第9話:予算の神様は御曹司
翌朝。
私は昨日取った生糸を小さな紙に包み、それを大事に懐へ入れて、糸ちゃんの後ろを歩いていた。
細い。短い。売り物にもならない。
たった五匹のお蚕様から取れた、ほんのわずかな一本の糸。
けれど、この時の私はまだ知らなかった。
この細い糸が、やがてどれほど大きなものへつながっていくのかを。
「こっち?」
「うん」
糸ちゃんが細い道を曲がる。
しばらく歩いてから、私はまた聞いた。
「こっちでいいの?」
「うん。こっち」
昨日重大な事実が判明したよ。
私、本家への道を知らない。
てゆ-か、よく考えたらさ、この世界へ来てから江戸直行便騒動以来、まともに家の外へ出たことがなかった!
家の中。庭。桑畑。
私が知っている世界は、ほぼそれだけである。
二十九年分の記憶を持っている女が、四歳児の後ろをてくてくついていく。
なんという屈辱。
でも、相手は糸の神様、科学の化身、しかたなかろ〜。
「糸ちゃん、なんで道知ってるの?」
「おとうと、おっかあと、きたことある」
「本家に?」
「うん。ようじで」
なるほど。
糸ちゃんは父母が本家へ用事に来る時、ときどき一緒に連れてこられているらしい。
対する私は完全なる箱入り幼女。
こっちは幼い頃からスマホとパソコンを持たされていたんだ。
地図なんて開けば、自分がどこにいるかまで機械が勝手に教えてくれたんだよ!
Gogule先生。
あなたがいないだけで、人類はこんなにも無力です。
「きぬちゃん、どうかした?」
「文明のありがたみをかみしめてる」
「⋯⋯?」
「きにしないで」
田畑の間の細い道を歩く。
見たことのない家があり、知らない畑があり、その向こうにはまた桑畑が続いている。
これが田口村⋯⋯。
私は歴史なら多少知っている。
シルジェネで上州の養蚕事情もずいぶん覚えた。学校で習う程度なら科学の知識だってある。たまに居眠りで、抜け落ちているがねっ。
でも、目の前の道がどこへ続くのかは知らない。
桑の葉をいつ摘めばいいのかも知らない。
竈の火加減だって、お母さんの方が百倍詳しい。
知識があるから何でもできる、そんな簡単な話ではなかったんだ。
が。
面白い。面白いんだよ。
知らないなら調べればいい。
できないなら、できる人に教えてもらえばいい。
こっちは二十九年間、検索という名の他力本願を使い倒してきた女だよ。人も使い倒してやるのだ。
人類の文明とは、他人の手を借りることで進歩してきたのだ。
たぶん。
「⋯⋯でっか」
本家を見た時、最初に出た言葉がそれだった。
「おっきいよ」
「うん。おっきい」
語彙が死んだ。
立派な門。その奥に大きな母屋があり、さらに蔵が並んでいる。離れたところにも建物が見えるし、桑畑も我が家とは比較にならないほど広い。どんな悪事をするとここまで金持ちになるんだろ。
人まで何人も出入りしている。
私の目には、もう屋敷には見えなかったね。
研究施設。
資材倉庫。
実験場。
そして何よりも。
資本。リソース。ホップ、ステップ、ジャンプ台! 小栗屋敷への発射台になってもらうよ。
科学の神様。
とうとうあなた様にも、スポンサーが付くかもしれません。
「いこ」
私はさっそく門へ向かった。
「きぬちゃん」
「ん?」
「かってに?」
足が止まる。
⋯⋯そうだった。
普通、知らない家へ勝手に入ってはいけない。
しかも本家である。
「どうする?」
「堂々と入る」
「おこられるよ」
「こそこそ入ったら、もっと怒られる」
我ながら正論だった。欲しかったのは邪道でもいいから抜け道だったんだけどなぁ。糸ちゃんはしばらく私の顔を見ていたが、やがて諦めたようについてきた。
「何だい、お前たち」
当然、すぐに止められたよ。
三十代か四十代くらいに見える女の人だけど、この時代の人の年齢は本当に分からないね。
「何の用だい?」
「お蚕様をください」
私は堂々と言った。正面突破だぜぃ。
女の人が瞬きをした。
「⋯⋯蚕?」
「はい」
「何匹だい」
「百匹くらい」
糸ちゃんが私の袖を引いた。
「⋯⋯五十匹」
もう一度引かれた。
「二十匹」
「きぬちゃん⋯⋯」
「十匹でも可!」
交渉とは駆け引き。譲歩は大切である。
最初から百匹とかほざいたことは記憶からデリートボタン。
「親御さんは?」
「⋯⋯」
私と糸ちゃんが目を合わせる。
「知らないのかい?」
「知らないというか」
「ないしょできた」
糸ちゃん、そこは言わなくていい!
