第二章 第四節 武野紹鷗と丿貫
息子:丿貫って、どんな人だったの。
母:柳里恭著『雲萍雑志』に「暫しの生涯を名利のために苦しむべきや」とあり、誰に仕えることもなく、自由気ままに生き続け、「風雅は、身とともに終わる」として、自分が書いてきた短冊類を買い取って燃やしたため、丿貫に関する史料はほとんどありません。
息子:つまり、よくわからないわけだね。
母:丿貫自身が書いた書物がないだけで、周辺の人が書いた資料は、残っています。
例えば、江村専斎著『老人雑話』には、こうあります。
「茶の会に丿観流と云ふ有、是は上京に坂本屋とて茶の湯を好む者あり、をどけたる茶の会を出す、初め号を如夢観と云ひ後に改めて丿観と云ふ、一渓道三の姪婿なり、丿の字は人の字の偏なり、人に及ばずといふこヽろとぞ」
息子:カタカナの「ノ」が「人に及ばずといふこヽろ」とは、どういう意味?
母:許慎著『説文解字』に「右戻(戸+犬の字)也。象左引之形。」とあって、カタカナの「ノ」ではなく、漢字の「丿」の字になります。「丿」は、「人」という漢字の右側を抜いた文字なので、「人」という漢字には足りない、「人」には届いていないという意味になるでしょうか。
息子:他に、どんな話があるの?
母:栗原信充著『柳庵随筆』には、丿貫が、よく馬に乗っていたことが書かれています。
「丿貫と云人は、伊勢国の者なり。常に牝馬に乗て何方へも行なり。牝馬はしづかなるものとてすきたり。」
その馬が死んだら、馬の皮を道具袋にして、いつも持っていたそうよ。
「死ても奉公させべしとて、皮をはぎなめしにして、袋に拵へて、内に入様の道具を入て、一生の内、何方へも持あるきしなり」
息子:よっぽどその馬の事が好きだったんだね。
母:藪内竹心著『源流茶話』では、徹底した「わび茶」を追求していたことが見て取れます。
「丿貫は、侘び数奇にて、しいて茶法にもかかわらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす、にじり上り口に新焼の茶壺をかざりて、関守と号す、異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」
息子:丿貫の話の最初に出てきた江村専斎著『老人雑話』にある「茶の会に丿観流と云ふ有」というのが、この事になるのかな?
母:江村専斎は1565年生まれ、丿貫は1678年生まれなので、逆に「丿観流」という言葉を「侘び数奇にて、しいて茶法にもかかわらず」にした、と考えた方が良いでしょうね。
息子:アニメ「へうげもの」で「北野大茶会」の逸話が紹介されていたけど。
母:久保利世著『長闇堂記』のことでしょうね。
「へちくわんと云し者、一間半の大傘を朱ぬりにし、柄を七尺計にして、二尺程間をおき、よしがきにてかこひし、照日にかの朱傘かゞやきわたり人の目を驚せり」
盤察著『除睡鈔』にも同様の記述があります。
「竹柱に真柴垣を外にかこひ、土間を美しくならせ無双のあしや釜を自在に掛け雲脚して拵へ、茶碗水指等はいかにも下直なる新焼を求め、以新為要、吾身には荒布の帷子を渋染にて、馬場さきの傍らに侍居たり」
息子:『長闇堂記』だと目立つ行動だけど、『除睡鈔』だと逆に控えめに思えるね。
ところで、武野紹鷗と丿貫の関係が出てこないけど、どうなってるの?
母:武野紹鷗と丿貫の関係は、薩摩藩著『三国名勝図会』にあります。
「丿桓石 府城の西南 西田村に属す、南泉院の西南一町許、通路の側にあり、名越氏宅地の墻角に傍ふ、丿桓が塚なり、丿桓は茶博武野紹鷗の高弟なり」
息子:丿桓と丿貫は同一人物なの?
母:丿貫は、文献によって丿桓、丿観、別寛などと書かれています。
近松茂矩著『茶湯古事談』に以下の文があります。
「或時道三考へて、丿貫の貫の字を桓の字にかへられし、子細は桓の字は木篇に作りは一日一と書り、作りの上の一字を取て木へんの中に入れは、本の字に成也、其本の字を旦の又中へ入れは、三字を分たる時は日本一と云字也、丿の字は人の半分也、然れはヘチクワンは人半分の日本一と云心なりとそ」
息子:「日本一」とする為に、「貫」を「桓」の字に変えられたわけだね。
図2-4. 丿桓と日本一の関係




