役割
私たちは、子供たちを連れて家に戻った。
扉を開けると、少しだけ軽くなった空気が流れ出る。
「ここよ」
妻が、部屋の隅を指す。
ロゼとジョンは、落ち着かない様子で室内を見回す。
壁、床、天井――すべてを確かめるように。
やがて水桶に目を留める。
「じゃあ、水を汲んでくる」
ロゼが言う。
「ちょっと待って。その前にやることがあるの。こっちに来なさい。髪の毛を櫛でとかすわ」
妻が、静かに櫛を取り出す。
「いい。必要ない」
ロゼは即座に拒む。
「それでは駄目なの。髪をとかさないと、虱が……かゆくなるでしょう?」
妻はロゼの前に座り、目線を合わせる。
ロゼは一瞬、迷い――小さく頷く。
だが、すぐに顔を曇らせる。
「でも……虱が……。おばさん、キレイな格好してるのに」
触れれば、汚す。
その躊躇だった。
「虱はね、この子たちが食べてくれる」
私が、スライムを差し出す。
ぬるりとした身体が、光を受けて揺れる。
ロゼは身を引き、警戒する。
一方でジョンは、目を輝かせた。
「おじさん、これなに?」
初めて口を開く。
「スライムだ。おじさんはこれを研究している」
そう答える。
妻は、そっとロゼの髪に櫛を入れる。
引っかかりながら、ゆっくりとほどいていく。
そのたびに、小さな虱がぽろりと落ちる。
私はそれを指で拾い、潰し、スライムへ与える。
ジョンが、じっと見ている。
やがて、同じように手を伸ばす。
小さな指で虱を捕まえ、恐る恐るスライムへ差し出す。
スライムは、ゆっくりと身体を伸ばす。
触れた瞬間、それを取り込んだ。
「食べた」
ジョンが、声を上げる。
その顔は、年相応の無邪気さに満ちていた。
その表情を見て――
ロゼの目に、涙が浮かぶ。
何に触れたのか。
私には、わからない。
ただ、何かがほどけたのだと感じた。
妻は何も言わず、ハンカチを取り出す。
そっと、ロゼの目元に当てた。
妻は、それから一時間ほどかけて、二人の髪を整えた。
絡まりはほどかれ、
泥と油で固まっていた束が、ようやく一本の髪へ戻っていく。
暖炉に火を入れ、湯を沸かす。
洗面器にぬるま湯を張り、
手ぬぐいで、肌を拭いていく。
汚れが落ちるたびに、
その下から、年相応の輪郭が現れた。
(ぐぅ~)
小さな音が、部屋に響く。
ジョンの腹だった。
「おばさん。暖炉、使っていい」
ロゼが、遠慮がちに言う。
「いいわよ。鍋とか必要なものはある?」
妻が尋ねる。
「鍋はある」
ロゼはカバンから、小ぶりの鍋を取り出した。
私たちは、何も言わずに見守る。
ロゼは、持ってきたものを広げる。
野菜の皮、欠けたパンの端。
それらについた砂や土を払い落とし、鍋に入れる。
水を注ぎ、棒でかき混ぜる。
そして、その水を外に捨てる。
もう一度、水を入れる。
今度は、そのまま暖炉にかけた。
火が、鍋の底を舐める。
十五分ほど。
湯気が上がり、
中身はただ柔らかくなっただけだった。
味付けはない。
香りもない。
それでも、ロゼとジョンは黙ってそれを食べはじめる。
言葉はない。
ただ、匙が鍋を叩く小さな音だけが、
静かに続いていた。
……
私たちも、食事を始めた。
粗末なパン。
質素なはずのそれが、
彼女たちの鍋を見たあとでは、別のものに見えた。
噛むたびに、違和感が広がる。
自分だけが、違う場所にいるような感覚。
ロゼとジョンは、ずっと視線を逸らしていた。
目を合わせない。
私たちも、声を出せない。
同じ空間にいながら、
同じ食事を分け合えない。
それが、こんなにも重いとは思わなかった。
やがて――
私も妻も、パンを一切れ残した。
妻が、目だけで合図を送る。
私は、小さく息を整えた。
「すまない。お腹いっぱいだ。よかったら食べてくれないか?」
言葉が、少しだけ引っかかる。
「うん。食べる」
ジョンが、すぐに答えた。
ためらいはない。
ロゼは、こちらを見ない。
それでも、差し出したパンを受け取る。
指先が、わずかに震えていた。
それを、何も言わずに口へ運ぶ。
部屋の中で、
小さな咀嚼の音だけが続いた。
施しではない――
そう言いたかった。
だが、言葉が見つからない。
説明しようとすればするほど、
それが嘘になる気がした。
実際、それは――施しだった。
分け与えるということが、
これほど難しいものだとは思わなかった。
豊かな者は、いくらでも与えられる。
失うものがないからだ。
だが、最低限しか持たぬ者にとっては違う。
一切れのパンが、生死を分ける。
その現実が、目の前にあった。
当たり前のことを、
私は今日、初めて知った。
やがて、子供たちは眠りについた。
小さな寝息が、部屋の隅から聞こえる。
静けさが、ゆっくりと広がっていく。
「これからどうしていきましょう」
妻は、窓の外の夜空を見つめた。
星は少なく、森の影が空を覆っている。
やるべきことは、はっきりしていた。
「一つは捨て場の掃除。もう一つは食料の確保だな」
私は短く答える。
「でも、捨て場はこの子たちの食料の場所です」
妻の声は静かだった。
「そうだね……」
私は頭をかく。
「彼女たちの邪魔をせずに、いらないものだけをスライムに食べさせる……そんなやり方が必要だ」
考えは浮かぶが、形にならない。
「明日、彼女たちに相談してみたら?」
妻が言う。
「そうだね。それがいい」
言葉は決まった。
あとは、明日だ。
私は横になる。
……
足音で、目が覚めた。
まだ朝は浅い。
光は薄く、冷たい。
外から、水の揺れる音が聞こえる。
起き上がると、ロゼとジョンがいた。
すでに水を汲み、運んでいる。
黙々と、同じ動きを繰り返している。
「もうやってくれてるの」
妻が、眠たげに目をこすりながら言う。
二人は振り向かない。
ただ、桶を持ち上げ、
次の一歩を踏み出していた。
三歩ほど歩き、
ロゼは、小さく頷いた。
そして、水桶を指さす。
「私たち、捨て場に行くから。この子、一匹借りていっていい?」




