↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武野紹鷗って誰  作者: shoundo
第一章 武野紹鷗という人物
PR
7/30

第一章 第六節 戦国武将・武野紹鷗、享禄・天文の乱に立つ

息子:武田家の血筋なのに、武野紹鷗(たけのじょうおう)は武将ではなかったの?


母:それでは、戦国武将としての武野紹鷗(たけのじょうおう)を見ていきましょう。

1520年後半、浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)本願寺(ほんがんじ)宗門(しゅうもん)における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争が勃発(ぼっぱつ)します。これを「享(きょう)禄(ろく)・天文(てんぶん)の乱」と言います。

享(きょう)禄(ろく)4年6月28日(1531年)に武野紹鷗(たけのじょうおう)は、堺(さかい)公方(くぼう)の足利義維(あしかがよしつな)を筆頭(ひっとう)に堺の兵を率いて、この戦乱に身を投じます。


息子:享(きょう)禄(ろく)・天文(てんぶん)の乱というのはどういうものだったの?


母:まず浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の真宗(しんしゅう)大谷派(おおたには)の僧・蓮如(れんにょ)に5人の妻と13人の男子がいたことが発端(ほったん)です。

長男の順如(じゅんにょ)が父・蓮如(れんにょ)に先立ち死去したため、後継として5男の実如(じつにょ)が本願寺(ほんがんじ)第9世となります。この時、加賀(かが)周辺国は、蓮乗(れんじょう)、蓮綱(れんこう)、蓮誓(れんせい)、蓮悟(れんご)が、各寺の住持(じゅうじ)としては、蓮(れん)淳(じゅん)、蓮(れん)芸(げい)、実賢(じっけん)、実悟(じつご)、実(じつ)順(じゅん)、実孝(じっこう)、実(じつ)従(じゅう)が任命されます。

特に蓮綱(れんこう)の松岡寺(しょうこうじ)、蓮誓(れんせい)の光教寺(こうきょうじ)、蓮乗(れんじょう)と蓮悟(れんご)の本泉寺(ほんせんじ)は「賀州(がしゅう)三ヶ寺(さんかじ)」として国内の寺院・門徒(もんと)を統率するようになります。

その後、本願寺(ほんがんじ)第9世・実如(じつにょ)の遺言で、息子・円如(えんにょ)の子で、当時10歳の証如(しょうにょ)を本願寺第10世に任命、蓮(れん)淳(じゅん)に後見(こうけん)と養護を託します。



息子:まとめると、以下のようになるね。

ここまでは特に問題ないようだけど、何故、戦闘が起きるの?


挿絵(By みてみん)

図 1-6-1. 蓮如とその一族


母:蓮(れん)淳(じゅん)は、堅田(かたた)本福寺(ほんぷくじ)を見せしめに破門(はもん)し、自分を中心とした権力機構を確立して行きます。

続いて、反本願寺(ほんがんじ)の細川高国(ほそかわたかくに)と対立している細川晴元(ほそかわはるもと)(総大将は三好元長(みよし もとなが))に、側近(そっきん)の下間(しもつま)頼秀(らいしゅう)と頼盛(らいせい)兄弟を派遣、細川晴元(ほそかわはるもと)の要望を受け、蓮(れん)淳(じゅん)の娘(むすめ)婿(むこ)・実顕(じっけん)と下間(しもつま)頼秀(らいしゅう)に、高国(たかくに)派荘園(しょうえん)を占拠させます。

その後、実顕(じっけん)は、法主(ほっす)証如(しょうにょ)名義で賀州(がしゅう)三ヶ寺(さんかじ)に断りもなく、荘園(しょうえん)代官(だいかん)を自分の門徒(もんと)にしていきます。怒った賀州(がしゅう)三ヶ寺(さんかじ)側は、実顕(じっけん)が住持(じゅうじ)を務める越前(えちぜん)超勝寺(ちょうしょうじ)を攻撃するのですが、逆に「法主(ほっす)証如(しょうにょ)への反逆」として蓮(れん)淳(じゅん)に討伐されます。

これにより、本願寺(ほんがんじ)法主(ほっす)を頂点とする支配体制が完成し、蓮(れん)淳(じゅん)は、法主の証如(しょうにょ)を擁(よう)して絶対的な地位を築き上げます。これを「享(きょう)禄(ろく)の錯乱(さくらん)」といいます。



