第二十ニ話 ウィ、ジュテームって言って欲しい
俺の顔を見た紬さまが珍しいことに驚嘆している。喉の奥まで見えそうなほどに大口を開けて固まっているのだ。
ライラの横にいるときの俺はちょっといつもと違うらしいので、戸惑ってしまったのかもしれない。
ここで青竜さまが戻ってきた。俺に抱えられて目線が同じになったライラを見て「赤は力持ちだね」などと近所のお姉さんみたいに声をかけてきた。想像してたよりずっとフレンドリーな竜みたいだ。
「あの愛し子は面白くない。全然言葉を紡いでくれない」
むっすりとする青竜さまにライラが「シリルはいつもあんな感じです」とフォローになっていない答えを返している。
青竜さまは苦笑しているライラの方をじっと見つめてーーー
「黒は人間時代から面白かったね」と再びミュージカルモードに入った。
おもしろかったっねぇぇぇえええってビブラートかけんなって。
俺は突然すぎる展開に置いていかれ気味である。
青竜さまは先ほどまでと打って変わって晴れやかな笑みを浮かべ両手を広げるとその場で回り出ってらっしゃる。
腕が当たりそうになったので慌てて身を引いた。さっきから自由すぎるんだよ!
しかし、俺は気づいてしまった。
この歌…すっげえシリアスだ。
ライラの笑顔に騙されてはいけない。そうだった、始祖竜の前にいるライラの機嫌は「号泣するほどご機嫌」「言葉を失うほどにご機嫌」「ふふふふしか言わないほどにご機嫌」「鼻歌混じりにご機嫌」「真面目に聞き入ってるフリしてるけど内心小躍りするほどにご機嫌」しかないんだった!(今は最後の「真面目なフリ」状態である。口元がくいくいしているからバレバレだ)
ライラのもちみたいな頬をつつきながら俺は意識を真剣にする。
…意識を真剣にするって響きがダメそうだけどご機嫌なライラを見てる時の俺はだいたいポンコツなので気にしないで欲しい。
「黒…ライラは一瞬だけ輝いて消えていってしまう流れ星みたいだった。一生懸命教えてくれたね。」
青竜さまによって突如始まった語りはーーー意識を真剣にしてみると、どうやらライラの過去談らしいと気づく。しかも俺が知らない時の出来事か?録音するべきか?
魔力通話の録音機能をオンにしつつーーーなんだかしみじみとしてしまった。
確かに黒竜になる前の彼女は流れ星みたいだった。
眩いばかりに輝いてるけど、近い将来消えてしまいそうなところとかが特に。
俺は毎日彼女が息をしてるか真剣に心配してたな。…俺の心配なんかちっとも気にせずに、黒竜さま!王族の方々!って猪突猛進していっちゃうんだけどさ。
「
『頑張ってもどうにもならないことがあるって理解したのは早かったですね。
ーーーそれでも普通でなんていたくなかった。
普通でいたくないって思っても、父さんと母さんが望むように同年代のこと遊んで友達を作って、将来は白の人々の集まる学校に行って医療系に行こうと思ってました。…ちょっとでも寿命を伸ばしたかったので。漠然とそんな未来を思い描いてたんです。』
壊れかけてた君の魔力は綺麗だった。絶望に溢れてた」
こんな場所でライラの過去を詳しく知ることになるとは思わなかった。ライラが星屑のように消えてない現実への安堵と寂しさが俺の中でミックスされる。
当時からライラのことはなんでも聞きたかったけど、「黒竜の儀」の部外者だった俺は王族と一緒に行動してる間のライラの話に突っ込めなかった。当時は青竜さまと会ったってだけ聞かされたけど…それ以上、詳しく掘り下げられなかったんだ。
学園では一緒につるんでた俺らだけど、長期休みは決まってばらばらだったから俺はずっと新学期を待ち侘びてた。ライラを連れまわせるパーシヴァルさまが心底羨ましかった。
俺だけ蚊帳の外に置かれ続けたこととか、強がってちっとも頼ってくれないライラへの恨みつらみを剣の特訓で晴らしてたらにいちゃんたちを抜かしちゃって…同世代じゃ敵なしなんて言われるようになったのもこの頃だな。
