第一章 第五節 武野紹鷗の年譜
息子:武野紹鷗の年譜はどうなっているの?
母:武野紹鷗は、1502年、大和国吉野郡(和州奈良)に生まれ、名は仲材、幼名は吉野松菊丸、通称・新五郎と言いました。
村田珠光の亡くなった年も、同じ1502年です。
息子:もしかして、武野紹鷗は、村田珠光の生まれ変わりとか?
母:どうでしょうね?
さて、1516年 紹鷗14歳位の時、信楽焼と萩焼を始めます。
息子:信楽焼は奈良だからわかるけど、萩焼は、どこで習ったの?
母:長門、今でいう山口県まで出向いて習ったそうです。
24歳になり、紹鷗は京都四条室町上に屋敷を構えます。
息子:ずいぶん、お金持ちなんだね。
母:これには、紹鷗の父・信久の話を少しした方が良いですね。
父・信久が11歳の時、その父・武田仲清(紹鷗の祖父)を応仁の乱で失い、各地を放浪します。
その後、当時の有力武将・三好元長の庇護を受け、和泉堺に定住、皮屋を営みます。
息子:そして「武田が野にある」という意味で、「武野」と名乗る。
母:そうです。苦労した父・信久は、息子に同じ苦労をさせまいと、財力を背景として紹鷗の栄達をはかったのでしょうね。
結果的に、紹鷗は29歳のときに、従五位下因幡守の官位を得ています。
息子:従五位下というのは、戦争ゲームでいうと「少将クラス」の人になるね。
母:紹鷗は、1525年24歳位の時、当時随一の文化人であった三条西実隆に和歌を学ぶため、上洛します。紹鷗は、若いころから連歌に興味があったようです。
同じころ、茶の湯を藤田宗理、十四屋宗伍らに学んで、頭角をあらわし、珠光の為し得なかった「わび茶」を目指して、大きくその一歩を踏み出します。
息子:村田珠光の弟子である藤田宗理や十四屋宗伍らが、「わび茶」の心を受け継いでいたんだね。
母:1530年28歳の時、三条西実隆から『詠歌大概』を伝授されます。
この『詠歌大概』により、武野紹鷗は「わび茶とは何か」に、たどり着いたと言います。
また、この頃、妻を迎えます。室町幕府奉行衆進士八郎の娘、号は瑞貞宗祥といいます。
息子:わび茶とは何か?
母:「侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、 ちかくは、正真に慎み深く、おごらぬさまを侘と云う。」
「足らざることに満足し、慎み深く行動することである」ということです。
その後、紹鷗は、32歳で剃髪、脱俗を志向、慈斤著『尾張雑集』に「大徳寺の古岳宗亘に参禅した」とあります。
息子:禅と茶道が一体となる。茶禅一味。
母:1540年、北向道陳を介して、利休が紹鷗に入門します。当時、利休は18歳。
堺市の武野紹鷗屋敷跡には、「千利休の弟子入りの言い伝え」という看板があります。
内容は、紹鷗が、庭を綺麗にするよう指示したところ、利休は、木をゆすって落ち葉を落とし、趣のある庭にしたため、紹鷗は、利休をすぐ弟子にしようと思ったという旨が書いてあります。
息子:紹鷗も利休も、その心意気が理解しあえるレベルだったんだね。
母:少し戻って1537年、36歳で父と師・実隆を失います。そして、古岳和尚の法嗣大林宗套を法援し、堺に南宗寺が建立されます。このとき、大林宗套に一閑居士の号を授けてもらいます。
その後、和泉国の泉南に帰り、そこに住みます。
この住まいは、夷嶋に対するので、大黒庵と名付けます。
息子:大黒庵は、住まいの名前なの?
母:当時は、「住まい=人の名前」としていたので、大黒庵というと、武野紹鷗のことになります。1555年12月12日、武野紹鷗は、54歳で亡くなります。 墓は堺の臨江寺です。
遺偈は、
「曾て弥陀無碍の因を結びて 宗門更に活機輪を転ず
量りを知る茶味と禅味と 松風を吸尽す心塵れず」
とあります。
息子:紹鷗は、最後まで、茶道の事を考えていたんだね。




