一息ついて
医務室の扉を潜った、その瞬間のことだった。
「レイチェル――っ!!」
突風のような勢いで飛び込んできた茶色の影が、私の身体を正面から思いきり抱きしめてきた。ライアだ。
「ふぎゅっ……!?」
丸二日眠り続け、バネッサ先生に手荒な治療を受けたばかりの身体に、野生児の全力の質量がのしかかる。みしり、と骨が鳴るような音がした。
「あ、頭が割れるように痛かったのに、今度は身体が割れる……。ライア、力、入れすぎ……っ」
「ライア! 病み上がりの患者に何て真似をするのよ!」
すかさず、後ろから凛とした声が響き、ライアの獣耳がぴくっと跳ねた。セシリアが、ライアの襟首を器用に掴んで引き剥がす。
「あぅ……だって、心配だったんだぞ! レイチェルの魔力が消えかけたって聞いて、アタシ……」
「気持ちは分かるけれど、加減を覚えなさい。……でも、本当に無事でよかったわ、レイチェル」
セシリアはいつも通りのすました顔を崩さなかったが、その切れ長の瞳が微かに潤んでいるのを、私は見逃さなかった。
「みんな、心配かけてごめんね。でも、バネッサ先生も一応太鼓判を押してくれたから、もう大丈夫だよ!」
私の後ろから顔を出した木葉が、場を和ませるように明るく笑う。二日間、必死に看病してくれた彼女の笑顔に、セシリアもライアも完全に安堵したようだった。
「……心配をかけた。みんな、ありがとう」
私は首元に新しく巻いた包帯――『深紅の獣の顎』を隠すためのそれをそっと指でなぞりながら、大切な仲間たちへ短く感謝を告げた。
一時間後。私たちは学園都市の喧騒から少し離れた、緑豊かなテラス席にいた。
戦闘訓練の凄惨な結果を受け、学園はクラスの再編に向けて大混乱の真っ只中にある。授業が数日間休みになった私たちは、木葉の発案で「レイチェルの退院祝い」を兼ねたお茶会を開くことにしたのだ。
「それにしてもさ! あの時のレイチェル、本当に最高に格好よかったんだぞ!」
注文した肉料理に豪快にかぶりつきながら、ライアが身振り手振りを交えて大興奮で語り出す。
「前線が崩れて、アタシですら『もうダメか』って思った瞬間さ、レイチェルがバッて跳んでさ! サソリの殻の隙間に、ドゴォォォンッて拳を叩き込んだんだ!」
「……あまり大声で騒ぐんじゃないわよ、ライア。周囲の迷惑でしょう」
セシリアが呆れたようにハーブティーをすすりながら窘めるが、彼女もまた、どこか誇らしげに胸を張る。
「でも、ライアの言う通りよ。あのジャイアントメタルスコーピオンの強固な甲殻を、純粋な打撃だけで撃ち破るなんて、常識では考えられないわ。一組を救ったのは、間違いなくあなたのその拳よ、レイチェル」
「うんうん! レオンハルト君も『あいつのおかげで生き残ることができた』って、めちゃくちゃ褒めてたよ!」
木葉も嬉しそうに頷く。
仲間たちからの惜しみない賞賛。しかし、私はそれをどこか遠いことのように聞きながら、目の前に置かれた「未知の物体」を凝視していた。
白い陶器の器に盛られた、山盛りの生クリームとチョコレート。鮮やかな赤いベリーが散りばめられた、美しくも妖艶なタルト。
地獄の修行時代、ゾシモスからは泥水と干し肉、そして魔獣の生血しか与えられてこなかった。聖王国に行った時も、師匠は私にパフェを一口も食べさせてくれなかった。
私にとって、これほど「甘美な彩り」を持つ食べ物は人生で初めてだった。
「……これが、スイーツ」
「そうだよ! チョコレートパフェとベリーのタルト。女の子はね、こういう甘いものを食べると元気が出るんだから!」
木葉に促されるまま、私はフォークを手に取り、タルトの端を小さく切り取って口に運んだ。
「っ――」
脳天を突き抜けるような、強烈な衝撃だった。
カカオの濃厚な苦味を包み込む、暴力的とも言える砂糖の甘み。それを追いかけるように、ベリーの瑞々しい酸味が舌の上ではじける。美味い。美味すぎる。これは本当に、この世の食べ物なのだろうか。
「……っ!」
その瞬間、私の身体の「スイッチ」が入った。
カチャカチャカチャカチャッ!!
「えっ」
木葉の短い悲鳴のような声が響く。
私の表情は無表情のままだ。視線もタルトから一切動かない。しかし、フォークを持 つ右手だけが、先ほどライアが熱弁していたサソリ戦の時以上の、恐るべき神速と正確さで空間を切り裂き始めた。
パクッ、モグモグ、ゴクン。パクッ、モグモグ、ゴクン。
一瞬だった。本当に、まばたきをするような一瞬の間に、大皿に乗っていたベリーのタルトが、まるで最初から存在していなかったかのように消滅した。
私のフォークは止まらない。間髪入れずに、隣にそびえ立つチョコレートパフェの山へと突き立てられる。白いクリームの山が、ブラックホールに吸い込まれるように私の口内へと消えていく。
「ちょ、ちょっと、レイチェルちゃん!?」
木葉が椅子から立ち上がりかけるほど目を見開いている。
「な、何あの速度……!? エルフの動体視力でも、フォークの軌道が残像にしか見えなかったわよ……!」
セシリアがハーブティーを飲むのをやめ、ライアにいたっては口に肉を咥えたまま固まっていた。
最後の一口を綺麗に飲み込み、パフェのグラスが完全に空になる。
私はふぅ、と小さく息を吐き、口元をナプキンで拭ってから、初めて木葉たちに視線を戻した。
「……ごちそうさま。とても、美味しかった」
静まり返るテラス席。数秒の沈黙の後、木葉がふっと表情を緩め、お母さんのような温かい微笑みを浮かべた。
「ふふっ……! そんなに気に入ってくれたなら、頑張って選んだ甲斐があったよ。店員さーん! この子に、お代わりのチョコレートケーキとプリンをください!」
「……え、いいの?」
「もちろん! 今日はレイチェルちゃんのお祝いなんだから、お腹いっぱい食べなきゃダメだよ」
「……ありがとう、木葉」
私は心からの言葉を口にする。運ばれてきた新しいケーキを、今度は少しだけ速度を落として、大切に味わうことにした。
「本当に、相変わらず底が知れないわね、あなたは」
セシリアがクスリと笑いながら、新しく淹れ直されたお茶をゆっくりと口にする。
「ガハハ! 食べる速度も一級品だな! アタシも負けてらんねえぞ!」
ライアも再び肉を頬張り始め、テラス席にはいつもの、賑やかで温かい空気が戻ってきた。
吹き抜ける風は心地よく、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
これから始まるクラスの再編、そしていつか対峙しなければならない仇敵ヴァラガスの影。私の首筋に刻まれた紋様は、確かに冷たく脈打っている。
けれど、今だけは。
この温かい平穏の光の中で、私は仲間たちと共に、ただ静かに甘いケーキを口に運んでいた。