ーーーまあ、ライラの具合がどんどん悪くなっていった時期だったからそもそも記憶に霞がかかってたりする。今もあんまり思い出したくない。
シンと静まり返った室内に気がついているだろうに、ライラはかわらず笑っている。つらい過去なんてなかったみたいに目を細めて、眩しそうに青竜さまを眺めている。
ーーーここで笑えるとかさあ。
彼女の強さに胸が詰まる。最初から強かったわけじゃない…もちろん知ってたけど、青竜さまみたいな第三者から改めて聞かされると、たまんない。
この笑顔が演技じゃないって知ってるから…こっちが泣きそうになるんだけど。ライラはいつだって、上機嫌でいることを選べる人で…すごいよなぁ。俺なんてすぐ暴れ回ったりやさぐれて週刊誌に書かれたりするのに。
皆が言葉を失っているのだが、青竜さまは心底楽しそうに回っている。
「死んだことになっている」ライラの遺した言葉を知らしめるように青竜さまのショーは続く。
「『なんとなく続けていた日々で…唯一大切だって思っていた家族がいきなりいなくなりました。
ーーーそこで、自分の中の何かが切れる音がしたんです。』」
これは、俺も聞いたことがある。
ーーーライラの両親は幼い頃にライラを遺していってしまった。絶縁状態だった親戚に引き取られたライラ。親戚ーーーガブモンド家に彼女の居場所はなかったとライラ本人が教えてくれた。
ガブモンド家はブライヤーズ、フックス家と並べて三大魔法貴族に数えられることも多い家だ。魔法使いとしての才能が壊滅的な子供が受ける扱いなんて想像に容易い。
「
『吹っ切れちゃったんですね。
守るべきものなんてなかった。
家族もプライドも積み上げてきた経験も何もない。
もうやるしかないって思いました。やりたいこと全部。』
」
俺が出会った時の彼女は十二歳ですでに「この子は周りとちょっと違うな」と思わせる雰囲気を持っていた。『吹っ切れた』後だったからなのだろう。
「やりたいこと全部やる」がパーシヴァルさまのストーカーに始まり、挙げ句の果てに黒竜になってジョシュアさまの妃に収まっているのだから全部やるにも程があると思うが…。
「
『親戚の反対全て無視して魔法学園に入りましたし。周囲にどんな陰口叩かれようと王族の方と接触したし。
だって、私に残っていたのなんて黒竜さまをはじめとした竜への溢れんばかりの愛くらいでした。活かしてくれるのなんて王族くらいでしょう?
学園で自分が浮いているのはわかっています。でも、びっくりするくらい気にならないんです。
むしろ楽しいかな、普通でいるのをやめるとこんなに人生楽しいんですね。』
」
スケート選手みたいに回っている青竜さま。
知ってたけど、彼女の頭は今も昔も黒竜さまと王族でいっぱいだ。
ーーー知ってたけどね。
どちらかというと無口だった彼女が出会ったばかりの青竜さまにこんなことを話したのが意外で、俺は思わずライラに聞いてしまった。
ーーーずっとそばにいたのになんで教えてくれなかったのとかいう女々しすぎる嫉妬心は今すぐ死んでくれ…。
「ライラがこんなに自分のこと話すの珍しいね?」
彼女は否定も肯定もしなかった。
青竜さまを熱心に見つめたまま、鈴のように笑ったライラ。
「青竜さまが、『赤は憤怒じゃなくて情熱の赤だったんだねえ、珍しいなあ。君は強いねえ。それほど深い青を持っていても楽しそうに笑えるんだから。…いい話だったよお』ーーーそう言ってくれて、喜んでくれて…すっごく嬉しかった。お父様とお母様のおかげで青竜さまを喜ばせることができて…天国まで行って感謝のキスを送りたい気持ちになった」
彼女の顔がもっと見たくて、俺はライラを抱え直すふりをして彼女の笑顔をしっかり瞳に焼きつけた。
俺は君にキスを贈りたいよ。ああ、絶望した方がどんなに楽だったかわからないのにーーーライラは自分の幸せを諦めなかった。
「悲しかったこと」じゃなくて「嬉しかった」ことを選んで表現するライラは本当に強い人だ。ライラを見てると、いろんなことに気がつかされる。
いつまでも回り続けている青竜さまへと…ライラがためらいがちに声をかけた。
