第五章 魔の森へ 敵の本陣へ【scene1】
これまでのあらすじ:
敵の撃退に成功したものの、メネアでは手詰まりの状態に陥った。今後の作戦に、敵が占領するチリンスの丘の奪還は避けることのできない作戦であるが、メネアの戦力では不可能なことだった。メネアの者たちが手をこまねいている間にも情勢に変化は起きていた。ドドナでは陵墓をめぐる攻防戦が行われ、パジェット教授はその陵墓の謎に迫っていた。そんななか、リオンは状況を打開する秘策を実行に移す。しかし、それは邪道と呼ぶべき非人道的な作戦だった……
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リオンたちが遺体を放置したくぼ地はどちらかと言えば、深い穴ぐらと言ってよいものだった。屍霊と化した死者たちは、生者に惹かれるようにリオンの立っている側をよじ登りはじめた。しかし、くぼ地の側面が次々と崩れて、アリジゴクの蟻のように底へずり落ちていく。彼らは恨めしげにリオンを見上げて、呻き声ともつかない声をあげた。
「俺の生き血と心臓が欲しいか? 残念だな。簡単にくれてやるわけにはいかないんだ」
リオンは懐から革袋を取り出すと、穴ぐらの屍霊たちを残して、その場から離れた。リオンが向かったのは森の斜面を登った先にあった。巨大な岩が城のようにそびえ立っている。その岩場の足元に小さな泉が湧いていた。その泉から光を放っているようで、薄暗い森の中をほんのりと青白く照らしていた。
「良かった。ここで間違っていなかった」
リオンはうっすら笑みを浮かべると革袋の口を広げた。袋の口を泉につけると、その水を汲み始める。革袋を水で満たすと、今度は片手で水をすくい、そっと口に含む。ひんやりとした感覚が口の中に広がり、同時に身体が軽くなった気がした。
「さすが『聖なる水』。身体に力がみなぎってくる」
――『聖なる水』。
ギデオンフェル国内の様々な場所で湧く、不思議な清水のことである。邪を払い、浄めの力を持つとされ、この世界では『聖なる水』と称されている。単なる地下水と違う清水が、地形学的な脈絡もなく湧き出す理由は明らかになっていない。ただ、この清水をギデオンフェル王国の人びとは敬意を持って神聖な行事に使用していた。街中でこの水が湧くところは例外なく教会が建てられているのだ。『聖なる水』が湧く地であるという理由で、その泉を中心に街が形成されたこともある。『聖なる水』は、この世界の人びとにとって、信仰だけでなく生活の一部でもあるのだ。リオンが水を汲んだのは、その『聖なる水』が湧く貴重な場所だった。リオンはケインたちと小隊を組んで旅をしていたときに、この泉を見つけたのだ。人里離れたところであるため、単なる給水地として利用していたが、今回はその『聖なる水』の力を使おうと考えているのだ。
リオンが革袋を携え、くぼ地に戻ってみると、屍霊たちはまだ穴の底で蠢いていた。呻き声をあげながら、緩慢な動きで底から這い上がろうとしている。相変わらず崩れる地面に手足を取られて、屍霊たちは底に押し戻されていた。
「強化型にならないと、この穴ぐらからは這い上がれないよ」
リオンは言い聞かせるように話しかけた。もっとも、リオンの言葉を理解できているとは思ってはいなかった。屍霊たちは、生気のない顔を見上げて、リオンを見つめながら穴の底から手を差し伸べている。それぐらいでリオンには届かないことを理解できないようなのだ。
リオンは穴のふちから離れると、さらに斜面を登った途中で腰を下ろした。そのまま穴の底から屍霊たちが這い出すのを待つ。もし、彼らの中から強化型に進化した者が現れれば、一気にリオンの喉元めがけて飛びかかってくるだろう。穴のふちでずっと待つのは危険なのだ。
リオンは身じろぎせず、じっと待ち続けた。穴の底の呻き声はか細く、心もとない。這い上がろうとする物音は聞こえるが、むなしくずり落ちる音も続けて聞こえてくる。リオンはいつまで待つことになるのだろうと思った。
メネアを出発したのは早朝だった。それなりに口実を設けてはいるが、やはり遺体を積み込んで出かけるところを大勢の目にさらしたくなかったのだ。遺体を穴に放り込む作業は昼までには終わらせた。あれから何時間過ぎたころだろう。日は自らを赤く染めて、遠くの山影に姿を隠そうとしていた。山地は日が暮れるのが早い。間もなく、この辺りは夜になるだろう。
リオンはくぼ地の上に黒い霧状のもやがかかっていることに気がついた。もやは水のようにくぼ地の底へと流れていく。
リオンは「あれは?」とつぶやいた。あれは……、まさか、あれが悪霊なのか? 屍霊は悪霊を取り込むことで強化型へと変化するのだ。リオンは悪霊を目にしたことはなかったが、状況からそうではないかと考えた。
もやがくぼ地へと消えて間もなく、底から大きな咆哮が聞こえた。咆哮はひとつではない。数え切れない凶暴な声が地の底から湧きあがってきたのだ。それは、まるで地獄の口が開いて、そこから悪鬼が湧いてきたかのようだった。
「ついに変化したか」
