第二章 第三節 武野紹鷗の弟子・津田宗達と孫弟子・津田宗及
息子:信長の茶頭だった今井宗久、千利休、津田宗及のうち、津田宗及という人物はよくわからないけど、武野紹鷗とどんな関係だったの?
母:武野紹鷗から直接、茶道を教わったとも言われていますが、定かではありません。
息子:武野紹鷗とは関係ないということ?
母:武野紹鷗の弟子が、父親の津田宗達で、父親から茶道を教わったそうです。つまり、武野紹鷗の孫弟子にあたり、武野紹鷗流の「わび茶」を踏襲しています。
また、津田宗達、子の津田宗及、孫の津田宗凡の三代に渡り『天王寺屋会記』という茶会記を書いています。
息子:天王寺屋なの、津田じゃなくて?
母:天王寺屋は、お店の名前「屋号」で、津田宗伯が一代目となる豪商です。
富田武著『堺~自由都市と商人の進出』によれば、日明貿易などにも参加したそうです。津田宗達は、宗伯の後裔となり、天王寺屋の二代目です。
始め堺商人の湯川宣阿が日明貿易に乗り出し、それに遅れる形で、池永宗己、津田宗伯などが参加します。
この頃、茶の湯は、村田珠光の時代で、村田珠光の門人として、津田宗伯、金田屋宗宅、竹倉屋紹謫ら堺の豪商が名を連ねています。
息子:村田珠光の息子・村田宗珠が、武野紹鷗の師匠だったね。
母:その通りです。津田宗伯の茶は、茶会記などが残されていない為、よくわかっていませんが、村田珠光の茶禅一味の影響を強く受けていたと思われます。
宗伯の子孫には、津田東室、津田宗達の兄弟・了雲などがいます。了雲は津田宗及の門人、東室は千利休の門人です。
なお、千利休は、津田宗及のことをライバル視していたようで、事あるごとに、何かと文句をつけていたようです。
息子:例えば、どんな文句をつけていたの?
母:『利休居士伝書』では、ある朝、宗及と翠竹院が利休を訪ね、名物道具の話をした時のこと。その夜に、翠竹院が利休を再訪し、朝の名物話はためになったと礼を述べると、
「あのうつけたる、物不知ノ下手の宗及が云たる事を満足とハ、是も同うつけものなり」
と述べたとか。
息子:では、ここで津田一族と茶の湯の関係をまとめておきましょう。
図2-3. 武野紹鷗と津田家の関係
息子:武野紹鷗と津田宗及(つだそうgiゅう)は、直接は関係ないみたいだけど、父親が仲良しなら、あるいは、交流もあったんだろうね。
母:このあたりは、歴史学者にお任せしましょう。
息子:翠竹院がよくわからなかったので、図に入れなかったんだけど。
母:翠竹院は、曲直瀬道三といって、姪婿に丿貫という人がいます。この丿貫は、武野紹鷗の弟子で、利休とも親交があります。
この丿貫については、別途、説明しましょう。




