第03話 最初の通常調合
翌朝、目が覚めると同時に、私はシーツを跳ね除けた。
体調は驚くほど万全だった。魔法の副作用による火照りはすっかり引き、全身に気力が満ちている。これもおそらく、あの男が昨夜のうちに、完璧な温度管理と看病をしてくれたからだ。
(……だからって、一生この部屋で大人しく飼われるなんて無理)
あの男がハロルド王に私を差し出そうとしているのか、そうじゃないのか。
どっちにしてもここから逃げ出さなくてはならない。…奪われた香水瓶を取り戻してから。
私は寝台から足を下ろし、手で探りながら、椅子に掛けられていた漆黒のロングコートを見つけ、羽織った。スラックスを穿き、編み上げブーツの紐をきつく締め上げる。
目が見えなくても、部屋の構造は昨夜のうちにすべて把握した。 ドアまでの歩数は20歩。私は杖を突き、部屋のドアノブを回す。意外にも鍵はかかっていなかった。
部屋の外は狭い廊下だった。石作りの、暗くひんやりした空間。コツコツとブーツと杖の音が響いたと思ったら、突然、足元が変わった。
砕けた石と、土の感触。
ザリ、と踏みしめた瞬間、ひんやりとした外気が頬を撫でた。
(……外?)
鳥が鳴いている。草の青い匂い。小さな蝶の羽ばたきの気配。靴にあたる、太陽の光の熱。
だが同時に、崩れた石の粉塵の匂いも混じっていた。風が通り抜ける向きが、壁のある場所とない場所で違う。つまりここは、壁が崩れたままになっている。
――邸宅、と言っていたけれど。
使用人の気配は、どこにもない。磨かれた大理石の匂いも、整えられた庭の花の匂いもない。あるのはただ、古い石と、静けさだけ。
――死神が、こんな場所に?
将軍の位なら、使用人がいてもいいのに。静かすぎる。全く人の気配がない。
もしかして、この屋敷に一人で住んでいるの?
「どこへ行く、ユーニス」
背後からあの重い声が降ってきた。 ジェイドだ。彼の放つクチナシの匂いは、朝の冷たい空気の中で、どこか焦れたように鋭く尖りながら香ってきた。
「散歩よ。言ったでしょ、私はあなたの飼い犬にはならないと」
「ここは俺の邸宅だ。お前を狙う王の刺客はまだ王都に潜んでいる。大人しく部屋にいろ」
――邸宅。
私は違和感を感じたが、何も言わなかった。
邸宅というよりは、ここはまるで…
しかも、彼の口調は必死に厳しくしようとしている感じがある。
私を閉じ込めようとする彼の足音が、私の行く手を塞ぐのではなく、いつでも私を受け止められる絶妙な距離を保っていることを、私の耳は聞き逃さない。
本当に閉じ込めようとするなら、部屋の鍵ぐらいかけておくと思うのだけど…。
私はいつのまにか、彼への警戒心が薄れているのを感じた。
「部屋に調合の道具を用意してやった。香りを作ってみせろ」
「…私を自由にして」
これは私の、ささやかな反抗であり交渉だった。
「この家の主は俺だ。お前の指図は受けない」
低く突き放すような声と同時に、私の身体がふわりと宙に浮いた。 驚く暇もなく、ジェイドの逞しい腕が私の身体を軽々と抱き上げていた。
「ちょっと、どこに連れていく気!?下ろして!」
暴れる私を無視して、彼は私の腕を己の首に回させ、大股で廊下を歩いていく。 彼からの返事はない。しかし、彼の胸元から甘い香りが濃厚に香ってくる。
(…どうしてこんなに、良い香りがするの…)
あまりの芳しい香りに、悔しいけれど身体の力が抜けそうになる。
同時に、雨の中のあの濃厚な口づけの感触が脳裏に蘇り、またじわりと体温が上がった。
いきなり唇を奪われた恐怖と、処刑人に手込めに見舞われたような怒り。相反する感情が脳内で激しく混乱する。けれど、がっしりと固められた鉄のような腕から逃れる術はなく、私はただ困惑しながら、彼の体温に包まれながら運ばれていくしかなかった。
やがて重いドアの音がして、温かい部屋に入ったのがわかった。 ふわり、と柔らかなソファへと下ろされる。鼻をくすぐったのは、香ばしい食べ物の香りだ。
「飯だ」
冷徹な声が上から降ってくる。
飯?と私は思わず眉を寄せる。こいつは処刑人。私を殺そうとしているのではないの?
