第五章 第三節 古今伝授に込めた思い
母:お茶杓のお作は?
息子:武野紹鷗かな。
母:それは素晴らしい、では御銘は?
息子:何にしよう。
母:「豊兆」というのはどうでしょう。
雪が多く降るのは豊年の前兆であるという「雪豊年兆(雪は豊年の兆し)」から取った言葉です。
『万葉集』に「新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは」という歌があります。
「雪見の茶事で、松風の音が静かに聞こえる中、 茶室からふと外を見ると、雪がしんしんと降っている。」
戦後の経済成長と共に、人々は豊さを手に入れていきました。
ただ、心の豊かさは徐々に失われていったように思います。
息子:そうかもしれないね。
母:茶室から見る雪は、心の豊かさを彷彿とさせる兆しへと、「豊兆」の茶杓を使った点前で、温かな抹茶を飲みながら、古き良き時代を懐かしむ時間となれば良いですね。
息子:他にはない?
母:「草深野」というのはどうでしょう。
『万葉集』に「たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野」という歌があります。
舒明天皇が宇智の野に狩りに出かけた時、中皇命が、間人連老に作らせて献上した長歌、
やすみしし わご大君 朝には とり撫でたまひ 夕には
い縁せ立たしし 御執らしの 梓の弓の
中弭の 音すなり 朝猟に
今立たすらし 暮猟に 今立たすらし
御執らしの 梓の弓の
中弭の 音すなり
に対する反歌です。
冬の朝、すみきった空気に、はりつめた狩り場の雰囲気を「宇智の広々とした野に馬を並べ、今頃は、朝の猟をしていらっしゃるのでしょう。」と詠います。
息子:なんか臨場感があるね。
母:良い機会です。武野紹鷗が好きだった和歌について、少し話しをしましょう。
まず、連歌師「宗祇」が「三条西実隆」と「肖柏」に「古今伝授」を行います。「肖柏」は、「林宗二」に「古今伝授」するのですが、この時点から三条西家に伝わる「御所伝授」、肖柏が堺町人に伝えた「堺伝授」、林宗二の「奈良伝授」という三系統に分かれます。
息子:はい、先生。
「宗祇」と「古今伝授」がわかりません。
母:「宗祇」は、歌人の家系冷泉家の「冷泉為尹」と、今川家の「今川了俊」に師事した「心敬」や、連歌の大成者「二条良基」と冷泉為尹の父「冷泉為秀」に師事した「梵灯庵」の弟子「宗砌」、宗砌や心敬、智蘊らと親交のあった「池坊専順」の3人に連歌を師事します。
「宗祇」は「藤原定家」の息子「藤原為家」の娘婿「東常縁」から「古今伝授」を授けられ、東常縁の弟「正宗龍統」から漢学を学びます。智蘊は「一休宗純」と親交があったことで有名です。
息子:まず、親子と友人関係は、以下のようになります。
図.5-3-1. 親子と友人関係
息子:古今伝授と弟子の関係を図にすると、こうなるね。
図.5-3-2 古今伝授と師弟関係
母:「古今伝授」というのは、古今和歌集の解釈 を、秘伝として師から弟子に伝えたものです。
静岡県三島市や、岐阜県郡上市に「古今伝授の里フィールドミュージアム」、WEB「国立国会図書館デジタルコレクション」の『伝心集』など、古今伝授の内容が今に伝わっています。
息子;その内容は?
母: 三島市のホームページによると、「筆記事項」として清濁や句読点などを付けた読み方・語義や語釈を、「口伝」として秘説を、「切紙」として三木や三鳥などの解釈が伝えられています。
このうち、「切紙」について説明すると、「三木」は「御賀玉木、河菜草、蓍に削り花」のこと、「三鳥」は「百千鳥、稲負鳥、呼子鳥」のことです。
息子:単に木と鳥の名前みたいだけど、何か意味があるの?
母:「三木」は、それぞれ三種の神器に対応します。御賀玉木は「八咫鏡」、河菜草は「草薙の剣」、蓍に削り花は「八尺瓊勾玉」です。同様に「三鳥」も三種の神器に対応し、百千鳥は「八咫鏡」、稲負鳥は「草薙の剣」、呼子鳥は「八尺瓊勾玉」になります。
「三鳥」と「三木」は、男女・陰陽の神器で対になり、この頭の六文字「を、か、め、も、い、よ」の暗号文をアナグラムとして読み解くと「名歌、思い、詠め」となります。
息子:つまり「名歌というのは、心で読みなさい」となるわけだね。
母:そうなります。
切紙の中身は、左に「素戔嗚尊」、右に「天照皇大神」、中央に大きく「陰陽の心」、その下に「神璽」の「八尺瓊勾玉」、「内侍所」の「八咫鏡」、「宝劔」の「草薙の剣」となります。
古今伝授を見れば、和歌は天皇家と密接に結びついていたことがわかると思います。
図.5-3-3 古今伝授の切紙
息子:ところで、武野紹鷗はこのことを知らなかったんだよね。
母:「古今伝授」されていないので、知らないと思われます。
ただ、「古今伝授」を受けている三条西実隆が直接武野紹鷗を指導しているので、「古今伝授の精神」は、なんらかの形で伝わっていたでしょうね。
例えば、武野紹鷗が造った大黒庵には「貴人口」があります。これは、上位の人をもてなすための出入り口です。その後、千利休は身分差を無くすという観点から貴人口を無くしています。
息子: 千利休に「古今伝授の精神」が伝わらなかったわけだ。
母:武野紹鷗は「古今伝授の精神」を、茶道の中に「貴人口」や「小倉色紙の掛軸」という形で表現しました。これは和歌の中から一種の神がかり的な魅力を感じとったからではないでしょうか。
ウィキペディアによれば、武野紹鷗は「奈良にある漆問屋の松屋を探訪し、表層が枯淡な徐熙の<白鷺の絵>を見て、村田珠光の茶道の茶味に目覚めた」とあります。
「侘び」という言葉が美的感覚を持って語られるのは『南方録』からですが、既に、紹鷗はこの時「侘びの心」を悟り利休へと伝えていったのでしょう。
利休は「貴人に対する神がかり的な魅力」に気づくことなく「侘び」を大成させます。千利休は「歌」が下手でした。和歌の心を感じることはできなかったためと思われます。
ですが武野紹鷗は、茶道に和歌の精神「名歌は心で詠む」気持ちを持ち込みたかったのかもしれません。
息子:もし、武野紹鷗が成したかった「古今伝授の精神」が茶道に持ち込まれたとしたら、どんな世界になっていたの?
母:茶道の中で、和歌の重要性が増していたことでしょう。そして、和歌が現在のように廃れることはなかったでしょうね。
武野紹鷗著『紹鴎門弟への法度』に「和歌」に対する姿勢が見て取れます。
原文:数寄者といふは隠遁の心第一に「侘て」、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし。
訳:茶の湯の数寄者とは、世俗を離れ、仏法の意味を知り、和歌の心を感じるものだ。
武野紹鷗は、茶道同様、和歌も「侘び」として後世に伝えたかったのかもしれませんね。




