第01話 禁忌の魔女、あるいはクチナシの死神
【プロローグ・前世の断片】
目が覚めると、見知らぬ世界があった。
前の世界のことは、もう曖昧だ。家族の顔も、自分の名前も、少しずつ薄れていく。覚えているのはただ一つ——誰にも必要とされなかった、という感覚だけ。
この世界で最初に出会ったのは、緑色の瞳をした優しい男だった。
『城に来なさい。きっと気に入るよ』
…その人が、私を必要としてくれた。
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「――宮廷魔法調香師ユーニス・ローラン。お前を魔女として、この国から永久に追放する!」
頭上から、ひどく傲慢で、それでいて怯えを隠しきれていない声が降ってくる。現国王、ハロルドの声だ。
私の視界は、10年前からずっと完全な暗闇。だから、彼がどんなに醜く顔を歪めているかは見えない。
けれど、大理石の床を伝う衛兵たちの怯えた足音や、私を「化け物」と蔑む貴族たちの浅い呼吸が伝わってくる。そしてこの部屋を満たす、権力にしがみつく男の『腐った脂の匂い』が、すべてを教えてくれる。本当に臭い!
「宮廷の禁忌たる魔術調香に手を染め、不吉な香りで宮廷を惑わした罪だ。即刻、この国から立ち去るがいい」
(不吉、か…)
高笑いしたい気持ちを抑え、くすっと、私は唇を吊り上げた。
ただの言いがかりだ。彼は焦っているのだ。
私が腕を磨き上げ、10年前の先王が死んだ部屋から【『真実の記憶』を呼び覚ます香り】を完成させてしまったからーー
「拝命いたします、我が王」
私は、仕立ての良い黒のスラックスの裾を軽く払い、凛と背筋を伸ばした。
「――ですが最後に。先王陛下が深く愛された香りを、あなたに捧げさせてください」
「何……?」
ああ、なんて最良の日なんだろう。
今日は先代国王 10周忌追悼式典。
そんなタイミングで、あなたにこれを視せてあげることができるなんて...!!
懐から、一本の小さなクリスタル瓶を取り出す。
カチリ、と蓋を開けた瞬間、私の魔力が周囲を包む。
無色透明だったはずの空間に、目に見えない『過去の記憶の霧』が爆発的に広がっていくのを、私は肌の産毛で感じ取った。それは、どす黒く、怨念に満ちた、10年前のあの日、あの瞬間の匂い。
ハロルドが、息を吸い込んだ。
「ひっ……!? あ、あああ、あ、あああああ!!」
直後、玉座から無様な悲鳴が上がった。彼にも見えているはずだ。
自分が10年前、先王のワインに毒薬を垂らし、苦しみ悶える背中を冷酷に見下ろしていた、あの殺害現場の幻影が。
「来るな! 来るな先王……! 私は、私は悪くない……! ぶふっ、がはっ……!」
ガシャァン!と派手な音を立てて、王が玉座から転げ落ちる。泡を吹き、己の罪の幻影に狂って床をのたうつ男の醜態。騒然となる謁見の間。悲鳴をあげる貴族たち。
「それでは、失礼いたします」
周囲は意味がわからないだろう。だって私は、手元の小瓶の蓋を開けただけなのだから。
私は二度と振り返らず、漆黒のロングコートを揺らしながらコツコツとヒールの音を響かせ、悠然と宮廷を去っていった。
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ザーザーと、容赦のない雨が王都の裏路地を叩いている。
宮廷を追放され、冷たい雨に濡れながら、私は杖を突いて歩いていた。
視力を失った代わりに、私の五感は化け物のように敏感になった。
雨粒が地面を叩く振動、濡れた煉瓦の匂い、風の動き。それらすべてが頭の中で立体的に感じられて、目が見えなくとも足取りが乱れることはない。
特に嗅覚は抜群で、それはもう共感覚に近かった。香りで、目の前の人の感情だって手に取るようにわかってしまう。
10年前、私に目をかけてくれた先王の死の真実を暴くため、私は自らの視力を魔力の代償として捧げた。
後悔なんてない。私は、あの偽りの王が破滅するまで、絶対に倒れない。自立して生きると決めた私のプライドが、この身体を支えている。
けれど――ふと、私の鼻腔が、雨の匂いに混ざる『異物』を捉えた。
(――鉄の臭い。研ぎ澄まされた刃物と、濃い殺意の臭い)
足が止まる。気配は三人。
背後、そして左右の屋根から、私を囲むように路地へと飛び降りてきた。
「大人しく王の秘密と共に死ね、魔女。…生かしておくわけがないだろう」
(やはりか…)
名目は国外追放。しかし、その実は処刑。
ハロルドが口封じの暗殺部隊を放つことは、予想していた。私は冷徹に微笑み、上着の内ポケットに隠した、迎撃用の毒香水の瓶に指をかけた。私の五感なら、目が見えなくとも奴らの位置は分かる。刺し違えてでも、ここで一人残らず――。
そう覚悟を決めた、その瞬間だった。
シュ、と闇を切り裂く風の音が聞こえた。
「が、はっ……!?」
「な、に……」
直後、肉が骨ごと両断される鈍い音が三回。短い悲鳴。
どさどさと、重い肉塊が冷たい水溜まりに沈んでいく音がした。血の鉄の香りが充満する。
私があらかじめ用意した魔法薬を使う暇すらなく、ものの数秒で、三人の刺客の気配が完全に消滅した。
ドクン、と心臓が跳ねる。
私の目の前に、圧倒的な『捕食者』の気配が立ちはだかっていた。強い雨の向こうから、一歩、また一歩と近づいてくる足音。背の高い大男だ。その男から放たれる気配の大きさに、肌がビリビリと痺れる。息が詰まりそうだった。
なぜなら――その男の身体から、尋常ではない密度で、『狂いそうなほど甘く、切ない、クチナシの匂い』が爆発していたからだ。
(なに、この匂い……!?)
