第五章 第一節 茶庭に見る侘びと寂び
息子:戦国武将姫 MURAMASA、戦国IXA、戦国サーガ、戦国炎舞 -KIZNA-、
太閤立志伝、信長の野望などに、武野紹鷗が武将として登場します。
母:ゲームの世界では、武将なんですね。実際は、皮革や武具を売買する豪商です。ただ、朝廷に献金を行い、従五位下因幡守に任命されています。このあたりが武将として登場する所以でしょうか。
息子:因幡守というのは、どういう仕事なの?
母:国司という名誉職です。
因幡は、今の鳥取県鳥取市の岩美郡や八頭郡にあたる地域で、武野紹鷗29歳の時に国司となります。室町時代の国司は名目だけの官職で、実質的には守護大名が実権を握っています。当時の守護大名は、山名誠通です。但馬・備後守護の山名誠豊に偏諱の授与を受け、誠通と名乗るのですが、山名誠豊死後、誠豊の甥の山名祐豊と不仲になり、最後、1560年、山名祐豊に殺されます。これを「申の歳崩れ」と言います。
但し、「申の歳崩れ」という事件があったかどうかは疑問視されています。
息子:どういうこと?
母:この事件は江戸時代の医師・小泉友賢著『因幡民談記』が典拠ですが、この『因幡民談記』自体が、正しい歴史を書いた本とは言い切れないからです。近年の研究では『山田家古文書』を典拠に、1547年に山名誠通は既に没落していたのではないかとされています。
息子:お母さんの話には、『南方録』を筆頭に疑問符のある資料もあるね。
母:典拠が他にない場合、それらの資料を参考にする必要が出てきます。ただ、全面的に信じるのではなく、疑問視されているところには、「信頼できない部分」という旨を付け加えるようにしています。
息子:なるほどね。
さて、武野紹鷗は登場しないけれど、合同会社ニューゲームズオーダーが提供するボードゲームに「枯山水」があります。作庭家として千利休が登場する渋めのゲームです。
母:枯山水の庭は、室町時代に発展します。禅宗寺院で特に用いられたからです。枯山水という言葉は、平安時代に書かれた書『作庭記』が初出です。
武野紹鷗の頃は、ちょうど寝殿造庭園から、書院造庭園へ移行する時期です。
息子:寝殿造庭園、書院造庭園。
「枯山水」のほかにもいろいろ種類があるんだね。
母:日本庭園の主な形式としては、淡交社の淡交別冊No.12『庭』で、「書院式」と「回遊式」の2つに大きく分けています。
また、人工的に作った山があるかどうかで「築山式」と「平庭式」に、庭に水があるかどうかで「池泉式」と「枯山水式」に分けています。
中国から渡来した庭園としては「寝殿式」や「浄土式」があります。
江戸時代には、上記のいずれかの方式を用いた「大名庭園」が造られることで、日本庭園築造技術は頂点を迎えます。
「近代庭園」としては、明治27年、山形有朋自らの設計監理により造園家・小川治兵衛が作庭した「無鄰菴」、大正期の明治神宮御造営で造園された「明治神宮」が有名ですね。
息子:一緒にまとめると、以下のような区分けになるね。
母:夢窓疎石が作庭したとされる京都西芳寺の枯山水。
村田珠光と親交のあった一休の酬恩庵一休寺の枯山水。
武野紹鷗が萩焼を習いに行った山口県。その山口県にある雪舟が作った常栄寺庭園の枯山水。
そして、武野紹鷗が参禅した南宗寺の本坊方丈南側の枯山水。
想像ですが、鎌倉時代の夢窓疎石が作庭した禅寺の庭を、室町時代に村田珠光や雪舟が影響を受け、武野紹鷗が「茶庭」としたのなら素敵ですね。
息子:武野紹鷗が建てた茶室「大黒庵」は、どんな茶庭だったの?
母:現存していない為、わかりません。
枯山水に静かなたたずまいの茶室が映え、落ち着いた茶庭に名水が湧く、侘びた雰囲気の露地に枯れ葉が少し落ちている。そんな茶庭ではないでしょうか。
息子:紹鷗に庭掃除を命じられた利休が、綺麗に掃いた露地に木をゆすって葉を落とし、自然な風情を出した。
母:大槻磐渓著『近古史談』の利休の逸話ですね。紹鷗が茶庭に求めたものは、自然の美しさに潜む「不完全さ」です。その後、利休の代で「よろずこと足らぬがよし」(『南方録』より)としていきます。
この茶庭で紹鷗が垣間見たものこそ、利休が大成する茶道の未来像だったのでしょう。




