩さんは、靴を燃やさなかった。
塩も撒かなかった。
ただ、玄関のドアを、大きく開けた。
夜の空気が、部屋に入ってきた。
「持って、出してください。ゴミ置き場まで。ぼくは、手伝いません」
「どうして、手伝ってくれないんですか」
「ぼくが出したら、また戻る。あなたが『自分で捨てた』って、体で覚えないと、意味がないんです」
わたしは、革靴を持った。
冷たくて、重かった。
片方ずつ持つと、夫の足首をつかんでいるみたいだった。
そんなはずはないのに、指が強ばった。
玄関を出ようとして、足が、動かなくなった。
ドアの手前で、体が固まった。
必ず戻ってくる。
耳もとで、声が鳴った。
捨てたら、罰が当たる。
捨てたら、生きていけない。
お前は一人では生きられない。
そんな気が、した。
頭では、ただの靴だとわかっていた。
でも体は、あの家の玄関に戻っていた。
夫が背後に立っている。
鍵を開ける音がする。
怒らせないように、先に謝らなければいけない。
そういう夜が、体の奥から何度も起き上がってきた。
慈恩さんは、なにも言わなかった。
急かしもしなかった。
ただ、開けた扉のそばに立って、待っていた。
糸目のまま、じっと。
どれくらい、そうしていたか分からない。
わたしは、一歩、踏み出した。
息が浅くなった。
二歩。
廊下の蛍光灯が、白く光っていた。
三歩。
まだ、何も起きなかった。
夫は来ない。
怒鳴り声もしない。
わたしは、革靴を持ったまま、階段を降りた。
外の、冷たい夜の空気のなかへ出た。
ゴミ置き場の網の前で、また少し止まった。
ここに置いたら、もう戻れない気がした。
戻らなくていいのだと、思うまでに、時間がかかった。
わたしは網を上げた。
革靴を、置いた。
自分の手で。
置いた瞬間、泥のにおいが、ふっと消えた。
◆◇
翌朝、玄関のたたきは、空っぽだった。
革靴は、戻らなかった。
それでも、夫の声は、消えない。
ふとした拍子に、今でも聞こえる。
「お前は一人では生きられない」
たぶん、この先も、ずっと。
消えないなら、負けなのだと思っていた。
声が聞こえるうちは、まだ逃げられていないのだと思っていた。
でも、声がしても、玄関は空だった。
わたしは、その空っぽのたたきに、自分の靴を置いた。
その日、駅前の店で、新しい靴を買った。
自分で選んだ、白いスニーカー。
誰にも、選んでもらわなかった。
店員さんに「これで歩きやすいですか」と聞かれて、わたしは自分の足で少し歩いて、うなずいた。
帰り道、その靴で、わたしは、来た道を、自分の足で歩いた。
靴底に、泥は、ついていなかった。