息子:ここまでを図にすると、こうなるね。


挿絵(By みてみん)

図 1-6-2. 享禄の錯乱における戦闘


母:享禄4年6月、東海地方・畿内の門徒(もんと)が、実如(じつにょ)の子である実(じつ)円(えん)と下間(しもつま)頼盛(らいせい)に率いられて出陣します。本願寺(ほんがんじ)側の集結地点は山科(やましな)です。

三条西実隆(さんじょうにしさねたか)著『実隆公記(さねたかこうき)』によれば、武野紹鷗(たけのじょうおう)は本願寺(ほんがんじ)側として、享(きょう)禄(ろく)4年6月28日に出陣しています。神津朝夫(こうづあさお)著『千利休(せんりきゅう)「わび」とはなにか』では、堺で防具を売っていた武野紹鷗は、山科(やましな)本願寺(ほんがんじ)の警備か商売上の物資輸送に携わっていたのではないかと説いています。

享(きょう)禄(ろく)4年8月24日、帰京して三条西実隆(さんじょうにしさねたか)を訪ね、無事を知らせています。

石川県(いしかわけん)金沢市(かなざわし)の山科(やましな)は、大阪府(おおさかふ)堺市(さかいし)から直線距離にして250km、少なくとも1週間はかかる計算になりますね。


息子:武野紹鷗(たけのじょうおう)は、7月上旬には山科(やましな)について、8月下旬に堺へ帰ったことになるね。1ヶ月以上戦場にいたわけだ。


母:もっと日にちが短かったでしょうね。

当時、越前(えちぜん)から加賀(かが)へ向かう道は、敵方の朝倉(あさくら)氏に占領されていました。そのため、直線距離ではなく、美濃(みの)や飛騨(ひだ)方面から遠回りして山科(やましな)へ向かったからです。

この時代、美濃(みの)や飛騨(ひだ)方面への街道は、中山道(なかせんどう)(東山道(とうさんどう))があったので、ここを通ったと思われます。

激戦区の山科(やましな)に行ったので、かなりの戦死者を看取(みと)ったでしょうね。「わびの精神」はこの辺からきているのかもしれません。


息子:つまり、わび茶を大成していく上で、この戦争は、かなり重要な出来事だったというわけだ。



母:さて、武野紹鷗(たけのじょうおう)が帰京した後も、この戦争は続きます。

享(きょう)禄(ろく)4年8月、畠山義堯(はたけやまよしたか)から木沢(きざわ)長政(ながまさ)が細(ほそ)川(かわ)晴(はる)元(もと)へ寝返ろうとします。それを知った義堯(よしたか)は、三好元(みよしもと)長(なが)に木沢(きざわ)長政(ながまさ)討伐を要請し、何も知らない三好元(みよしもと)長(なが)は、細川(ほそかわ)晴(はる)元(もと)へ木沢(きざわ)長政(ながまさ)の討伐を要請します。苦慮(くりょ)した細川(ほそかわ)晴元(はるもと)は、畠山義堯(はたけやまよしたか)・三好元(みよしもと)長(なが)連合軍と木沢(きざわ)長政(ながまさ)軍の双方に撤兵(てっぺい)要請(ようせい)をします。


息子:図にすると、こういうことだね。


挿絵(By みてみん)

図 1-6-3. 三好元長に木沢長政討伐を要請



母:享(きょう)禄(ろく)5年5月、畠山義堯(はたけやまよしたか)・三好元(みよしもと)長(なが)連合軍は、再び木沢(きざわ)長政(ながまさ)軍と対峙します。細川晴元は、今度は木沢(きざわ)長政(ながまさ)軍に付き、蓮(れん)淳(じゅん)へ協力を要請します。

蓮(れん)淳(じゅん)は、法主(ほっす)の証如(しょうにょ)を筆頭に全畿内(きない)の門徒(もんと)を結集し、畠山義堯(はたけやまよしたか)を大阪の飯盛山(いいもりやま)で、三好(みよし)元長(もとなが)を堺(さかい)で自害(じがい)させます。このうち畠山義堯(はたけやまよしたか)の戦闘を天文(てんぶん)の錯乱(さくらん)の一つ「飯盛(いいもり)城(じょう)の戦い」と言います。

