第02話 死神の檻
(あれ?ここは…)
気がつくと、私は見知らぬ寝台の上にいた。
肌に触れているシーツは、驚くほど上質なシルクだ。パチパチと心地よく爆ぜる暖炉の音と、高級な薪の匂いが室内に満ちている。 そして――部屋の空気を完全に支配している、『クチナシの匂い』に私は気づいた。
「――っ…!!」
脳裏に、あの激しい雨の夜の記憶が鮮やかに蘇った。
大雨の冷たさを力ずくでねじ伏せるような、濃厚な香り。唇を塞がれたときの、あの恐ろしいほどの熱量と、息ができないほどの深い口付けの感触。 強引なのにとても優しくてあまくて…悔しいが、頭が真っ白になった。
思い出すと、なんだか体が火照ってきたが、そんなの認めたくない。
私は起き上がろうとして、動けないことに気づいた。縛り付けられているのかと思ったが、ただ私の体に力が入らないのだとわかった。
なんとか引きずるようにして上体を起こすと、自分の服が着替えさせられているのに気づき、背筋が凍りついた。 濡れていた髪も丁寧に拭かれている。
「……目覚めたか」
部屋の隅、影の中から低い声がした。 ジェイド・バロウ。王直属の処刑人であり、戦場帰りの『死神』と恐れられる男。彼の纏う圧倒的な強者の気配が、一瞬で部屋の空気をピリつかせる。
彼の気配は、鋭い刃物のようにこの空間を支配している。
「着替えさせたのはお前か」
「他に誰がいる。雨に濡れたまま放置すれば、ただでさえ魔力の代償で弱っている身体を壊す。……お前を死なせるわけにはいかないのでな 」
フ、とジェイドは鼻で笑うような音を立てた。 冷淡で、事務的で、まるで厄介な荷物を保護しただけと言いたげな声音。
けれど、私の鼻には隠せない。
私が目を覚ました瞬間、その匂いは部屋の中に充満していた。
私を今すぐ抱きすくめて貪り尽くしたいという、狂ったような独占欲と欲の香り。そのせいで自分の心臓の音が、耳奥でドクドクと聞こえていた。
しかし、この男は自分の欲が漏れているのを気にもとめていないようだ。
(言葉と匂いが、まったく一致していない……。この男、冷酷なフリをして、中身はどうなっているの?)
意図が全くわからない。
私はただただ混乱していた。
昨日の口づけといい、着替えといい。
彼はハロルド王からの命令で私を殺そうとしているはずだ。なのに彼からの甘い香りと行為に脳内が混乱する。視界と体格の圧倒的不利な状況が、私の怒りをふつふつとたぎらせていく。
私はハッとして、胸元を触る。…香水瓶が、ない。首から下げていた、先王の死んだ空間の記憶を閉じ込めた香りが、なくなっている。
「……瓶は、どこ?」
一瞬の沈黙。
「預かっている」
「返しなさい。今すぐ。お前が持っていて良いものではないわ」
「断る」
それだけだった。場所も理由も、彼は一切語らなかった。
「処刑人の分際で、この私に無礼を働くとは万死に値する」
「あれはお前が騒ぐから黙らせただけだ。不可抗力だ」
「…?」
冷たく突き放す言葉とは裏腹に、彼の香りに揺らぎが出たことを、私の鼻は見逃さなかった。
頭がぐらぐらして、全身から汗が噴き出してきた。けれど、必死に息を整える。
「あら、まー…。死神将軍ともあろうお方が、ずいぶんとお優しいこと」
「勘違いするな。お前はハロルド王の秘密を握る『一級の重要参考人』だ。監視のために俺の邸宅へ連れてきた。それ以上の意味はない」
ずい、と重い足音が近づいてくる。 ジェイドが寝台の縁に腰を下ろした瞬間、マットレスが大きく沈み、190センチ近い彼の巨躯が放つ圧倒的な体圧が私を包み込んだ。
「まだ熱いな」
大きな、骨張った素手が、私の額に触れた。 ひんやりとした指先の心地よさに心臓が跳ねる。その指がそのまま滑るように私の頬を包み込み、親指でそっと唇の端をなぞった。
「っ……、放して」