「あ、あの…青竜さまはまだ悲しいですか?今の私には先代の記憶がある…」
ライラはそこで言葉を切った。
金色の瞳が一度閉じられーーー再び開いた時、俺は、自分の腕の中にいる彼女がどこか遠くへ行ってしまったような気持ちになった。
普段の謙虚さが消え、泰然と世界を見据えるライラ。
紬さまが息を飲んだのがわかった。
ライラは黒竜だった。15歳程度の容姿にしては落ち着き過ぎている瞳が青竜さまを捉える。
…ちょっとだけ冷静になった俺は、「この状況不味くないか?」と気がついてしまった。紬さまに聞かせていい内容なのこれ?もう手遅れな気がするけど…。
腕の中の黒竜が記憶を諳んじるように瞳を閉じた。
「『一人で閉じこもっているのなら生まれ変わりでも探したらどうだ?』ーーー先代の言葉ですね。私からは別の言葉を。探しびとは絶対いる。何しろ色なしの落ちこぼれ魔法使いが黒竜をやれているのだから…不可能なんてないよ」
青竜は回り終えた駒のようにふんわりと動きを止めた。
大人びるのを失敗した子供みたいな顔でライラを見ている。
ライラは瞳を閉じたままだ。青竜さまがすがるように、声を揺らす。
「ーーー今の君はとってもちっちゃいけど、あの時は逆だった。黒は大きすぎて足しか見えなかったっけ。心配して見舞いに来てくれたんだったね。ボクが氷山にいたから人間の姿じゃ来れなかったって嘆いてたなあ」
ライラの金色の琥珀が開かれた。いつもより深い色の彼女の瞳は大英博物館に飾ってある宝石みたいだった。触っちゃいけないけどずっと見ていられる畏怖と羨望の対象。
「青竜は何百年も泣いてたからね。『探しても、いなかった。どこにも!』ーーーあんな引き裂かれるような声を聞かされた身にもなって。…代が代わったくらいじゃ忘れられないよ」
ライラの言葉はどう見ても青竜さまに向けたものだったがーーーシリル君にも深く刺さってしまったようだった。共鳴するように絶望した顔で青竜さまを見つめている。なんか昨日からシリル君不安定だよな…大丈夫かな。
「記憶の中の先代が言っている。
『青竜、生きていくしかないんだよ。ボクはずっと泣いているだけなんてごめんだね。ーーーそうだ、君は人間と話すのが得意だよね。人間の言葉でものを書いて配ってみてはどう?いつか現れる生まれ変わりに気がついてもらえるように。秀策が言うには人間の書物は時を超えるんだって。今からずっと書いていればどれかが目に止まるかもしれないよ。』
」
普段彼女が使いそうもない口調、でもわざと戯けるようなリズムでライラは語る。どこまでも優しさを讃えた金色の瞳を見ているうちに、デニスにもなんとなくこのミュージカルの「意味」がわかってきた。
二人は大切な思い出を再現しているのだ。
代が変わっても、黒竜の先代が死んでしまってもーーー何千年という時が過ぎても「友達であること」を確認するために、わざわざ記憶を探って言葉に起こし直しているのだ。
ーーー先代の黒竜はとても暖かい人だったのだろう。きっと、遺していく友を心配していたのだ。だから記憶を引き継いだライラと青竜の今がある。
少し瞳を潤ませた青竜が再び歌うように腕を広げた。
「
『…黒にしては賢いこと言うじゃん。』
まだ若かったわたしは拗ねていた。でも年上なくせに言い返してくる君もお互い様だったよね。
『…ボクは比較的いつも賢い。』
『人間になったの忘れてユグドラシルずっとかじってたくせに?』
ボクが笑いながら言ったもんだから、ムッとしたように黒魔力を揺らしてたね。
都合が悪くなると黒はいっつもダンマリだった。
君と違ってボクは言葉が得意だから…」
溶けるように小さくなる青竜さまの声をライラが引き取った。
「ーーー青竜さまの書く話には絶対に重力魔法を使う天才魔法使いが出てくるそうですね。遠くへ行ってしまった人との再会を諦めずに、待ち続けるのはどれほどに辛いことだろう。同じ人間であれば諦められたのだろう。寿命があるから。
でも、竜は悠久の時を生きる」