リオンは革袋を手に立ち上がった。油断なく、くぼ地に視線を向ける。ザザザッと地面をかき分けるような音が聞こえると、屍霊がひとり駆け上がるようにして姿を現わした。変化以前とはまるで別ものの腕力と敏捷さだ。あまりの変化に、リオンも目を丸くした。
「驚いた。見違える……じゃないな。見損なっていたな」
リオンは革袋の口を開きながらつぶやいた。屍霊はあたりをうかがうようなそぶりを見せていた。不意にリオンのほうへ顔を向けると、ひと声吠えながら突進してきた。口の端から血で濁った泡を浮かべている。
「これ以上、近づかないほうがいいよ」
リオンは屍霊に話しかけながら『聖なる水』を少し自分の周囲に撒いた。屍霊の足が止まる。屍霊は水の撒かれたあたりに足を踏み入れず、周囲をうろうろとしているだけだ。
「『聖なる水』の効果は証明されたな」
リオンは革袋を見つめながらつぶやいた。『聖なる水』はその神聖な性質により、屍霊を寄せ付けない効果があると言われていた。ただ、民間で伝わる話のみで、正式に認められたわけではない。実際に『聖なる水』の効果を試した者がいなかったのである。あるいは名乗り出なかった、と言うべきかもしれない。この噂は真実性の高い話として伝わっていたからである。リオンもこの噂を信じていたひとりだった。もし、『聖なる水』が屍霊に効果がなかったとしても、自分ひとりであればどうにでもなると思っていたから、こんなバクチのような実験をしたのである。
……効果は確認できた。ただ、効果を確認した背景を説明すれば非難されること間違いなしだ。なるほど。だから、この話は噂どまりなんだ。こんなこと他人に自慢して話せるものではない。
リオンは結果とともに、この事実が公にならない理由を知ったのだった。
そんなことをリオンが考えている間に、リオンの周囲はひとだかりができていた。すべて屍霊のひとだかりである。もし、リオンが隙を見せようものなら、いっせいに飛びかかるつもりのようだ。くぼ地の屍霊は残らず強化型に変異したようだ。リオンは人数を数えて確認した。
「そうだな。もし、俺が隙を見せたら、君たちは俺を襲ってもかまわないよ。君たちは俺を喰い殺す充分な理由がある」
50人数え終えると、リオンは屍霊たちに微笑みかけながらつぶやいた。屍霊たちはリオンの言葉が通じているようには見えない。しかし、少しずつ間合いを詰めて、いつ襲いかかろうか狙っているようだ。この様子を見ると、たしかに屍霊たちには意思があり、知能もあるように思える。ただ、そうは見えても、すべてが反射の反応にすぎないはずだ。この世界に屍霊が現れて以来、人間と彼らが意思を通わせたという記録は皆無である。屍霊は生者を死者の世界へ引きずり込む、そんな呪われた存在なのだ。
「さぁ、みんな、行こうか」
リオンは革袋を肩に載せながら、屍霊たちに話しかけた。リオンが一歩踏み出すと、屍霊たちは一定の距離を開けながら、リオンについてくる。口の端からあふれる血のよだれは、リオンを狙っている意思表示に見えた。リオンはこうして、チリンスの丘へ向かったのである。
チリンスの丘に到着すると、リオンは正面の柵にゴブリンたちが身構えているのを確認した。こうして大勢の敵を前にすると気分が高揚してくる。不思議だと思った。リオンは自分自身を戦闘狂だと思っていない。しかし、この瞬間、リオンの胸の内に湧き上がってきたのは、まさに『歓喜』だった。リオンは剣を抜き放ち、「さぁ、反撃の開始だ!」の声とともに柵に向かって身を躍らせた。口の端に笑みを浮かべて。
リオンは柵やゴブリンたちを一気に飛び越えて、さらに奥へと着地した。リオンのあまりの跳躍力に、身構えていたゴブリンたちも呆気に取られているだけだった。そして、リオンのこの行動が屍霊たちへの合図となった。彼らは咆哮をあげると、柵に向かって突進を始めたのだ。
リオンを振り返っていたゴブリンたちは、屍霊の咆哮で向き直った。突進してくる屍霊を認めるや、いっせいにボーガンを放った。
数え切れないほどのボーガンの矢が屍霊たちに放たれ、多くが屍霊の身体を貫いた。一瞬動きを止めた者もいたが、ほとんどの屍霊たちは立ち止まることなく突進を続け、あっという間に柵に取りついてしまった。柵をつかんで吠える者、柵をよじ登って乗り越える者、柵を挟んで、屍霊と魔族との攻防戦が始まった。
ゴブリンたちは柵越しに槍を突き出し、屍霊の身体を刺し貫いたり、柵を乗り越えた者を剣で斬りつけたりした。しかし、いずれもが動きを止めることなく襲いかかってくる。槍を突き出したゴブリンは、その手を屍霊につかまれて、柵の外へと引きずり出されてしまった。剣で斬りつけたゴブリンは、そのまま覆いかぶされて屍霊に喉笛を噛み千切られた。そこでようやく、ゴブリンたちは自分たちが相手にしているのは通常の人間でないことに気づいたのだった。ゴブリンたちから動揺の叫び声があがる。その声は自分を包囲しているゴブリンたちを蹴倒しているリオンの耳にも届いた。
「ようやく、相手が屍霊だと気づいたみたいだね」
リオンは目の前のゴブリンを斬り捨てると、チリンスの丘頂上を目指して駆け出した。目指すは敵本陣。ガニメデスのいるテントであった。




