第一章 第六節 戦国武将・武野紹鷗、享禄・天文の乱に立つ
息子:武田家の血筋なのに、武野紹鷗は武将ではなかったの?
母:それでは、戦国武将としての武野紹鷗を見ていきましょう。
1520年後半、浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争が勃発します。これを「享禄・天文の乱」と言います。
享禄4年6月28日(1531年)に武野紹鷗は、堺公方の足利義維を筆頭に堺の兵を率いて、この戦乱に身を投じます。
息子:享禄・天文の乱というのはどういうものだったの?
母:まず浄土真宗の真宗大谷派の僧・蓮如に5人の妻と13人の男子がいたことが発端です。
長男の順如が父・蓮如に先立ち死去したため、後継として5男の実如が本願寺第9世となります。この時、加賀周辺国は、蓮乗、蓮綱、蓮誓、蓮悟が、各寺の住持としては、蓮淳、蓮芸、実賢、実悟、実順、実孝、実従が任命されます。
特に蓮綱の松岡寺、蓮誓の光教寺、蓮乗と蓮悟の本泉寺は「賀州三ヶ寺」として国内の寺院・門徒を統率するようになります。
その後、本願寺第9世・実如の遺言で、息子・円如の子で、当時10歳の証如を本願寺第10世に任命、蓮淳に後見と養護を託します。
息子:まとめると、以下のようになるね。
ここまでは特に問題ないようだけど、何故、戦闘が起きるの?
図 1-6-1. 蓮如とその一族
母:蓮淳は、堅田本福寺を見せしめに破門し、自分を中心とした権力機構を確立して行きます。
続いて、反本願寺の細川高国と対立している細川晴元(総大将は三好元長)に、側近の下間頼秀と頼盛兄弟を派遣、細川晴元の要望を受け、蓮淳の娘婿・実顕と下間頼秀に、高国派荘園を占拠させます。
その後、実顕は、法主証如名義で賀州三ヶ寺に断りもなく、荘園代官を自分の門徒にしていきます。怒った賀州三ヶ寺側は、実顕が住持を務める越前超勝寺を攻撃するのですが、逆に「法主証如への反逆」として蓮淳に討伐されます。
これにより、本願寺法主を頂点とする支配体制が完成し、蓮淳は、法主の証如を擁して絶対的な地位を築き上げます。これを「享禄の錯乱」といいます。
息子:ここまでを図にすると、こうなるね。
図 1-6-2. 享禄の錯乱における戦闘
母:享禄4年6月、東海地方・畿内の門徒が、実如の子である実円と下間頼盛に率いられて出陣します。本願寺側の集結地点は山科です。
三条西実隆著『実隆公記』によれば、武野紹鷗は本願寺側として、享禄4年6月28日に出陣しています。神津朝夫著『千利休「わび」とはなにか』では、堺で防具を売っていた武野紹鷗は、山科本願寺の警備か商売上の物資輸送に携わっていたのではないかと説いています。
享禄4年8月24日、帰京して三条西実隆を訪ね、無事を知らせています。
石川県金沢市の山科は、大阪府堺市から直線距離にして250km、少なくとも1週間はかかる計算になりますね。
息子:武野紹鷗は、7月上旬には山科について、8月下旬に堺へ帰ったことになるね。1ヶ月以上戦場にいたわけだ。
母:もっと日にちが短かったでしょうね。
当時、越前から加賀へ向かう道は、敵方の朝倉氏に占領されていました。そのため、直線距離ではなく、美濃や飛騨方面から遠回りして山科へ向かったからです。
この時代、美濃や飛騨方面への街道は、中山道(東山道)があったので、ここを通ったと思われます。
激戦区の山科に行ったので、かなりの戦死者を看取ったでしょうね。「わびの精神」はこの辺からきているのかもしれません。
息子:つまり、わび茶を大成していく上で、この戦争は、かなり重要な出来事だったというわけだ。
母:さて、武野紹鷗が帰京した後も、この戦争は続きます。
享禄4年8月、畠山義堯から木沢長政が細川晴元へ寝返ろうとします。それを知った義堯は、三好元長に木沢長政討伐を要請し、何も知らない三好元長は、細川晴元へ木沢長政の討伐を要請します。苦慮した細川晴元は、畠山義堯・三好元長連合軍と木沢長政軍の双方に撤兵要請をします。
息子:図にすると、こういうことだね。
図 1-6-3. 三好元長に木沢長政討伐を要請
母:享禄5年5月、畠山義堯・三好元長連合軍は、再び木沢長政軍と対峙します。細川晴元は、今度は木沢長政軍に付き、蓮淳へ協力を要請します。
蓮淳は、法主の証如を筆頭に全畿内の門徒を結集し、畠山義堯を大阪の飯盛山で、三好元長を堺で自害させます。このうち畠山義堯の戦闘を天文の錯乱の一つ「飯盛城の戦い」と言います。
なお、先ほどの「享禄の錯乱」と「天文の錯乱」を合わせて「享禄・天文の乱」と言います。
息子:ここまでを図にすると、こうなるね。
図 1-6-4. 飯盛城の戦いと堺での三好元長討伐
息子:堺の町は、戦場になったんだね。
母:当時、堺の町は、室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男、足利義維が治めていました。
足利義維は、三好元長・細川晴元らと共に、第12代将軍の足利義晴を擁する細川高国を打ち破ります。この勝利で、第13代目の将軍になると目された義維は「堺公方」と呼ばれ、1527年~1532年の5年間、堺を中心に幕府の役割を果たします。
また、1509年生まれの足利義維は、三好元長を後見人としていました。
息子:1532年、三好元長は堺で自害しているね。足利義維はどうなったの?
母:三好元長の自害を聞き、自殺しようとしますが、細川晴元に止められます。その後、阿波国へ渡り、阿波守護の細川之持に庇護されます。
享禄5年(1532年)は、武野紹鷗30歳です。翌年、母親の遺言を果たすとして、31歳で出家し「紹鷗」と号します。
息子:「紹鷗」という漢字には由来はあるの?
母:大徳寺76世の古岳宗亘がつけた法名で、紹鷗の「紹」は大徳寺での敬称「紹」、「鷗」は、黄山谷著『演雅』の詩「江南水色碧於天、中有白鷗閑似我」から取られたものです。
意味は「江南の大河の水色と澄み渡る空の碧、その中に一羽の白い鳥がゆったり飛んでいる、まるで今の私の様だ。」となります。
息子:母親の遺言というのは?
母:武野紹鷗の母親は、武野紹鷗が「吉野の蔵王権現の加護によって生まれた」と信じ、その恩に報いるため「自分の三回忌に仏門に入ってほしい」と遺言しました。紹鷗が19歳の時に亡くなっているので、21歳で仏門に入るよう遺言したことになります。
息子:実際は、31歳まで出家しなかったわけだよね。なぜだろう?
母:理由はわかりませんが、三条西実隆著『実隆公記』には、「雖然干今延引、今年十三年、仍如此云々」とあります。
訳すと「なんで13年もたった今、出家するんだ?」となります。
少なくとも三条西実隆は、出家に納得していなかったようです。
もしかすると、戦場の悲惨さを見て、世を儚み、出家するに至ったのかもしれません。
末の露 もとの雫や 世の中の
おくれさきだつ ためしなるらむ
(『新古今和歌集』僧正遍昭)
「葉の先についた露や、その根元にしたたる雫は、早いか遅いかの違いはあるものの、いつかは地に落ちるものです。人の命も同じ、それが自然の摂理、世の中というものです。」