二人の掛け合いに耳をすましていたシリル君が青竜さまに向けてぽつりと呟いた。
ここで二人の世界に割って入っていけるのが…「竜の愛子」なのかななんて漠然と思った。
「ずっと探しているんですね。」
シリルの言葉に青竜さまがふわりと笑った。ライラから視線を外し、座り込んだままのシリルとの距離を詰める。
シリルの頬に手を添えて、幼い我が子に言い聞かせるように優しく目を細める。
「シリル、君は強い子だ。ーーー絶望に屈せず、あきらめず、愛を持ち続けて」
シリル君がクシャリと顔を歪めてーーー青竜さまが声をあげて笑ってた。
「愛」ーーーかあ。
そういえばここは愛の国、フランク王国だ。
カフェでお茶していると薔薇を売ってくれる国。
街中でおじいちゃんもおばあちゃんもキスを交わすことができる国。
しょんぼりしているシリル君を見てたら俺まで悲しくなってきた。
俺は愛も手に入れられていないし、青竜さまに言葉をもらえるライラやシリル君と違って、役割がない見物人にしかなれない。
などと、死ぬほどどうでもいいことで打ちひしがれてたところでーーー俺の腕の中の天使がふと顔を上げてーーークイっと俺の襟元を引いた。
内緒話かなと思って耳を寄せたらーーー頬に柔らかいものが触れた。
マリーゴールドみたいに笑うライラ。
はあ、全くもう。さっきは触ったら血が出そうな黒薔薇みたいだったのに。
ギャップの魔術師かよ。
「愛って聞いたら私の騎士のことを思い出しちゃった」じゃないんだよ。
わざとだろ、あざとかわいいのいい加減にしてくれよ。
頰じゃすまさず顔じゅうにキスを降らせる俺のことも笑って受け入れてくれる。
「俺にとっての愛は、間違いなくライラだ。ーーーテュ、メーム?」
「何言ってるの?」って首を傾げるのもとっても可愛いけど、多分、王妃なら隣国の言葉を勉強したほうがいいよ…。
「デニスってフランス語までできるの?」
なぜか引いたようなシリル君の声がして俺は仕方なくライラから視線を外した。
いつの間にか近くに来ていたらしいシリル君と青竜さまに見つめられる。
「ウィ。ーーージェロンディフ…話し言葉中心ですが」
じぇろん…?とライラとシリル君がシンクロした。
首を傾げる角度まで似ててなんか癒される。
青竜さまは呆れたようにシリルとライラを見ていた。
「あなたたち竜大国のトップなんでしょう?四大竜大国の公用語くらい使いこなせなくてどうするの…」
青竜さまの言葉にライラがしょんぼりとしてしまった。
元気出してと頭を撫でていたら「お前が甘やかすからいけないんじゃない?」となぜかシリル君に言われた。
心外だ。俺はライラを甘やかすために生きてるのに。
「俺に死ねっていうんですか!」
「一言も言ってねえよ!…というかデニスいい加減にしろよ!何ができねえんだよ、イケメンならせめてバカであれよ!」
頭を抱えているシリル君。ーーー知ってるよ、シリル君ってぶっちゃけマジックイングリッシュも結構怪しいよね…フランス語どころじゃないよね…。
青竜さままでもが「今度の赤の愛し子はバカなのね…」などと言い出した。
流石に先代の赤竜の愛し子であり、かの有名な「チャールズ=ダーウィン」と比べるのはやめて差し上げろよ。シリル君に「進化論」並みのサムシングを発表しろっていうのは無理があるよ…。
青竜さまの言葉の刃にやられてしまったライラとシリル君を慰めているとーーーおずおずと紬さまが挙手した。
…ちょいちょい存在を忘れるからもっとしゃべってもらっていいかな?
「あの、よければフランス語を勉強しませんか?ーーー幸い、時間もあるようですし」
「勉強」という言葉に嫌悪感をあらわにしたシリルくんの頭をとりあえず引っ叩いておいた。人の善意を無碍にするな。
「そこの消えかかってるくらいに魔力が弱いお前はフランス語が話せるのか?」
突如紬姫に話しかけた青竜さま。
紬姫は青竜さまに正面から見つめられたパニックでめちゃくちゃバカにされたことに気がついていないようだ!不幸中の幸いってやつか!
