第1話 任命の日
朝だ。
いつもはアラームの音で目が覚めるのだけれど、今日はそれよりも早く起きた。こんなことは滅多にない。少し得をした気分に浸りながら、いつも通り髪をセットして、制服の袖に腕を通す。
階段を下りるとお母さんがいた。まだキッチンで朝ご飯の支度をしている。
「おはよう」
「ん、おはよう。珍しいねこの時間に起きるなんて」
「なんかね。でもちょっと良い気分だよ。アラームに頼らない生活ができるかもしれないっていうか」
「ふふ、何よそれ」
待っててねというお母さんの声に頷き、椅子に腰かけた。お母さんは急ぎ目でご飯の用意をしてくれている。
「…」
朝ごはんが出てくるまでの間、私は考えていた。今日はどんな良いことがあるのだろうかと。
私は良くも悪くも普通の人間だ。運動神経も五段階の自己評価では『3』になるし、人生も過度に充実していなければ不満足な訳でもない。
能力、環境、人間性、倫理観、全てが十人並みである。強いて言うとするならば、それは危機的な学力と一つのマインドであろう。
いつもと違う朝は、いつもと違う一日を過ごすことになる。良いことが起きたら良い一日になるし、悪いことが起きたら悪い一日になる。でもその日は一つ成長する日でもあるという事だから、過剰に落ち込む必要はない。
小学校の先生にそんな話をされてから、私は小さい頃からずっとそういう考えで育ってきた。
だから良いことがあった朝は嬉しい気分になるし、悪いことがあったらちょっと気を張る思いになりながら一日を過ごすのだった。
(今日は良いことが起きたから、良い一日だな)
そんな思いに耽りながら、テーブルに置かれた朝食を口に入れていく。まだ時間もあるし、本来ならもうちょっとゆっくりしてもいいのだけれど、もったいない。ちょっと早いけど家を出ることにした。
「いってきまーす」
軽快に歩きながら、今日の起きそうな出来事を考えてみる。放課後に友達とゲームセンターとか、近くに新しいパン屋がオープンするとか…将又困った時に助けてくれるヒーローみたいな存在の仲間に私がなっちゃうとか。
そんな願望混じりの予想に頭を回らせつつも、ただ歩き続ける。私の通学路、そこにはただ日常があるだけだ。人も、野良猫も、車も、信号も、電柱も、いつもと変わりはない。
でも何故だろう。学校に近づくにつれて、少しずつ、少しずつ不明瞭な不安が私の頭を浸食していく感覚がしていくのだった。
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学校の授業は苦ではないが面白くない。単調にこの法律は何を定めているのかを説明されてもちっとも頭に入ってこないし、英語のリスニングなんか日本人への配慮が欠片もない発音で話してくる。炎色反応?炎なんだから全部オレンジに統一してよ。そんな愚痴を漏らしたくなる。自覚しているが、私は勉強できない。
「ヨッチー今日も難しそうな顔してたよ。わけわかんねー!みたいな」
「だってわからないんだもの。あんなに分数とか計算式とか出されちゃ頭がパンクするっての」
昼休みは友達と教室で弁当を食べるのがほぼ日常だ。日野奏多は小学校時代からの親友で、何かとこなす器用な子だ。私とは対照的に。
「まあ人それぞれ向き不向きはあるからね。しょうがないものよ」
「向きしかないあんたにそれを言われても不向きしかない私には全く響かん!」
そんな何ら変わりの無い無駄話を交わしながら昼食を取り終えた私達は、まだ余っている昼休みの時間をどう過ごすか考えていた。別にこのまま話していてもいいのだけれど、どうせなら何かしたい。
「…そういえば私、奏多に漫画貸したっけ?」
「んー?まだ貰ってないよ」
「嘘お!」