「放さない。言っただろう。お前は俺の管理下だ」
彼の指先から伝わる熱と身体の火照りが、悔しいことに内側からカッと逆流していく。 熱があるのは、きっと魔法の副作用だ。先王の香りを作った特殊魔法の負荷がきたんだ。
ジェイドの呼吸が、わずかに荒くなるのが耳元で聞こえた。クチナシの匂いが、さらに甘く、濃く、私の意識を麻痺させようと立ち込める。
「教えてくれ、ユーニス。なぜあの時、王の前で危険を冒してまであの香りを突きつけた? お前がどれほど危険に晒されるか、分かっていてやったんだろう」
彼の大きな手が、また私の顎をグイと上向かせる。
見えないはずなのに、彼の紅色の瞳が、射抜くように私を凝視しているのがわかった。肌が焦げるような熱さで、彼の執着が伝わってきたのだ。
「……私に、その資格があるから」
「資格?」
「先王を殺した男を、その場所で裁く。私にかできないことよ」
ふ、と彼は喉の奥で笑った。 けれど、その笑みさえもクチナシの香りを濃くさせ、私の理性を毒していく。
(こいつは今どんな顔をしているのか)
私は両手で彼の顔に触る。
しっかりした眉。高い鼻、形の良い唇…。思ったより、ずっと整った造形だ。
(……死神が、こんな顔をしているなんて)
指先が頬の曲線をたどる。冷たい部屋の空気の中で、彼の皮膚だけが酷く熱い。私の触れる場所を、彼は微動だにせず受け入れていた。
瞼に触れると、彼はまっすぐ目を開けたまま、私を見ている。
その眼差しの熱さが、指先から腕を伝って、じわりと胸の奥まで届いてきた。
(……見ないで)
思わずそう感じた自分に、私は内心で眉をひそめた。
「10年前。私を助け、愛してくれた先王陛下を、あのハロルドは毒殺した。私はその真実を暴くために、自分の目を代償にして、あの香水を完成させた。……王が己の罪で破滅するまで、私は絶対に止まらない」
私は不敵に微笑んでみせた。盲目の魔女としての、プライドを込めて。…しかし、副作用の熱のせいで、息も絶え絶えだった。
ジェイドは、しばらく無言だった。
彼の喉の小さな振動、心拍のわずかな高まり。私の言葉を聞いた彼の匂いが、一瞬、胸を締め付けられるほど切なく揺れた気がした。
だが、彼はすぐにその感情を押し殺すように、冷酷な声で告げた。
「…残念だが、俺はお前を自由にはしない。お前が俺の『檻』の中で、二度とあんな危険な香りに触れられなくなるまで、ここで一生、俺だけを見ていろ」
「檻……」
私はフッと冷ややかに笑い、彼の大きな手を力ずくで撥ね退けた。
「お言葉だけど、死神将軍。私は誰の飼い犬にもなるつもりはないわ。私の復習の邪魔をしないで!」
寝台の上で、私は自分の衣服の胸元を強く握りしめる。 彼に触れられた皮膚が、まだジンジンと熱を持って疼いている。
頭では拒絶しなければいけないのに、彼の温もりと、どこか懐かしいクチナシの香りに、私の身体は本能的にひどく安心したがっていた。
(……ダメよ、流されちゃ。私はあの偽りの王を地獄に落とすために、すべてを捨てたんだから)
「……強情な魔女め。まあいい、その意気がいつまで持つか、試させてもらおう」
ジェイドはそれ以上距離を詰めず、ゆっくりと立ち上がった。 冷酷な死神に戻った彼は、マントを揺らし部屋を出ていった。
パタン、と重い扉が閉まり、静寂が戻る。
一人残された寝室のベッドの上で、私は彼が残していったクチナシの香りを、肺いっぱいに吸い込んだ。 言葉では私を『重要参考人』だの『檻の囚人』だのと突き放す、嘘つきな死神。
(あの匂いは、私を監視するためのものじゃない。……もっと、ずっと深い何か……)
私の心は、あの死神が仕掛けた甘い香りの罠に、すでに半分囚われ始めていた。
けれど、頭では、先王の記憶の小瓶がどこにあるのかを考えていた。