「た、多少…皇族は家庭教師がつけられますので、主要言語は一通り話せます…」
紬姫の言葉にライラとシリル君がショックを受けている。
主要言語って何を指すんだってこっそり紬姫に聞いたら、マジックイングリッシュ、ブリテン、ジャーマン、フランス、ベルギー、プラス和国では漢語だって。
…なんとなくわかってたけど紬姫って賢いよな。
騎士団長でファンクラブができる容姿を持つ上に主要国の言葉を使いこなせる自分のことを完全に棚に上げて感心するデニス。
青竜はそんな彼らを見つめーーーにいっとあくどい笑みを浮かべた。
「決めた。明日からマジックイングリッシュとフランス語をやりつつボクの執筆を手伝いなさい」
ーーーなどとよくわからないことを決定を下す。
「マジックイングリッシュとフランス語はわかるけど、なんで執筆?」とライラが首を傾げている。そう、まさに俺もそう思った。
しかし、ワールドイズマイン、唯我独尊の化身である青竜さまはさっさと飛び去ってしまった。
「お前がフランス語なんて話すから!!!」と理不尽に揺さぶってくるシリル君もずいぶん気が動転しているようだ。青竜さまの行動は絶対俺のせいじゃない。
「頭が良くて運動神経がいいイケメンとか滅びろよ…」
理不尽に罵倒される俺。でも、買い物にはついてきて欲しいらしい。
「フランスパン十本も売りつけられそうになってすごい焦ったんだよ。どんだけ大家族だと思われたんだよ、俺」
面倒だなと思ってシリル君の話を適当に聞き流しつつライラの髪を編み込む。
「別に十本あってもいいんじゃないすか?俺食えますよ」
「つめた!そういうことじゃないじゃん!なんか噛み合わないの疲れるじゃん」
「でもライラのこと放ってシリル君と行動するメリットがないし…」
「本音を少しはオブラートに包めよ!傷つくだろ」と憤るシリル君。
俺たちを呆れたように見守っている紬様。
黙って魔力通話をいじっていたライラがーーーなんか、俺の寝顔が掲示板に貼られてる気がしたのは気のせいか?ーーーくいっと顎を上げて俺を見上げてきた。
「私も買い物行きたいー」
よしきた。
「今すぐ買い物に行くぞシリル君」
「うっわ、最低だこいつ。手のひら返しやがった」
ぶつぶつと文句を言い出したシリル君にーーー紬様がおずおずと声をかけた。
「シリル=オゾン殿下…私でよければお供しますが」
優しい紬様の進言。しかしーーーなぜか、空気が凍った。
そう、忘れてはいけない。シリル君は大の人見知りで、それが他国の令嬢であったりするともう目も当てられない感じになる。
ほら、今も「え、いや、そ、そんな大した用事でもないんで…」とかなんとか言って俺の背中に隠れやがった。おい、コミュ障どうにかしろや、国王だろうが。
「私は何か失礼を」って青ざめる紬様が哀れすぎて俺は天を仰いだ。
ライラが「これはシリルの問題だから紬はいっさい、全く、一ミリも気にしなくていいよ〜」とフォローを入れている。
「紬はお勉強もできるし…自分の身支度もできるんでしょ?努力家なんだね」
「いえ、ライラ様ほどでは…それに、自分の身の回りのことを自分でやれるように教育されるのです。皇族の女子は降嫁させられることがほとんどですので」
「なるほどねえ」
女子トークが始まったので後ろにいるシリル君を引っ張り出して会話に参加させる。おい、目を逸らすな。普通の若いフィメルともっと向き合え。
「それにしても流石に使用人が一切いないのは困るね。お茶も入れられないし」
ライラがため息をつく。
すかさず「お茶なら俺が入れようか?」と申し出たんだけど、ライラは納得がいかないようで腕を組んだままだ。心配しなくてもライラの編み込みはもう八割型完成してるよ?
「デニスは有能すぎて全部やっちゃうけど、お茶入れくらいできる人に任せたほうがいいと思うんだよねえ」
ライラの言葉にシリル君と紬様がぶんぶんと頷いた。
二人の視線が俺が手をかけているライラの髪に注がれている。ーーーなかなかうまくいってゴージャスな感じに仕上がったと思うよね?
「ライラのためならなんだってやるよ?」
「ありがとう。さすがは私のナイト」
ライラと見つめあって微笑んでいたら、二人して砂糖を飲み込んだみたいな顔をしたシリル君と紬様がコソコソと囁き合っていた。
「え?これ通常運転なんです?」
「そう、天然タラシと最強の小悪魔が組み合わさった結果がこれ」
だから聞こえてんだよ…誰が天然タラシだ…。
何も知りませんよみたいな顔で飄々としているライラは確かに小悪魔かもしれないけどな。一生弄んでくれ。
「シリル、国王のツテで無害そうな使用人十人くらい連れてきて」
ライラの言葉に顔をしかめたシリル君だったが…一際悪い顔で笑ったライラが放った次の一言、
「ーーーシリル、ナツメソウセキって名作ぞろいだよね?」
ーーーこれがトドメだったらしい。ライラが完全勝利したのが傍目でもすぐわかった。
ひゅっと息を飲んだシリル君は真っ白な顔色で転移魔法を使っていた。
…死にそうな顔してたけど大丈夫か。
「たーんじゅん」
足をぶらぶらとさせる俺の天使はーーー世界一可愛い。
そしてたまに謎語を使う。
ナツメーーーなんとかってなんだ。
ライラに尋ねてもおかしげに笑うだけで答えてくれない。
「I love youで有名な人」だって。余計わからなくなった。
ダメ元で尋ねてみたが、紬様もわからないらしい。
…シリル君とライラの前世の世界は同じ場所らしいのでそこの言葉かもしれない。