第2話 得体の知れぬモノ
目の前にいる"それ"は廊下を埋めるくらいに巨体であった。人ではないが人型ではある。両膝と両手を廊下に付け、四つん這いのような姿勢をしている。それでも、一つ一つの部位がとてつもなく大きい。まるで赤子だ。
頭であろうものに目を向ける。2つぽっかりと空いた穴があるが目だろうか。真っ黒なくぼみは、まるでじっとこちらを見ているような気がする。口はV字に裂けており、常に笑っているようで不気味だ、気持ちが悪い。
「あ、あ」
声が出ない。少なくとも助け船を出してくれる存在ではないことは確かだ。おどろおどろしい見た目をしたバケモノは、獲物を捕らえようと構えている猫のように私を見ている。
視線を下に逸らす。指の先にはとても鋭い何かが突き破るかのように生えていた。爪…なのか?
(逃げなければ)
それを見た瞬間、直感でそう感じた。でも足が動かない。恐怖に飲み込まれてただじっとすることしかできない。逃げなければ殺される。そんなこと分かっている。でも動かない。
「…ー…ーー…ッ」
鳴き声だろうか、それを聞いた途端に足が動いた。本能が脳を引っぱたいてくれたのだろう。一歩後ずさったその瞬間だった。
「ーーーーー!!」
バケモノがこちらに向かって突進してきた。
「いやっ…!」
瞬間的に体を背に向け、走り出す。我ながら反射神経の良さに驚くほどだ。
逃げる。走る。今はただ逃げなければならない。後ろから壁や床を這いながら音を立てて追ってくる音がする。最初に感じた嫌な感覚が強烈に強くなっている。後ろから巨大な扇風機を当てられているみたいに私の背中を押してくる。怖い、死にたくない。しかしこの廊下には終わりがない。走っても走っても、ずっと同じ景色が流れる。
「助けて!お願い、誰か!」
喉を潰す勢いで叫び倒す。今はただ助かることに必死なのだ。このまま延々と走り、やがて力尽きて殺されるのだろうかという不安に刈られながらも、僅かな希望を信じて、叫ぶ。しかし、相変わらず一向に先が見えない。
(全然終わりがない。死ぬのだろうか、本当に?いや、それともここは夢で、死んだら目が覚めるんじゃないか)
この際、夢であることを信じて止まろうか。そうだ、こんなの現実であるはずがない。科学的にも生物学的にも、あんなバケモノは説明が付かない。ああそうだ、きっと夢なんだ。
後ろを向く。まだ距離はある、心の準備くらいならできそうだ。こちらに向かってくるバケモノに体を向け、立ち止まった。
「お願い、目を覚まして」
自分自身に向けて呟き、目を閉じる。その時だった。
「ってーい!」
後ろから声がした。それと同時に左を影が横切る。見ると、それはまぎれもなく人だった。その子は私を横目に走り抜けるや否や、バケモノに向かって飛び込んでいく。
ヒラヒラとスカートと爽やかな青いツーサイドアップのロングヘアがなびく。右手には…鎌?あれであいつを倒すのだろうか。
一瞬にしてバケモノの目と鼻の先にある距離まで接近した少女は、勢いよく手に持っている鎌を振り上げ、振り下ろす。バケモノの顔が派手に切れた。縦に綺麗な直線を描かれた傷からはボタボタと血とはまた違う液体が廊下に垂れている。少しグロい。
怯んでいる暇すら与えてくれない。間髪入れずにその子はまた鎌を振る。立て続けに猛攻されるバケモノ。廊下中に液体を散らしていきながら、次第にそれは少しずつ原型を留めなくなっていった。
ボロボロになり、身体を起こすだけで精一杯になったそいつは、ほぼ虫の息状態だ。そいつに向かって少女は力いっぱいに鎌を振り上げ、
「死ね!」
そう叫び、バケモノの首元を切り裂いた。その場に脱力したっきりもう動かない。死んだのだろう。私は安心よりも、頭の整理をするのに精一杯だった。
いきなり怪物に追われたと思ったらいきなり人が出てきて、いきなりその子と怪物のバトルを見せられたのだ。そんなことが目の前に立て続けで起きりゃ、誰だって訳が分からない。
「はあ…はあ…はあ…」
ひたすら息を荒くしていると、その子は近づいてきた。
