第3章:ベルベットの囁きと忘れ去られた王冠
第3章:ベルベットの囁きと忘れ去られた王冠
中央行政ビルの薄汚れ、筋の入った高い窓から朝の光が差し込み、整然と並ぶ無機質な木製デスクの上に幾何学的な光のブロックを描き出していた。室内は機械式タイプライターの打鍵音、公式台帳の翻る音、そして大量の書類の山に埋もれた何十人もの事務員たちの低い雑談の蠢きに満ちていた。
ケンジは慣れた手つきで、デスクの間の狭い通路を静かに進んだ。擦り減った床板の上に彼のブーツの音が響くことはなく、椅子に腰を下ろすと、鞄を足元に整然と置いた。一秒も無駄にすることなく、彼は新しい出荷目録の山を引き寄せ、万年筆を黒いインク瓶に浸すと、一行ずつ数字を記録し始めた。その動きは機械的で、一切の躊躇がなかった。
突如として、部屋を満たしていた雑談の音が静まり返った。
ホール正面の重厚なオーク材のドアが、ギィと音を立てて開いた。一人の若い女性がオフィスへと足を踏み入れ、入口近くの磨かれた石の床にヒールの靴音を柔らかく響かせる。
彼女は折り目の正しい仕立ての良い紺色のスーツジャケットに、プリーツの入った白いブラウスを身に纏い、穏やかな威厳を完璧に漂わせていた。短く切り揃えられた銀髪は几帳面にピンで留められ、磁器のように滑らかな顔立ちを縁取っている。その唇には温かく親しみやすい笑みが浮かんでいた。昼の光を浴びた彼女の瞳――柔らかく優しいバイオレット色は、心からの温もりを込めてオフィスを見渡す。
そこには、一年前の工事現場にいた血に塗れた怪物のような捕食者の面影など微塵もなかった。部屋にいる全員にとって、彼女はただの山本アイコ(Yamamoto Aiko)――管轄行政区の若くして極めて優秀な総括監督官に過ぎなかった。
「皆さん、おはようございます」
アイコは柔らかく声をかけた。蜂蜜のように滑らかで甘い声だった。
「四半期末の報告書作成、皆さん本当に良く頑張ってくださっていますね。どうか私の登場で手を止めないでください。今日も素晴らしいお仕事ぶりです」
事務員たちの間に、かすかな安堵のため息の波が広がった。男性社員の何人かは襟元を正して彼女の称賛に顔をほころばせ、他の者たちは彼女が中央通路をゆっくりと歩き始めると慇懃に頭を下げた。彼女は中年男性のデスクの近くで足を止め、彼の几帳面な台帳の記入を一瞥して小さく頷くと、再び歩みを進めた。
彼女がケンジの作業スペースを通り過ぎた時、そのリズムカルな足取りが一瞬だけ途切れた。
彼女の淡いバイオレット色の瞳が、ケンジの首筋を撫でる。完璧に固く結ばれた紺色のネクタイと、紙の上を滑るように動く万年筆の迷いのない軌跡。その穏やかな人間の仮面の下で、彼女の瞳の奥深くに冷たく計算高いいら立ちが揺らめいた。
(召喚士……?)
アイコの外面の笑みは完璧に固定されたままだったが、その内なる思考は刃のように研ぎ澄まされていく。
(こんな場所に? こんな底辺の事務室にいるなんて……なんという思いがけない余興かしら)
彼女は立ち止まって彼に声をかけることはしなかった。スカートをかすかに揺らしながら彼のデスクを通り過ぎ、ホールの奥にあるガラス張りの個室へと消えていくと、静かにドアを閉めた。
ケンジは一度も顔を上げなかった。彼は万年筆を紙の上でリズムカルに走らせながら書き続けたが、総括監督官が視界から消えた途端に部屋中に広がる囁き声を、彼の耳はすべて拾い上げていた。
「おい……山本監督官はマジで天使だな」
ケンジの真後ろのデスクから、押し殺した声が漏れた。
「本当にな」
別の事務員が低い、内緒話のような声で応じる。
「けど正直、どれだけ優しい言葉をかけられたって、俺はこのドブみたいな職場に残るつもりはないね。明日、退職届を出すつもりだ」
「退職!? お前正気か? 辞めてどうするんだよ」
「俺は召喚士として覚醒するんだ」
最初の事務員が、傲慢な自尊心を漂わせて言った。
「こんな書類仕事ばかりの人生とはおさらばだ」
二人目の事務員から軽い鼻で笑うような声が漏れた。
「召喚士だと? 冗談よせよ。あんな魔法を使うには、名門一族の高品質な血統が必要なんだぞ。お前の実家はパン屋だろ」
「血統なんて関係ねえ!」
最初の男が弁解するように身を乗り出し、声をひそめた。
「必死に訓練すれば、体内に眠る潜伏エネルギーを強制的に覚醒させられるんだ! 純粋な鍛錬によってコアに火を点ければいいだけだ!」
「夢を見るのもいい加減にしろ」
二人目の事務員は台帳のページをめくりながら冷笑した。
「そんなに簡単な話なら、この部屋の半分は今頃召喚士になってるさ。あっちの佐藤を見ろよ」
彼はケンジの後頭部を大雑把に指さした。
「あいつはあの『偉大なる佐藤一族』の直系だろ? もし努力と血統だけでどうにかなるなら、あいつがこんなところで小銭稼ぎのために石炭の出荷記録なんてつけてるわけねえだろ」
「『偉大なる佐藤一族』だと?」
最初の事務員は荒く、冷ややかな笑いを漏らした。
「笑わせるな。あんな一族、今や幽霊話(おとぎ話)だ! 百年前に少し名を馳せただけだろうが。今どき『佐藤』なんて名前を誰かが覚えてるとしたら、それは戦争でのキム=ジョー・佐藤の伝説的な功績のせいだけだ。奴を除けば、あの一族は完全に空っぽだ。ただの死に体(お荷物)さ」
ケンジの手が、ほんの1ミリ秒だけ止まった。
万年筆の先が紙のすぐ上で静止し、金属製のペン先に暗いインクの小さな滴が溜まる。
彼は振り返らなかった。万年筆を握る力を強めることもなく、姿勢を崩すこともなかった。ただ鼻から長く静かな息を吐き出すと、インクの滴を紙に落とし、再び正確で几帳面な数字を書き始めた。
彼の周囲でオフィスは変わらずざわめき続け、遠くのガラス窓の奥から注がれる視線にも、ケンジのデスクの冷たいインクの中で渦巻く静かな嵐にも気づいていなかった。




