追憶
私は、マーガレット・ヒカエル。
アルフレッド・ヒカエルの妻。
夫がグンダラー樹海の南側にある村へ流されると決まり、
私はそれについてきた。
別れを切り出されたのは、その直前だった。
「私は何も悪い事はしていない。だが世間は私を批判するだろう。それに君を巻き込むことはできない」
静かな声だった。
だからこそ、腹が立った。
気がつけば、私は彼の頬を打っていた。
三歳で出会ってから、初めてだった。
私はただ、
「南の村に行くことになった」
それだけで済ませてほしかったのだ。
「あなたが嫌でも、私はついていくわ。後悔なさい。私はしつこい女なの……」
詰め寄る私を、彼はただ、優しく抱きしめた。
――あの頃から、何も変わっていない。
彼がスライム研究を始めたのは、九歳の頃。
祖父も父も、名の知れた研究者。
その道に進むこと自体は、不思議ではなかった。
だが彼は、嫌がっていた。
「もう余地がない。あの人たちがやり尽くした」
そう言って、別の道を探していた。
それでも、彼は戻ってきた。
理由は――私だった。
あの日、山に入った。
おとぎ話に出てくる花を見たくて。
祖母が、近くの山にあると言ったから。
彼は止めた。
「危ないよ、二人でなんて」
でも私は笑っていた。
「だいじょうぶ。怖い魔物はいないわ」
根拠なんて、どこにもなかった。
一時間ほど歩いて、ようやく見つけた花畑。
私たちは夢中で花を摘んだ。
そのときだった。
「やばい、逃げよう。麻痺蜂だ」
彼の声が変わる。
手を引かれ、走る。
けれど、間に合わなかった。
足が、動かない。
崩れ落ちる私を、彼は背負った。
何も言わずに、ただ走った。
家に戻ったとき、彼は殴られた。
私の父に。
その小さな顔は、見る間に腫れ上がる。
止める者はいなかった。
私は叫んだ。
「アルフレッドは止めたわ。無理に行かせたのは私よ」
誰も、聞かなかった。
そして、その日のうちに決まった。
婚約。
彼は、私の家に婿入りすることになった。
理由は、誰も口にしなかった。
……
私は、足を失った。
正確には、動かなくなった。
アルフレッドのお父様が、木製の車いすを用意してくれた。
職人に作らせたそれは、滑らかに動き、
私はようやく部屋の外へ出られるようになった。
だが、治ったわけではない。
麻痺蜂に侵された足に、薬はなかった。
永遠に続く麻痺。
それは、静かに人生を閉じていくような感覚だった。
あのとき、アルフレッドがいなければ――
私は、山で死んでいた。
彼がいたから、生き延びた。
その事実が、何より重かった。
私は、何度も両親に願った。
「アルフレッドを解放してあげてほしい」
彼は、私を救っただけだ。
縛られる理由など、どこにもない。
だが、その願いは届かなかった。
決まったことは、覆らない。
アルフレッドは、ひ弱な子だった。
頭はいい。
だが体は弱く、すぐに風邪をひいた。
細い肩。
白い指。
あの体で――
農家に入るなど、到底耐えられるとは思えなかった。
……
アルフレッドは、すぐに私の家へ来た。
そして、働いた。
朝から晩まで、言葉少なに。
細い肩は、少しずつ形を変えていく。
白かった指は日に焼け、
土と傷が、その肌に刻まれていった。
時間が、彼を農家の人間にしていった。
ある日。
私たちは市へ出た。
人のざわめきと、雑多な匂い。
その中で、ひとりの旅の商人が声を張り上げていた。
「動物の身体を乗っとって動かすスライムがいるらしいぞ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
アルフレッドの目が、変わる。
光が、戻る。
買い物は、急に終わった。
彼は何も言わず、実家へ向かった。
日が落ちてから――戻ってきた。
腕いっぱいに、本を抱えて。
「どうしたの?」
私が尋ねると、彼は少し戸惑いながら口を開く。
「身体を乗っとって動かすスライムの話、あったでしょ。興味があって、おじい様に聞いてみたんだ。人間を動かすことはできるかって。そしたら――」
言葉が、わずかに詰まる。
「そしたら、どうしたの?」
思わず、息を呑む。
「同じ哺乳類だから、可能性はありえるって」
彼は、そう言った。
そのときの彼が、何を考えていたのか。
私は、わからなかった。
ただ――
彼が何かに惹かれたことが、嬉しかった。
「興味を持てることができたんだ」
その事実に、少しだけ胸が軽くなる。
彼を縛っているのは、私だから。
「それは、楽しんでできそう?」
問いかけると、彼は視線を外した。
「……楽しんでできるかどうかはわからない。でも、希望は持てると思う」
小さな声だった。
それでも、その言葉だけは、
確かに前を向いていた。
……
彼は、仕事の合間を縫って学びはじめた。
鍬を置いたあと、灯りの下で本を開く。
ページをめくる指は荒れているのに、動きだけは昔のままだった。
休みの日になると、私とともに実家へ向かう。
父や祖父と向き合い、言葉を重ねる。
静かな議論が、長く続いた。
私は別の部屋で、彼の母と祖母と話をした。
穏やかな時間だった。
ある日、
彼の父が、小さな瓶を差し出した。
中で、なにかが動いていた。
その瞬間の彼の顔を、私は忘れられない。
あんなふうに笑うのを、初めて見た。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
「あれはなに?」
私が訊ねると、彼は迷いなく答えた。
「前に聞いた、動物の身体を操作するスライム」
目が、子供のように輝いていた。
新しい玩具を手にした、あの頃の顔。
その光に、ほんのわずかな影を感じた。
けれど、私は何も言わなかった。
彼のそれを、大事にしたかった。
いや――
その先にあるものを、見てみたかったのかもしれない。
彼は、瓶の中のそれを観察しはじめる。
記録を取り、何度も試す。
時間を忘れたように。
私は、ただそれを眺めていた。
何もせず、
ただ、彼の背中を見ていた。
……
「村に着きました」
御者の声が、馬車の揺れに混ざって届く。
アルフレッドは、ゆっくりと立ち上がった。
「ここで……いったん休憩ってことかな」
扉を開け、外へ出る。
外気が流れ込む。
夕方の光が、車内の影を押し出した。
「そうですね。宿を取ってもらって、私は馬車の中で寝ますので」
御者の言葉が続く。
私は、座席に手をつきながら立ち上がる。
少し遅れて、外へ。
日は、もう傾きかけていた。
橙色の光が、村の輪郭をやわらかく染めている。
「だいじょうぶかい?」
アルフレッドが手を差し出す。
私はそれを取り、
わずかによろめきながら、馬車を降りた。
足が地面に触れる。
確かな重みが、そこにあった。
――そうだ。
私が、こうして歩けるのは。
まぎれもなく、彼のスライム研究のおかげ。
その事実が、胸の奥で静かに広がる。
私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。