なお、先ほどの「享(きょう)禄(ろく)の錯乱(さくらん)」と「天文(てんぶん)の錯乱(さくらん)」を合わせて「享(きょう)禄(ろく)・天文(てんぶん)の乱(らん)」と言います。



息子:ここまでを図にすると、こうなるね。


挿絵(By みてみん)

図 1-6-4. 飯盛城の戦いと堺での三好元長討伐


息子:堺(さかい)の町は、戦場になったんだね。


母:当時、堺の町は、室町(むろまち)幕府(ばくふ)第11代将軍・足利(あしかが)義(よし)澄(ずみ)の次男、足利義維(あしかがよしつな)が治(おさ)めていました。

足利義維(あしかがよしつな)は、三好元(みよしもと)長(なが)・細川(ほそかわ)晴元(はるもと)らと共に、第12代将軍の足利(あしかが)義(よし)晴(はる)を擁(よう)する細川(ほそかわ)高国(たかくに)を打ち破ります。この勝利で、第13代目の将軍になると目された義維(よしつな)は「堺(さかい)公方(くぼう)」と呼ばれ、1527年~1532年の5年間、堺(さかい)を中心に幕府の役割を果たします。

また、1509年生まれの足利義維(あしかがよしつな)は、三好元(みよしもと)長(なが)を後見人(こうけんにん)としていました。




息子:1532年、三好元(みよしもと)長(なが)は堺(さかい)で自害(じがい)しているね。足利義維(あしかがよしつな)はどうなったの?


母:三好元(みよしもと)長(なが)の自害(じがい)を聞き、自殺しようとしますが、細川(ほそかわ)晴元(はるもと)に止められます。その後、阿波(あわ)国(こく)へ渡り、阿波(あわ)守護(しゅご)の細川之持(ほそかわゆきもち)に庇護(ひご)されます。

享(きょう)禄(ろく)5年(1532年)は、武野紹鷗(たけのじょうおう)30歳です。翌年、母親の遺言(ゆいごん)を果たすとして、31歳で出家し「紹鷗(じょうおう)」と号します。


息子:「紹鷗(じょうおう)」という漢字には由来はあるの?


母:大徳寺(だいとくじ)76世の古岳宗亘(こがくそうこう)がつけた法名(ほうな)で、紹鷗(じょうおう)の「紹」は大徳寺(だいとくじ)での敬称「紹」、「鷗」は、黄山谷(こうさんこく)著『演雅』の詩「江南水色碧於天、中有白鷗閑似我」から取られたものです。

意味は「江南(こうなん)の大河の水色と澄み渡る空の碧(みどり)、その中に一羽の白い鳥がゆったり飛んでいる、まるで今の私の様だ。」となります。


息子:母親の遺言(ゆいごん)というのは?


母:武野紹鷗(たけのじょうおう)の母親は、武野紹鷗(たけのじょうおう)が「吉野の蔵王(ざおう)権現(ごんげん)の加護(かご)によって生まれた」と信じ、その恩に報いるため「自分の三回忌(さんかいき)に仏門(ぶつもん)に入ってほしい」と遺言(ゆいごん)しました。紹鷗(じょうおう)が19歳の時に亡くなっているので、21歳で仏門(ぶつもん)に入るよう遺言(ゆいごん)したことになります。


息子:実際は、31歳まで出家(しゅっけ)しなかったわけだよね。なぜだろう?



母:理由はわかりませんが、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)著『実(さね)隆(たか)公記(こうき)』には、「雖然干今延引、今年十三年、仍如此云々」とあります。

訳すと「なんで13年もたった今、出家(しゅっけ)するんだ?」となります。

少なくとも三条西実隆(さんじょうにしさねたか)は、出家(しゅっけ)に納得していなかったようです。

もしかすると、戦場の悲惨さを見て、世を儚(はかな)み、出家(しゅっけ)するに至ったのかもしれません。


末の露 もとの雫や 世の中の

おくれさきだつ ためしなるらむ 

  (『新古今和(しんこきんわ)歌集(かしゅう)』僧正遍(そうじょうへん)昭(じょう))


「葉の先についた露(つゆ)や、その根元にしたたる雫(しずく)は、早いか遅いかの違いはあるものの、いつかは地に落ちるものです。人の命も同じ、それが自然の摂理(せつり)、世の中というものです。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。