女の人の目が一気に厳しくなった。
完全に不審児童を見る目である。
「帰りな。お蚕様は子供の玩具じゃないんだよ」
「玩具じゃない!」
私は懐から、昨日の生糸を包んだ紙を取り出した。
「これ、見て!」
「糸?」
「五匹のお蚕様を育てて、取りました!」
「そうかい」
⋯⋯反応、薄っす。
なぜだ。
私にとっては、人類が月へ行ったくらいの偉業だったのに。
まあ、よく考えればここは大養蚕農家である。
糸くらい珍しくも何ともない。
私の科学的大成果。
世間的評価、「ただの糸」。
悲しいっす。
「だから、もっと育てたいの!」
「そんなことを言われてもねえ」
駄目、か。
成果物が弱い。売り物にもならない。量もない。
でも、ゼロじゃないんだよ。
五匹から三匹を繭にした。
その繭から、私はこの糸を取った。
まだ細い、
まだ短い、
ただの一本の糸だけど。
それでも私は、この一本が何かの始まりになる気がしていた。
どうする。
ここで帰ったら、科学教の敗北である。
「何をしている」
後ろから声がした。
振り返る。
子供がいた。
私より少し年上だろう。
最初に思ったことは。
「でかい」
いや、もちろん子供だから小さい。
でも、私や糸ちゃんと比べると明らかに背が高かった。
そして着ているものも違う。
いい着物。絣かな。
本家の子だね、たぶん。
そして顔を見ると、
「⋯⋯あ」
整っている。
目鼻立ちがくっきりしていて、子供なのに妙に完成度が高い。
そこで、私は思い出した。
そうだった。 幼馴染みモードばかり気にしてたけど、美麗化MODまで突っ込んでたわ! 乙女ゲーム化セット。あれには『美麗化MOD』が標準装備されていた。そういえば、お母さんも美人だし、父さんも割と男前だ。村人も妙に顔面偏差値が高いような気がする。
まさか。
世界全体に適用されてる?
乙女MOD、勤勉すぎっ!
「それで」
少年が私を見る。
「何をしていた」
女の人が事情を説明した。
「蚕を寄越せと言っているのか」
さすがにそれではド直球過ぎますよ。
カーブ回転くらいはかけて、っと。
「寄越せとは言ってません。寄付して、とお願いしました」
「同じだろう」
カキーン。
打ち返された。
可愛くない。
「何に使う」
「育てる」
気合を入れて、真っ向勝負に変更する!
「それは分かる。何をする」
「調べるの」
「何を」
私は少し考えた。
内角へ食い込ませて、落とす!
よ〜く考えたまえバッター君、SHINKERだぁ。
「どうしたら、もっといい繭になるか」
少年の目が、ほんの少し変わった。
「いい繭?」
「うん。桑の葉を変えたり、置く場所を変えたり。暑い時と寒い時でも違うかもしれないし」
「それで?」
「それで?」
カキーーーン。
内野、取ってくれ〜〜。
「それを調べて、うちに何の得がある」
⋯⋯。
子供の台詞ではないぞ。
このバッターは実業団クラスですぜ。
「いい繭ができる」
「できなかったら?」
「⋯⋯」
「桑を食う。場所も使う。世話をする人間もいる」
九人以上いないと、プレイさせてくれないですと?
「私がやる!」
「一人で?」
リリーフの神様、かも〜ん。
「糸ちゃんも!」
「え⋯⋯」
糸ちゃんは巻き込まれ事故に遭いました。なむなむ。
少年が糸ちゃんを見る。
「やるのか」
「⋯⋯やる」
糸ちゃん。
ありがとう。
後でお賽銭差し上げます。
あ、私、無一文。
「五匹育てたと言ったな」
「うん」
「全部、繭になったのか」
「三匹」
「二匹は?」
「駄目だった」
「なぜ」
「分からない。だから調べる!」
少年が黙った。
右手の親指をこめかみに当てる。
何だ、その仕草。
眼鏡を掛けてもいないのに、変人天才大学教授みたいに眼鏡を押し上げそうな雰囲気である。
「同じように育てたのか?」
「たぶん」
「それなのに、三匹は繭になって二匹は駄目になった」
「うん」
少年がもう一度、こめかみを押した。
人差し指まで立てていらっしゃる。
「⋯⋯面白い」
お。
目が変わったね。
さっきまで私を子供扱いしていた顔とは少し違う。
痛いコースを突けたかな?
この表情、知っている。
好奇心。
私と同じやつだ。
「でしょ!?」
「まだ何も分からない」
「だから調べるんじゃん!」
少年と目が合う。
⋯⋯なんだ。
わりと話が通じるみたいじゃない。
「十匹」
「え?」
「十匹なら、父上に話してみる」
「ほんと!?」
打ち取った⋯⋯のか?
「ただし、条件がある」
出た。
分け前をよこせかな。
やっぱり銭勘定小僧だった?
「何をしたか残せ」
「残す?」
「どんな桑をやった。どこへ置いた。どうなった。全部だ」
「記録?」
スコアブックをつけろと?
「そうだ」
私は野球少年、もとい少年御曹司を見た。
この歳でそこまで考える?
きっと親父さんから、帳簿とそろばんを小さいときから持たされているんだろう。
がっ、こちとら幼い頃からスマホとパソコンを持たされて育ったんでい!
記録。
比較。
再現性。
その大切さくらい知っている。
⋯⋯知っているだけで、ちゃんと実践できていたかは別問題だがなっ、ハッハッハッ。
「紙、高いよ」
「板でいい」
即答だった。
こいつ。地頭良さげだね。
使えるな。
使い倒しちゃる。
「名前は?」
私が聞くと、少年は怪訝そうな顔になった。
「知らないで本家へ来たのか」
「だって初めて来たんだもん」
「榮太郎だ」
「榮太郎」
「呼び捨てにするな」
「じゃあ⋯⋯」
私は少し考えた。
「榮ちゃん」
「なぜそうなる」
「呼びやすい」
「やめろ」
「榮ちゃん」
「やめろ」
「榮ちゃん」
「⋯⋯」
隣で糸ちゃんが小さく笑った。
決まったな。
「よろしくね、榮ちゃん」
「よろしくするとは言っていない」
榮ちゃんはまた、こめかみに親指を当てた。
たぶんこの子、かなり面倒くさい。
使い倒すつもりで、逆にこいつに使い倒されないようにせねば。
でも、面白いね。
科学の神様。
天狗様。
糸ちゃん様。
そして新たに、野球少年改め、少年御曹司の榮ちゃん。
小栗大明神さま。予算の神様候補、一柱、発見しました。




