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序章 -邂逅-

東京都S区、桜之台。

オフィスビルと古びた住宅街が入り混じるこの街の一画、

駅前のアーケード街の片隅に、小さなレストラン《ヴィラ・ロッサ》はある。


夜の八時を回ったというのに店内は未だ多くの客たちが食事を楽しんでいた。

厨房では二人のコックが手際よくフライパンを振り、

バターの香りと焦げたソースの匂いが交じり合っている。


その奥で流し台の前に立つひとりの少年が手際よく皿を洗っていた。

少年の名は間宮譲まみや ゆずる

黙々と手を動かす姿は落ち着いていて、どこかこの場所の雰囲気にも馴染んでいた。


「間宮くん、こっちの食器を片付けて!」

「了解です」


ホールスタッフの声に、そのまま慣れた手つきで食器をラックに並べ、食洗器へ放り込む。

彼の動きは無駄がなく、そしいて柔らかい。

一年も続ければ、もう殆どここの人間だ。


「相変わらず静かだねぇ間宮くんは。最近の高校生ってのは、みんなこんな感じなのかい?」

中年のシェフーー料理長だーーーが、笑いながら声をかける。

譲は手を止めずに肩をすくめた。


「喋っても時給は上がりませんからね」

「はは、相変わらずだねぇ」


厨房に小さな笑いが起こる。

譲も口元をわずかに緩める。

ここの空気が嫌いではなかった。


(ここにいる間だけは、変なことを考えずに済む)


