第二章 第五節 千利休は、本当に18歳で紹鷗に弟子入りしたのか
息子:千利休と武野紹鷗の師弟関係は、どんなだったの?
母:千利休は、16歳で北向道陳に弟子入りし、茶の湯の道に入ります。17歳の秋、18歳とも言われていますが、武野紹鷗の門を叩きます。
ただ、本当にこの時点で武野紹鷗に直接師事したかは、わかっていません。
息子:武野紹鷗に習っていたわけではないの?
母:最終的には、武野紹鷗の弟子になるのですが、『南方録』にある「宗易は与四郎とて、十七歳の時より専ら茶を好み、かの道陳に稽古せらる。道陳の引き合わせにて紹鷗の弟子になられしなり。」という文章は信頼できません。この『南方録』は、少々厄介な本なのです。
息子:厄介な本とは?
母:熊倉功夫著『「南方録」成立とその背景』によれば、『南方録』は、『利休茶湯書』の6巻に収録された「利休百会記」を下敷きにして脚色をほどこされた「創作物である」とされるからです。
この『南方録』には、「茶道・露地・懐石」といった江戸時代以降に使われる言葉や、茶入全盛の利休時代に「掛物ほど第一の道具はなし」とした定義、江戸時代になるまで使われていない「カネワリ法による台子飾りの図集」など、いくつもの矛盾を孕んでいます。また、千家にも伝わっていません。
息子:千利休は、北向道陳から煌びやかな書院茶を、武野紹鷗からわび茶をそれぞれ学び、茶道を大成していったという説は?
母:嘘とは言いませんが、残念ながら正しいとも言えません。
息子:信じられる文献だけだと何がわかるの?
母:表千家に伝わる春屋宗園著『一黙稿』に「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)」とあります。大徳寺に入り大林宗套より「宗易」の号を賜ったのが1540年で、利休の父・与兵衛を亡くした年です。
この春屋宗園は、利休と同時代を生きた人で利休の参禅の師です。
息子:他には?
母:利休の高弟・山上宗二著『山上宗二記』です。例えば、「茶湯名人ニ成ての果ハ、道具一種サヘ楽ハ、弥侘数寄カ専也、心敬法師連歌之語ニ曰、連歌之仕様ハ枯かしけ寒かれと云、此語ヲ紹鷗」という文章は、信頼できるでしょう。
息子:意味は?
母:紹鷗にとってわび茶の極意とは、連歌における「冷え枯れた」境地であるという意味です。
また、利休の子・千道安の掛物「茶の湯道歌」、利休の孫・千宗旦の『元伯宗旦文書』や『茶杓絵讃』、利休の曾孫・江岑宗左が聞書きした『逢源斎書』や『江岑宗左茶書』、紀州徳川家編『千利休由緒書』などが信頼できる本になります。あとは、各茶会記ですね。
息子:基本的には、千家の資料だね。
それと『南方録』には、他にどんな内容が書かれているの?
母:武野紹鷗が十四屋宗悟と宗陳のもとで学んだことや、耳付花入の逸話などでしょうか。
紹鷗が弟子の利休や不干斎らを伴い、宗能の茶事に招かれた道すがら、道具屋に「耳付きの花入」を見かけます。欲しいけど連れもあってその時は通り過ぎ、翌朝、遣いの者に買いに行かせます。
ところが、先に利休に購入され、利休から「花入を見つけたので茶会に来てね。」と言われ、
金槌を持って紹鷗は出かけます。
席入りし、白椿が二輪入っている片方の耳付けを欠いた花入を見て紹鷗は、利休に先を越されたことの他に 「耳付けを片方欠けばさらに良い花入になると思い、金槌を懐中してきたが無用だったか。」と言ったそうです。
息子:利休と紹鷗の心が見事に通じ合っている様子が描かれた、素晴らしいエピソードに感じたけど、これも嘘?
母:どうでしょうね。
『南方録』には、「宗易の物がたりに、珠光の弟子、宗陳、宗悟と云人あり。 紹鷗はこの二人に茶湯 稽古修行ありしなり。宗易の師匠は紹鷗一人にてはなし。」という文がありますが、神津朝夫著『千利休の「わび」とはなにか』では、日蓮宗徒の辻玄哉であったという説も提示されているとか。
ウィキペディアによれば、現在でも「利休らの茶室を読み解く際に南方録を引用」しているので、まったくの偽書として扱っているわけではないのが実情です。
息子:お母さんにとって『南方録』はどういう位置づけなの?
母:『南方録』にしか典拠のないものは、よくよく考えないといけないですが、全てを否定してしまうには、もったいない文献といった所でしょうか。
偽書である可能性を考慮して参考にしていくのであれば、『南方録』は優れた茶書に成り得ると私は思います。
息子:お母さんが『南方録』によれば、と言ったときは気をつけるよ。




