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帰る場所

手の中で、スライムが静かに揺れている。


「構わないが、どうしてだい?」


私が尋ねる。


「あのね、お姉ちゃんが……」


ジョンが言いかけた瞬間、

ロゼが素早くその口を押さえた。


一拍の沈黙。


「このスライムっていうの、なんでも食べるでしょ。あの捨て場、腐ったものも多くて困ってたの。この子が食べてくれたら、助かるなって思ったの」


ロゼは視線を落とす。


その言葉に、妻がそっと私の裾を引いた。


「いいアイデアね。私たちもスライムのエサを探してたの。連れて行ってくれると嬉しいな」


妻はロゼの頭を撫でる。


ロゼは、わずかに肩をすくめた。


「じゃあ、私たち行くから。また夕方に来る」


そう言って、背を向ける。


「ロゼとジョンは、ここで住み込みで働いているわけだから、“来る”じゃなくて“帰る”が正解だよ」


私が言う。


一瞬の間。


「わかった!夕方に返って来る!」


ジョンが、ぱっと顔を明るくする。


ロゼは、少しだけ照れくさそうに頷いた。


二人はスライムを抱え、朝の空気の中へと走り出していった。

……

私たちは、簡素な食事を口にしていた。


焼いたパンと、わずかな水。

静かな朝の中で、咀嚼の音だけが続く。


だが、私の意識は別のところにあった。


ロゼたちが持っていったスライム。

あの個体は、ある程度の餌を摂ると――分裂する。


それ自体は、何も特別な現象ではない。

ごく自然な、生態の一部。


だが――


初めて見る者にとっては、どうだろう。


あの場所で。

あの状況で。


突然、増える。


驚くだけで済めばいい。

だが、恐怖に変わる可能性もある。


今日あたり、起きるかもしれない。


……伝えに行くべきか。


そんな考えが、頭の中で巡っていた。


「何を考えてるんですか?深刻そうに……」


妻が、こちらを覗き込む。


私は、少しだけ視線を上げた。


「いや、別にたいしたことではない」


言葉を選びながら、続ける。


「スライムが……分裂しそうだなと……」


私は、パンを口に運ぶ。


固い。

噛んでも、膨らみは戻らない。


「……ここのパンは、膨らみがないな」


そう漏らすと、妻が少しだけ笑う。


「スライムの分裂は、初めて見ると驚きますものね。あなた、私に見せて……嬉しそうでしたよ」


どこか拗ねたような口調。


「あぁ、そうだね」


記憶が、ふとよみがえる。


「あの時の君の顔は忘れられない。あの瞬間、私は――君を守りたいと思った」


自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


妻の頬が、わずかに赤くなる。


「あなたはズルいです。研究者なのに、口が上手すぎです」


そう言いながら、小さくちぎったパンを急いで口に運ぶ。


照れ隠しのようだった。


私はもう一度、パンを噛む。


やはり、膨らみはない。


「……やっぱり、このパンは膨らみがないね」


「そうなんです。パン種がないんですよ」


妻は、あっさりと答えた。

パンの種……。


言葉だけが、頭の中に残る。


私はパンを見つめたまま、口を開く。


「パンは、畑でできるものなのかね?」


妻が、くすりと笑う。


「ふふふ……あなたったら。頭はいいのに、普通のことは知らないのですね」


どこか楽しそうに。


「パンの種っていうのは、パンを膨らませるものですよ」


私は眉をわずかに動かす。


「膨らませる……そんなものがあるのかい。それは、どこで売っているんだ」


問いは、素直だった。


「買えるものかどうかは……わかりません。私の家では、代々受け継いできたものなので」


妻は少しだけ視線を落とす。


「それを……持ってきていなくて」


申し訳なさそうに。


「いやいや、いいんだ」


私は首を振る。


「いずれ、手に入るときも来るだろう」


そう言いながら、もう一度パンを噛む。


固いままのそれを、ゆっくりと飲み込む。


膨らまない理由は、わかった。


だが――


膨らませるもの。


その仕組みだけが、

静かに、頭の奥に引っかかっていた。


記憶が、ゆっくりと輪郭を持つ。


操作系スライムの研究。

あの閉じた時間。


それは、生物に入り込み、内側から動かす。

宿主は、最初は何も変わらない。


呼吸をし、食事をし、

いつも通りに生活を続ける。


だが――


少しずつ、ずれていく。


視線が合わなくなり、

動きが遅れ、

意味のない行動を繰り返すようになる。


やがて、それは破綻する。


そして最後は、死。


私たちは、その理由を追った。


なぜ、殺すのか。


そこに無駄があるように見えた。


ひとつの仮説に辿り着く。


――捕食。


宿主を弱らせ、

最後に自らの糧とする。


昆虫、小動物。

繰り返された実験。


観察。

記録。

検証。


その仮説は、ほぼ裏付けられた。


だが、そこで終わらなかった。


もう一つの問い。


もし――


その行動原理を書き換えられたら。


死へ導く衝動を、別のものへ置き換えられたら。


操作系スライムを、さらに操作することはできるのか。


その発想は、静かに芽を出した。


危うく、そして確かに。


私は、その境界に立っていた。


……

私の視線は、

袖をまくり皿を片付ける妻の腕へと落ちる。


そこに残る、薄紫の痕。


麻痺蜂に刺された跡だった。


時間が経っても消えない。

あの日のまま、そこにある。


胸の奥で、何かがわずかに軋む。


それでも――


私は、その毒を使った。


研究のために。

あの蜂さえも、利用した。


操作系スライムの鍵は、コアにあった。

内部にある、行動を司る中枢。


だが、問題は単純だった。


触れられない。


鈍くとはいえ、動き続けるそれに、

正確に干渉するのは難しい。


そこで辿り着いたのが――麻痺。


ある部族の技術だった。

狩猟を生業とする者たち。


彼らは、麻痺蜂の毒を薄め、矢に塗る。

百倍に希釈された毒。


それを受けた獲物は、数十秒で動きを止める。

死ぬわけではない。


ただ、完全に停止する。


一時間。


そのあいだ、身体は動かない。


私は、その技術を買った。

交渉し、毒を手に入れた。


そして――スライムに使った。


結果は、予想通りだった。


動きが、止まる。


ぬめりを残したまま、完全に静止する。


そして、一時間後。


何事もなかったかのように、再び動き出す。


その瞬間。


私は確信した。


――触れられる。


あのコアに。


そこから研究は、

再び暗礁に乗り上げた。



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