血の臭いなど一瞬で掻き消すほどの、濃厚な雄の香り。でもただの性欲の匂いじゃない。胸が締め付けられるほど深く、狂おしいほどに誰かを求めて、泣き叫んでいるような、ドロドロとした気持ちが伝わってくる香り。
おかしい。私は今、彼に殺されそうになっているのに――…
男が、濡れた剣をサヤに収めるカチャリという音が響く。視線を感じる。目が見えない私を、恐ろしいほどの熱を持った眼差しで、射抜くように凝視しているのが分かった。
その気配だけで、誰だかわかった。
王直属の処刑人。戦場帰りの死神――ジェイド・バロウだ。
闇を連れてきたような、全身黒い鎧とマントに身を包んだ、背はゆうに180センチは越えた大柄な男。記憶の片隅にある名が、彼の匂いと同時に弾けた。
「……王の刺客」
私は動揺を隠し、冷ややかに言い放った。杖を強く握り直す。
意味がわからなかった。彼は闇と死の気配で包まれているのがわかる。なのに、彼から伝わってくるのは殺気でない何かだ。
「ふざけた匂いをさせて。私を殺しにきたの? 死神将軍」
ジェイドは無言だった。ただ、ずい、と一歩、一瞬で距離を詰められた。
「あ――」
気づいた時には遅かった。私の160センチの体躯など、彼の巨躯の前には無力だった。ガシッ、と、大きな、骨張った素手が私の細い腰を強引に掴み、そのまま彼の胸板へと引き寄せられる。
服越しに伝わる、彼の胸の、凶悪なまでの硬さと熱。冷たい大雨の中にいるはずなのに、彼に抱きすくめられた瞬間、私の周囲の空気だけが熱帯のように沸騰した。
「は、放して……っ!」
目が見えない恐怖と、男の肉体にここまで密着される生まれて初めての感覚に、背筋がゾクゾクと震えた。耳元で、彼の荒い、焦れるような呼吸が聞こえた。
クチナシの匂いが、私の鼻を、脳を、甘く麻痺させていく。心臓がうるさい。怖いのに、身体の奥が、熱くズキリと疼き出す。
――このまま捕まったらどうなるのか。知りたい私がいる。
混乱する状況の中なのに、頭のどこかでそう考えている自分の好奇心に私は戦慄した。
「ユーニス」
掠れた、恐ろしく低い声。
体全体に響くその声に名前を呼ばれて、全身が泡立つ。
強がる私の顎を、彼の大きな指先が、容赦のない力で上向かせた。その瞬間、遠くから複数の足音が路地に響いてきた。松明の揺れる気配。王宮の衛兵だ。
「……追手が来た。大人しくしていろ」
彼は私の腰を引き寄せた。壁に追い詰められる形で、逃げ場がなくなる。その瞬間、彼の熱い手が腰とうなじにそえられて、ぐっと引き寄せられた。
大きな手が私の手首を掴み、次の瞬間、唇に、何かが押し当てられた。
(——っ、なに)
考える暇がなかった。視界のない暗闇の中で、突然、熱い何かが唇を塞いでいる。
これが何なのか、一瞬、本当に分からなかった。やがて、それが唇だと分かった。男の、唇だ。
(攻撃、されている?!)
頭がそう判断した。でも身体は違う反応をしていた。
彼のクチナシの香りが、鼻腔に、脳に、じわりと染み込んでくる。怖いはずなのに。嫌なはずなのに。唇から流れ込んでくる熱が、どこか別の何かに変わっていく瞬間を、私の身体は確かに感じ取っていた。衛兵の足音が遠ざかる。それでも彼は、すぐには離れなかった。必要な時間より、確かに長く。
「は、あ……っ」
ようやく唇が解放された時、私はいつの間にか彼の胸に額を預けていた。
(攻撃されたのに、なぜ)
自分が何も抵抗しなかったことに気づいたのは、その後だった。
以前から書き溜めていたお話を公開することにしました。
楽しんでいただけたら嬉しいです!
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