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序章 ー回想ー

夢を見ていた。

懐かしい匂いと、優しい声のする夢を。


「おかあさん、なんでうちにはおとうさんがいないの?」


夕飯の支度をしていた母の手が、ふと止まる。

鍋の煮立つ音と換気扇の風が、部屋の静けさを埋めている。


「……そうねぇ」

そう言って母は料理の手を止め、譲に向き直る。

「あなたのお父さんは、すごく立派な人。だけど、今はお仕事で遠くにいるのよ」

「ふーん……」

幼い譲は首を傾げた。

”遠く”がどれくらい遠いのか、いまいち想像もつかない。


母はおたまを置き、しゃがんで譲の目線に合わせる。

「譲は、お母さんと二人きりで、寂しい?」


譲は一瞬考えて、ーー満面の笑顔で言った。

「ぜーんぜん!」

その答えに母は小さく笑い、譲を抱きしめ、頭を撫でる。

でも、その笑顔の奥には、ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。



小学校高学年の頃。

母と二人でスーパーへ買い物に行くのは、譲にとっては少し気恥ずかしいことだった。

もうクラスメイトとの関係を意識しだす年ごろ。

それでも母は「譲も行こうよ」と笑って譲の腕を引く。

譲はため息をつきながらも、結局その手を振り払えなかった。


スーパーの袋を下げて歩く夕暮れの帰り道。

「譲、今日のカレーはさ、お肉多めにしよっか」

母の声は明るく、どこか嬉しそうだった。


「別に、どっちでもいいよ」

照れ隠しのつもりが、思ったより素っ気なくなってしまった。

母の少しだけ寂しそうに笑う顔を見て、譲は小さく罪悪感を覚えた。


ーーその時だった。


耳を劈くブレーキ音。

タイヤがアスファルトを焼くような音と、誰かの悲鳴。

振り返る間もなく、眩しいライトが視界を埋め尽くした。


母の手が、譲の胸を強く突いた。

その瞬間、身体は後方へ弾かれ、尻もちをつく。


「母さーーー」


言葉の続きは、金属が潰れるような轟音に搔き消された。

スーパーの袋の中身がばらばらと散らばる。


ーー母はもう、笑うことはなかった。



葬儀の席。

元々知り合いの少ない母の葬儀は、身内だけで開かれるつつましいものだった。

来場した数少ない親戚筋の人間たちが、冷ややかな目でこちらを見ていた。


「私生児らしい」「誰が面倒をみるのよ」そんな口さがない声が聞こえる。

まだ小学生の譲には、言葉の深い意味までは分かりかねることもあったが、


それが悔しかった。

そして理不尽に命が奪われたことが、ただただ怖かった。


近所に住んでいた黒髪の女の子が、譲の手をぎゅっと握る。

その時、譲は久しぶりに泣いた。



(……あれから、どれくらい経ったんだっけ)


夢の中で、小学生の譲が泣いている。


ーー母さん、死ぬなよ!

ーー俺を置いていくなよ!


泣きながら、冷たい母の手を放そうとしない。


遠くで誰かが名前を呼んでいる様な気がした。

暗闇のなか、母の笑顔と声が蘇る。


『譲、生きるのよ』


そしてその声が、別の誰かの声に溶けていった。


『ーー私のために生きよ、少年!』


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