ふと思い出した漫画を貸す約束を、まだ果たしていないことを知る。奏多も私が忘れてるなら言ってくれてもいいのに…兎にも角にも、取ってこないと。
教室を飛び出し、急いで階段を降りて視聴覚室に向かう。生徒を掻き分けながら走る気分はまるでアーケード弾幕ゲームの一人称視点。脳内に90年代のレトロゲームミュージックもどきを流しながら駆け抜けたお陰でなんとか間に合いそうだ。昼休みはあと10分
「は…ふう…死ぬ…」
視聴覚室は授業以外ではあまり使われない。そもそも生徒が行きかう所とはやや離れた所にあるので、空き時間にここに来る人もいない。
そう、昼休みに隠れて漫画を読むにはうってつけなスポットである。
私は後ろにあるロッカーの棚に漫画を隠していて、暇な時はちょいちょいここに来ては静寂に包まれた教室に紙の擦れる音を鳴らしている。もっとも今は暇ではないが。
「どこだったっけな…」
中は静かだ。自分一人しかいないし当たり前ではある。すぐ手にとって教室に戻るつもりだから、電気も付けていない。探すには分かりづらいが今更電気をつけにいくのも億劫だ。漁っているうちに、見覚えのある表紙が目に入った。これだ。
「おっ、あったー…」
一瞬、妙な違和感が走った。5巻分を手にした時だ。視界が歪むというよりも、空間自体が歪むような感覚。
そんな違和感に固まっているうちに、もう一つ気が付いたことがある。音もおかしい。元々静かな所だが、今は静かというよりも…『音がない』
「え」
思わず声が漏れた。全体を見渡すと、それがただの違和感ではないことが分かった。視界の色が薄い。グレースケールとまではいかないが、明らかにさっき見ていた景色とは違う。これは病気?もしかして倒れる?しかしそんな兆候は感じない。至って健康だ。
視聴覚室を出るとその異常さが露呈した。生徒のざわめきも、足音も、物音も、環境の音も、一切しない。目の前に広がっているのは、ただ色の薄い廊下だけ。
「…どうなってるの」
その時、気配を感じた。人だろうか、それにしては嫌な気配だ。前方から風が吹いてくるような感触と共にそれを浴びる。
「あのー?」
薄々思ってはいるが、一応声を出す。やっぱりだ、誰もいない。さっきまで絶えず流れていた人影がさっきの一瞬で無くなったのだ。
「奏多あ?いるのー?」
イタズラにしては大規模すぎる。そもそも、物理的にこんなことはできない。これは現実か?棚に頭を打って気絶しているのか?分からない。取り敢えず進んでみることにした。
「すいませーん。誰かいませんかー?」
これまでの行動を思い返す。慌てて教室を飛び出し、階段を駆け降り、視聴覚室に入り、漫画を取った。この間の行動に何かきっかけを作ったのだろうか?でも、特に何もしていない。ただ走っていただけだ。
歩き続ける。ひたすら歩き続ける。誰もいない廊下でただ一人、私は延々と歩き続ける。…延々と歩き続ける?延々と…?
「…!」
おかしいと思った。廊下の終わりがない。前も後も、いつの間にかずっと終わりが見えない廊下を歩き続けていた。窓を見る。外はいつもの廊下から見える景色だ。いつもの景色なのだけれど、住宅街の一角を切り抜いてそれを繰り返し置いているような光景だ。変だ。
「誰かー!誰かー!?」
突如として恐怖が沸き上がり、全てがわからなくなった。頭が真っ白になり、存在しない終わりを求めて走る。何も考える余裕もなく叫ぶ。ひたすら叫ぶ。
「すいませ…」
その時、後ろから音がした。人だ、助けに来てくれたんだ。この変な空間を抜け出せるんだ。お願い、夢なら覚めて。現実ならば、今すぐ元いた所へ連れていって。頭がいっぱいになりながら反射で振り返る。
「あの――」
期待を持って振り向いた先に居たモノ。それは、人ではなかった。




