第二章 第二節 武野紹鷗の遺産と今井宗久
息子:今井宗久は、武野紹鷗からどんな遺産を相続したの?
母:家財道具など全ての遺産を相続しています。
信長は、当初和解案を示し、遺産を分配させようとしたのですが、武野宗瓦はそれを不服とし、結果、1568年に全ての遺産を失います。
息子:遺産の茶道具には、何があったの?
母:文献に載っている遺産として、『宗及他会記』が挙げられます。
これには、1569年、武野宗瓦が今井宗久に返してもらった茶道具で、津田宗及を招いて茶会を開いたとあります。
「同壬五月十九日朝 宗瓦會及一人
一 大ヘラニ圜繒カケテ 但朝山 筆馬リン
一 長板ニ定張 芋頭 二ッ置 備前水下紹鷗之也
一 平カウライ茶碗 ザウゲノ茶○
何モ開也 一兩日已前ニ從ニ宗久一來候
朝山 船二艘アリ 一ソウハハシ船也 山ヲ書テ山ノ下ニ木村ヲカキタ
リ 山ト海トアリアリト書テ木村ノ内ハカスカ也 夜ノ明タルモ 山ト
海ノ躰別て面白候 船ヨリ山モ里モ見ルヤウニ書タル繒也 船ノ内ニ人
形二人アリ 帆ヲヒキテ走ル船ナリ 船ヨリ下ハミナ波也 一段筆ボソ
ニナミヲカキタリ 船サキサガリニ書タリ 帆ナワアリ 右繒也」
息子:他には?
母:『今井宗久茶湯日記抜書』に1555年の茶会で用いた道具も、おそらくは武野紹鷗の遺産として今井宗久のものとなったでしょうね。
「天文二十四年十月二日 紹鷗老御会 宗久 宗二
一 イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、
一 床 定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、
一 槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、
一 円座カタツキ、水サシ イモカシラ
一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」
息子:志野焼の茶碗が使われているね。津田宗及は、かなりの志野焼好きだったように思うけど、今井宗久もそうだったの?
母:『津田宗及茶湯日記』には、33年間で200回以上、志野茶碗が使われていますが、津田宗及が志野焼好きだったかは、わかりません。今井宗久もそうです。
1854年に著された『陶器攷』には、志野焼の由来があり、そこに今井宗久の名が出てきます。
「志野宗信物ズキニテ呂宗白楽の沓鉢ヲ茶碗トス、
是ヨリ志野茶碗ン名出ル、
後今井宗久ヘ伝ハリシ由、
名物記ニ唐物トアリ、
此茶碗ノ出来振ヲ尾州ニテ写シタルヲ志野焼ト云」
実は、この記述には間違いがあるようです。
桃山時代、美濃で焼かれた焼物は、全て「瀬戸焼」と呼ばれ、志野焼とは呼んでいませんでした。
現在でも、白い天目茶碗を「志野天目」と呼びますが、徳川美術館にある紹鷗所持の国宝・白天目も、志野焼ではなく、古瀬戸として分類されています。
鶴田純久氏は、このような名称の誤認や変遷を「侘の茶風の深まりによって生じた、茶人の茶碗に対する好みの変化の影響をそこに認めぬわけにはいきません。」としています。
息子:国宝・白天目も今井宗久が相続したの?
母:武野紹鷗から、武野宗瓦の息子・武野新右衛門仲定に伝来しますが、その間、おそらく、武野紹鷗⇒今井宗久⇒武野宗瓦⇒武野新右衛門仲定と、伝来したのではないかと思われます。
息子:おそらく?
母:徳川美術館の伝来には、武野紹鷗から直接、武野新右衛門仲定に伝来したことになっています。ただ、これは少々難しいのは、わかりますよね。
息子:今井宗久が、すべての遺産を相続したから。武野宗瓦へ「白天目」が相続されるわけがないし、その息子の武野新右衛門仲定にも渡らない。
母:仲定は、織田有楽の庇護を受け、武人として優遇されます。織田有楽の話は、また後日しましょう。
さて、『今井宗久茶湯日記抜書』によると、1578年、今井宗久は織田信長を招いて茶会を開いています。ここでも志野茶碗が使われています。
「九月十五日 白亭江
上様 御成、 御供ノ衆 長岡兵部大夫殿
佐久間勘九郎殿 筒井順慶老
山岡對馬守殿 三好山城守殿
一 書院ニテ御振舞過テ。
一 床 波ノ繒、カケテ、前ニソロリ、ヌリ板ニ、薄色牡丹生テ一輪、
一 臺子 上ニ、文琳、袋ニ入テ、天目 數ノ臺、
二ッ長盆ニ置テ、同下ニ、風呂 リンテツ釜
手桶 金合子 柄杓立 ツハメ口
フタオキ カイ山 薄茶 シノ茶ワン 黒棗」
息子:この茶会の様子を図にすると、以下のようになるね。
床の間の掛軸は波の絵、花入は曽呂利で塗り板の上に置き、薄い色の牡丹が一輪挿してある。
図2-1-1. 床の間の飾り
台子の天板には、長盆の上に仕服に入った文琳と、灰被天目が、天目台に載っている。
風炉に林徹釜が掛けられている。手桶水指に、金の合子形建水、杓立は燕口になったもの。蓋置は開山。茶碗は薄茶用で志野茶碗、棗は黒棗。
台子飾りは、今は差通ですが、当時は定かではないので、柄杓を横向きにしました。
図2-1-2. 台子飾り