泡立つ水の中で皿をこすりながら、そんなことを思う。

店の音、人の声、油の匂い。

全部が”現実”の手触りを思い出させてくれる気がした。


壁の時計が八時半を指す頃、料理長が声を上げた。

「間宮くん、もう上がっていいぞ。あとは私たちでやっておくから」

「ありがとうございます。お疲れさまでした」


譲は更衣室で着替えを済ませ、軽く一礼して裏口へ向かった。

扉を押し広げた瞬間、店の喧騒は遠ざかり、

雨音と一緒に湿った夜気と油の匂いが入り混じった静けさが広がる。


雨。

濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやりと反射していた。


譲はため息をついて両腕でゴミ袋を抱えて、裏口脇にあるゴミ置き場へと歩き出す。


「……止まないな、雨」


ぼそりと独り言ちて、袋を下ろす。

小さな店の換気扇がうなり、どこかでパトカーのサイレンが遠くに響いた。


その時だった。


『ドンッ!!』

という鋭い衝撃音と、何かが崩れる様な音が、夜の静寂を切り裂いた。


思わず顔を上げる。

ゴミ置き場の更に先、路地の奥から何か大きなものが落下した様な音が響いた。


「……面倒ごとは勘弁してくれよ」


ため息をつきつつ独り言ちる。

落下音は降りしきる雨の音に阻まれ、レストラン内や大通りまでは届いていない様だ。

面倒に巻き込まれることは願い下げだが、万が一人が巻き込まれていたりすれば寝覚めが悪い。


ゆっくりと音のした方に進む。

路地の奥、老朽化して弱弱しい街灯にうっすらと照らされた瓦礫の山の上。

その瓦礫の山に何かが横たわっていた。


「……な、んだ、あれ……?」


人の様な形はしている。が、何かが違う。

うっすらと照らされる雨に濡れた黒い毛並み、異様に長い四肢。


遠めに見ても熊よりも大きい巨大な身体。

こんな町中に、熊よりも大きい獣が突然現れるなんて不自然だ。

心臓が嫌な音を立てる。逃げた方がいい、頭ではそう判断していた。


それでも、視線が外せない。

理性よりも先に、何か得体のしれない本能が警鐘を鳴らしていた。


その時ーー、

グルルルゥ……。と、低く地を震わせるような音が空気を這った。

目の前の化け物がゆっくりと身を起こし、赤い双眸がこちらを向く。


「……マジかよ……」


思わず声が漏れる。

身の丈2~3mは有ろうかという巨体が雨粒に濡れ、路地の暗闇に鈍く光った。


化け物の瞳がこちらを捉え、わずかに身を沈めた。

次の瞬間ーー地面が弾けたように見えた。


「っーーーーッ!!」


何が起こったか分からない。

ただ、視界の端で闇が跳ねた様な気がした。


次の瞬間、腹に焼けつくような熱が走り、世界が反転した。

壁、空、雨、街灯の明かりーーすべてがぐるぐると混ざる。


「がっ、は……!?」


背中に硬い衝撃。

肺の中の空気が一気に押し出される感覚。


耳の奥の方で、ゴウン、というくぐもった鈍い音が鳴る。

自分の鼓動なのか、周りの何かの音なのか、区別がつかない。


うつ伏せに崩れた視界の端に、獣がゆっくりと動く気配。


それだけで、もう身体が動かない。

腹の熱はさらに酷くなり、生暖かいものが流れ出ていく様な感覚。

手が震え、視界は霞み、身体に力が入らない。


(……死ぬのか、俺)


恐怖と理解が遅れてくる。

”死”がもうすぐそこにある。

怖い、怖いに決まってる。

なのに、身体が動かない。もう何も出来ない。


獣が一歩、また一歩と喉を鳴らしながら近づいてくる。

その度に「びちゃり」という不気味な音が鳴る。


その時ーー。

目の前で閃光が弾けた。

街灯の球が破裂し、白い光が一瞬路地を満たす。


ーーーーーーーーッ!!!!!!

獣が咆哮をあげる。

光に怯えた様に後ずさり、壁を蹴って飛び上がる。

その巨体が闇に溶ける様に消えるまで、ほんの数秒。


辺りには、雨の音だけが残った。

街灯は黒煙を上げ、電線の焦げた臭いが漂う。



静寂。


譲は動けなかった。

腹の熱も、身体の痛みも、ゆっくりと遠ざかっていく。

力というものが緩慢に流れ出ていくかのような感覚。


(これで終わるのか)


雨粒が頬を打つ音に、鼓動の音がかき消されていく。


「……死にたく、ねぇ……」


血に濡れた喉から振り絞った言葉は、掠れて雨音にかき消され、

それが自分の声かどうかも分からなかった。


ふと、ぼやけた視界の端に人影が映る

細い足首、濡れた銀色の髪。

コツコツという小気味よい足音を立てて、路地の奥から静かに歩いてくる。


光を失った街灯の下、その細身の影が立ち止まる。


「死ぬのか?」


高い様な低い様な、少年なのか少女なのか分からない妖しげな雰囲気の、澄んだ声。


譲は喉に詰まるものを吐き出しながら、皮肉に口角を上げる。


「……見て、分かんねぇの……?」


言葉と一緒に、喉の奥から血が溢れた。


その様子を、影はただ黙って見つめていた。

まるで初めて見る現象を観察しているかのように。

首をかしげ、小さく息を漏らす。


「死にたいのか?」


本気の疑問の響きだった。

そこに侮蔑も、哀れみもない。

ただ、”理解できないもの”に対する純粋な声。


そんな影の態度に一瞬だけ、譲は死の間際だというのに、呆れて息を吐く。


「……そんな訳、あるかよ……」


掠れた声に悔しさが滲む。

顔を歪めながら、咳き込み、地面に片手をついた。

濡れた指先がアスファルトを力なく掻く。


その仕草を、影は無言で見つめていた。

ほんの短い沈黙のあとーー、影は口元にわずかな笑みを浮かべた、ような気がした。


「面白い、--こいつにしよう」


影は膝を折り、譲の顔のすぐそばまで身を屈める。

視界の端がぼやけ、世界がゆっくりと遠のいていく。


最後に残ったのは、闇にゆれる深い紫の双眸と、怪しく澄んだ声。


「私のために生きよ、少年」




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