第二章 第一節 息子・武野宗瓦は、武野紹鷗の弟子にあらず
息子:武野紹鷗の弟子は、千利休以外にもいたんでしょ?
母:銭谷宗訥、松永弾正、細川幽斎、辻玄哉、三好笑岩、不干斎こと佐久間正勝、そして娘婿の今井宗久などです。
息子:武野紹鷗の嫡子・武野宗瓦は?
母:武野宗瓦の生まれは1550年2月、武野紹鷗が亡くなったのは?
息子:1555年12月。つまり、5歳半で父親と死別した。
母:茶の湯は、武野宗瓦から見て姉婿にあたる今井宗久に師事しています。
宗瓦が成人した後は、紹鷗の遺産を巡って今井宗久と争い、織田信長による裁定の結果、かつて信長の意に背いたことを理由に敗れます。
息子:武野宗瓦は、信長の茶頭にはなれなかったの?
母:茶頭は、織田信長が作った茶の湯全般を取り仕切る職制で、今井宗久、津田宗及、田中宗易が任命されました。
息子:田中宗易?
母:千利休のことで、当時は、田中宗易と名乗っています。
信長に仕えていた武野宗瓦は茶人より武人を目指しますが、信長から1581年に追放されます。
その後、豊臣秀吉にも仕えるのですが、同じく追放されます。時に1588年です。
2年後、秀吉に許され、徳川家康の取り成しで御伽衆に加えられます。
1611年には、家康の命で豊臣秀頼に仕え、1614年8月大阪で死去します。
息子:1614年というと、大阪冬の陣がある年だけど。戦死したの?
母:大阪冬の陣は10月ごろから準備が始まります。最初の戦いは、12月19日の「木津川口の戦い」なので、戦死ではないですね。
息子:武野宗瓦は、茶人として、何かを成したわけではなかったんだね。




