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武野紹鷗って誰  作者: shoundo
第一章 武野紹鷗という人物
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第一章 第七節 堺の豪商・武野紹鷗

息子:武野紹鷗(たけのじょうおう)は、お金持ちだったの?


母:父・武野(たけの)信(のぶ)久(ひさ)の代に皮屋(かわや)を営み、堺で一番の商人になったとされています。


息子:「されています」と言うのは、断定できないということ?


母:戸田勝久(とだかつひさ)著『武野紹鷗(たけのじょうおう)研究』によれば、「皮屋(かわや)」というのは『念仏差帳(ねんぶつさちょう)日記(にっき)』舳松町(へのまつむら)の項にある「紹鷗(じょうおう)」の註記(ちゅうき)「皮屋(かわや)」と、『実(さね)隆(たか)公記(こうき)』の大永(たいえい)8年3月9日にある「誘引堺南庄竹野」の註記(ちゅうき)「皮屋(かわや)云云 新五郎」が出典なため、武野(たけの)信(のぶ)久(ひさ)が皮革(ひかく)を生業(なりわい)にしていたとは盲信(もうしん)できないとしています。

ただ、21世紀になった現在も「武野紹鷗(たけのじょうおう)は皮屋(かわや)を営んでいた」という通説は変わらずあるため、ここでは「皮屋(かわや)」について語っていこうかと思います。


息子:「皮屋(かわや)」とは何屋さんなの?


母:まず「皮屋(かわや)」というのは屋号(やごう)で、お店の種類ではありません。この「皮屋(かわや)」では皮革(ひかく)や武具(ぶぐ)甲冑(かっちゅう)を扱っています。

このころの商人は、自分たちの利益を守るため、朝廷(ちょうてい)や貴族、寺社などの庇護下(ひごか)で「座(ざ)」を作っています。

「座(ざ)」とは、金銭などを払う代わりに営業や販売の独占権などの特権を認めさせる制度です。「皮屋(かわや)」は三好(みよし)氏、おそらく三好之長(みよしゆきなが)の庇護(ひご)を受けています。

武野(たけの)信(のぶ)久(ひさ)は、朝廷(ちょうてい)へ献金(けんきん)するなど、財力を背景に「皮屋(かわや)」を堺(さかい)で一番の豪商(ごうしょう)へと成長させます。


息子:武野(たけの)信(のぶ)久(ひさ)は商才(しょうさい)があったんだね。


母:そうですね。また、堺では「会合(かいごう)衆(しゅう)」という有力商人で作る自治(じち)組織(そしき)があり、「皮屋(かわや)」もその中の1軒です。他に会合(かいごう)衆(しゅう)だったと思われる店は「日比屋(ひびや)、薬屋(くすりや)、天王寺屋(てんのうじや)、魚屋(ととや)、納屋(なや)」です。天王寺屋(てんのうじや)は津田宗及(つだそうぎゅう)の店、魚屋(ととや)は千利休(せんりきゅう)の店、納屋(なや)は今井宗久(いまいそうきゅう)の店です。


息子:武野紹鷗(たけのじょうおう)、津田宗及(つだそうぎゅう)、千利休(せんりきゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)。これは茶道に直結しているね。


母:ちなみに堺市(さかいし)立(りつ)中央(ちゅうおう)図書館(としょかん)の『レファレンス協同データーベース』によれば、1574年、信長(のぶなが)時代(じだい)の会合(かいごう)衆(しゅう)は、紅屋宗(べにやそう)陽(よう)、塩屋(しおや)宗悦(そうえつ)、今井宗久(いまいそうきゅう)、茜屋宗(あかねやそう)左(さ)、山上宗二(やまのうえそうじ)、松江隆仙(まつえりゅうせん)、高三(たかみつ)隆世、千宗(せんそう)易(えき)、油屋(あぶらや)常琢、津田宗及(つだそうぎゅう)の10人になります。


息子:有力商人は、みんな、茶道を嗜(たしな)んでいたということか。


母:次に「通貨」の話をしましょう。室町幕府では、中国の明銭(みんせん)を流通(りゅうつう)させていましたが、東日本で通貨需要が高まると、流通(りゅうつう)貨幣(かへい)が不足します。当時の年代記『勝山記(かつやまき)』によると1514年~1529年の15年間に6回も「銭(ぜに)枯渇(こかつ)」という状態になっています。


息子:武野紹鷗が13歳~28歳の頃だね。


母:銭(ぜに)枯渇(こかつ)で流通したのが偽造(ぎぞう)通貨(つうか)などの鐚(びた)銭(せん)です。堺の商人は、支払いに鐚(びた)銭(せん)を出し、数百年間の流通実績がある宋(そう)銭(せん)を蓄(たくわ)えるようになります。

1523年、寧波(にんぼう)の乱がおこります。簡単に言うと、堺(さかい)貿易(ぼうえき)の細川(ほそかわ)氏と、博多貿易(はかたぼうえき)の大内(おおうち)氏が争い、大内(おおうち)氏が勝利した戦いです。これにより、堺は遣(けん)明船(みんせん)による日(にち)明貿易(みんぼうえき)ができなくなります。


息子:商人にとっては大打撃だね。


母:そこで、独自に堺(さかい)渡(と)唐(とう)船(せん)による明(みん)との貿易ルートを計画します。1543年「堺(さかい)渡(と)唐(とう)船(せん)」は「新貢三大船」という名で種子島(たねがしま)を経由して、明(みん)と貿易をします。


息子:つまり1523年~1543年の間は、堺は外貨(がいか)を稼げなかったということ?


母:外貨は琉球(りゅうきゅう)王国(おうこく)から得ています。

また、1543年は種子島(たねがしま)に鉄砲が伝来した年です。堺はこの鉄砲の製造技術を持ち帰り、模造品を作ることで、莫大な利益を得て行きます。

武野紹鷗(たけのじょうおう)が商人として過ごした1523年~1532年は、「銭(ぜに)枯渇(こかつ)」や「寧波(にんぽう)の乱」、「鐚(びた)銭(せん)」の流通など、堺貿易は非常に混乱した時代だったのではないでしょうか。

武野紹鷗(たけのじょうおう)は、1532年、31歳で出家(しゅっけ)しますが、世情(せじょう)を考えた上で商人を続けるべきか否かを決めたとも考えられます。

1537年、36歳で父と師・実隆(さねたか)を亡くします。この時点で、もう商人には戻れなかったでしょう。以後、茶人・武野紹鷗(たけのじょうおう)として生きて行きます。


息子:とはいえ、出家(しゅっけ)までしなくても良かった気がするけどね。

三条西実隆(さんじょうにしさねたか)が『実(さね)隆(たか)公記(こうき)』で「雖然干今延引、今年十三年、仍如此云々」と書いた気持ちがわかる気がする。


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