「大丈夫だった?ケガとかはしてなさそうだけど」
何も返事ができない。頭がこんがらがっている。
「立てる?とりあえず元の場所に戻ろう」
伸ばしてきた手を取り立ち上がる。この子は何だ?新手の魔法少女か?魔法少女にしてはプリティーの欠片もないバケモノと戦っていたが。何はともあれ、彼女についていくうちに、少しずつ心が落ち着いてきた。
「あの…どうなっているんですかこれ…あ、助けてくれてありがとうございます」
「…?何言ってるのさ」
問いかけに対し、不思議そうにその子は言う。何ってこっちが言いたいのだけれど、こんな目に遭って今の状況を理解できるはずがない。
「へ?」
「あー、もしかして連れてこられた感じ?気を付けなよ」
何だこの子は、私を何者かと勘違いしているんじゃないか。
「いや連れてこられたというか、気づいたらここにいたんです」
「だからそれを連れてこられたって言ってんの」
意味が分からない。何を言っているんだと思っているとその子は何かに気づいたかのように言った。
「もしかしてあなた、今日任命された人?」
「任命?」
「あー絶対そうだ。参ったなーもう…」
余計に分からなくなった。任命?いつ?私が?私は今朝から今まで何かを引き受けた覚えはない。ただ通学し、ただ授業を受け、ただ友達と話し、ただ本を取りに行っただけだ。
「何を、言っているんですか」
「えっとねー…なんて言うかなー…」
その子は言葉を選んでいるようだった。頼むから、私に分かりやすく話してほしい。やがて、彼女は口を開いた。
「上手く説明はできないけど、あなたこれからこういう目に遭うことになるよ」
…は?どういうことなの。これから?この死にそうな状況に遭うことになる?何で?
「あ…え…?」
言葉が出ない私に彼女は言った。
「とりあえず、もうすぐ境界だから出たら色々話そう。詳しい人達がいるの」
言われるがまま、それに従うしかなかった。
******
…気がついた時には視聴覚室の扉の前に立っていた。電気は消えて、人影はない。しかし、廊下の端は見えるし、いつもの校舎だ。元の世界に戻ってきたんだ。どれくらい経ったのだろうか、すっかり夜になっていたのだ。
「今仲間に連絡したから、付いてきて」
「はい」
まだあの記憶は鮮明に焼き付いている。あれは現実だったんだ。あそこでもし、誰もこなかったら…いや、考えたくもない。
「そういえばあなた、名前は?」
唐突にそう聞いてきた。名前?いきなり聞くの?もうそんな友達感覚か?あんたと会うのはこれっきりな可能性だってあるし…そう思いつつも、素直に答えることにした。
「良永知枝です…」
「知枝って言うのね。私は美咲華。よろしくね」
よろしく?何だ、まさかこれからずっと一緒か?別に嫌ではないが、チームで動かないといけないのか?不安だ。私はこれからどうなるんだ。ああいう目に遭うことになるって?そんなの嫌なのだが。
あと今の時間も知りたい。時間を見ようとスマホを開く。あ…
『まだー?』
『おーい』
『授業始まったよ』
…奏方からのメッセージがめちゃくちゃ溜まっていた。ちょっと申し訳ない。にしても、いちいち授業の始まりと終わりを告げなくてもいいのだけれど…後で返信しよう。あ、お母さんからも来てる。なんて説明しようかな…
******
奏方とお母さんに対する言い訳をぐるぐる考えながら歩き続けて数十分、着いた先は公園だった。
「ここだよ」
奥のベンチに三人、人影が見える。少し緊張してきた。
「おまたせ、連れてきたよ」
華がそう言うと、彼女達はこっちに来た
「おっ、来たね来たね~」
「新しい子か。世話しなきゃなあ」
「よろしく」
いかにも体育祭の実行委員長を進んでやりそうなくらいにキラキラしてる子が一人、いかにもクールだけど人は良さそうな子が一人、いかにも感情をクローゼットの引き出しの奥の方に仕舞ってきたような子が一人。なんて個性的なんだろう、漫画のような面子だ。
相変わらず状況の変化についていけない私は、ただ華に従って立ち尽くすしか無かった。やがて、三人は私に対して口を開くのだった。