「勘違いするな。王へ引き渡す前に死なれたら困るからな」
「…ああ、なるほど。お優しいことで 」
嫌味ったらしく返した途端 、うなじに彼の大きくて温かい手が当てられ、顎を固定された。 驚いて唇を開いた瞬間、温かいスプーンが滑り込んでくる。ふんわりとした、卵焼きだ。
「――っ」
私が混乱したままゴクリと飲み込むと、彼は待ってくれない。また同じように、次の一杯を食べさせてこようとする。まるで行き届いた家畜の飼育だ。その過保護な支配にプライドが弾け、私は彼の手を強く振り払った。カラン、とスプーンが床に落ちて高い音を立てる。
「自分で食べられるわよ、離して!」
目は見えなくなった。けれど、その分感覚が鋭くなった私には、見えなくても生活することなど容易い。
ジェイドは怒る風でもなく、何も言わずに、今度は私の手にそっと何かを握らせてきた。 温かいマグカップだった。閉じられた私のまつ毛の先に、コーヒーの香ばしい湯気が当たって密かに揺れる。
彼が淹れたのだろうか。その温度に少しだけ毒気を抜かれた、その瞬間だった。 不意に、甘酸っぱい果物が私の口元へと押し込まれる。 むぐ、と反射的にそれを噛み潰した刹那――私の世界は、完全に彼の熱に塞がれた。
「ん……っ」
熱く、分厚い彼の唇が、私の唇を覆う。 昨夜のような強引な掠奪ではない。お互いの吐息をついばみ合うような、確かめるような交流の口付け。 同時に、彼の中からまたあの狂おしいほどの甘い香りが爆発する。
目が見えなくても、私にはわかる。 彼は今、無表情のまま、その底深い紅色の瞳で私を食い入るように見つめているのだと。
「……手伝ってなんて頼んでいないわよ、死神将軍」
唇が離れた後、私は荒い息を吐きながら、眉間にしわをよせて精一杯の睨みを利かせた。 ジェイドは何も答えず、ただ私の唇の端についた果汁を、彼の太くて長い指先で、名残惜しそうにゆっくりと拭った。
****
「お前の道具はここにある。好きなものを使え」
案内されたのは、驚くほど広大で、完璧に整えられた調香室だった。
私の鼻はすぐに、最高級のガラスで作られたフラスコの乾いた匂い、乾燥させた薔薇や白檀、そして希少な魔鉱石の結晶が放つ、特有の硬質な香りを嗅ぎ分けた。
(すごい)
王宮での調香室に引けを取らない、材料の種類。基本のよく使う材料から珍しいものまで。知らなければ揃えられないようなものばかりだった。
元宮廷魔法調香師として、その機材の完璧さには正直心躍るものがある。
――でも、一体なぜ…
手元を確かめていた私の手が止まる。
うん?とジェイドが首をかしげている。
しかし、私は考えるのをやめて作業台の前に立った。
今回は、身体を削るような『禁忌の調香』ではない。私の腕が鈍っていないかを確かめるための、通常の調合にする。
ここからは、私の独壇場だった。
目が見えない私の指先は、まるで独自の意思を持っているかのように動く。棚に並んだ何十種類もの薬瓶。私はラベルを見る必要すらない。瓶の蓋を開け、わずかに漂う成分の匂いだけで、それが何であるかを完璧に識別する。
「白樺のオイルを三滴。それから、結晶化した夜光草の粉末を二つまみ」
ジェイドは横に立っていた。目が見えない私の動きをじっと観察し、私が次に何を欲しているかを完璧に察知しているのがわかる。私がフラスコを火にかければ、彼が薪の火力を絶妙に調整している。私が香炉に炭を置けば、彼がそっと風を送る。 冷酷な仮面を被ったまま、彼は完璧な『助手』に徹していた。
カタカタと、心地よいガラスの音が響く。 お互いに言葉はない。なのに、私たちの呼吸は不思議なほどに重なり合い、調香室の中に、奇妙に心地よい熱が満ちていった。
最後に、私の魔力を数滴入れ込み、調合は完成する。
「――できたわ」
フラスコから香水用の小瓶に液体を移して、私とジェイドの間にひと吹き。
すると…
肺いっぱいにその香りを吸い込んだ瞬間、私の暗闇の世界が、鮮烈な光で塗り替えられた。
脳裏に広がったのは、朝露に濡れた瑞々しい森の息吹。木の葉の隙間から差し込む、柔らかなゴールドの木漏れ日。
私の香水は、嗅いだ者の脳内にその情景のイメージを強制再生させる。そして何より――。
「……っ」
隣で、ジェイドが激しく息を呑む音が聞こえた。
繋がった、と直感した。 今、この死神の男の脳裏にも、私と全く同じ、光に満ちた朝霧の森が広がっている。 目が見えない私と、すべてが見えている彼。生きる世界の違う二人が、この香りの結界の中だけで、『まったく同じ景色』を共有している。幻影の森の中で、ジェイドのクチナシの匂いが、今までにないほど激しく、美しく、まるで神聖なものに跪くかのように震えていた。
「……きれいだ」
ポツリと、死神が掠れた声で呟いた。それは、他者を威圧するためのものではない、彼の心の底から漏れ出た本音の響きだった。
「香りだけじゃない。その香水を掲げるお前の姿が、驚くほど……」
そこまで言って、幻影の光が消え、私たちは現実の薄暗い調香室へと引き戻される。
彼はハッとしたように言葉を飲み込んだ。 明らかな動揺。彼の匂いが、気恥ずかしさと、本音を見られた者だけが持つ、狼狽と羞恥でドロドロに濁っていく。
(これは…)
そう思ったのもつかの間。ジェイドは無言のまま、ずいと距離を詰め、私の手から完成したばかりの香水瓶を取り上げた。そして、そのまま私の細い手首を、彼の大きな手が容赦なく掴み取る。
「これほどのものを作る女だ。やはり、外に出すわけにはいかない」
彼の低い声が、私の耳元で熱く爆ぜる。手首を掴む彼の掌は、やはり酷く熱かった。
「せいぜいお前は俺の檻の中で、俺のためだけに、その美しい指を動かしていればいい」
そう言ってまた、その逞しい腕で私を勢いよく抱え上げた。元の部屋へと運ばれながら、私は別のことに意識を向けていた。
――先王の香水瓶を、探しださないと。




