第36話:官吏
――川越藩前橋分領・町在奉行 安井与左衛門政章――
「安井様、藩庁より文が届いております」
与力の横川が、今朝届いたらしい藩庁からの指令書を渡してきた。
どうせまた、家老の小野寺伊織様からの叱責だろう。
一昨年から始まった凶作により食糧難に陥った村々に、藩の家老の方々を押し切り、藩の米倉を解放して救米を配布した。
凶作は去年も続き、さらに米を出した。
今年はもう殆ど残っていない。
小野寺様は倹約家で通っている。
私とは真逆の政治方針だ。
藩の金庫を守ることが幕府への忠勤だと主張される。
私の目標は藩領を疲弊させないこと。
そのために財を使用する。
これしか慢性的な赤字を抱えるわが藩を、根底から立て直す方法はないのだ。
だから、この飢饉に対してできる限りの領民救済を実施せねば。
この前橋に赴任したのは天保二年、今年で早四年。
最初の年は大規模な灌漑を行い、耕作放棄された土地、七百五十町歩(7.5平方キロ)を良田として復活させることができた。
利根川の治水工事や石堤、河川変更もやった。
領民は喜んでくれたが、藩は大反対、が、私は職をかけて押し切った。
大分費用がかかったからな、仕方あるまい。
昨年は社倉の復活令を出して、村倉などの制度を復活させたが、これをもう少し早くできていればここまでの被害にはならなかった。
悔いが残る。
「安井様、各村々からの報告をこれに」
私の文机の上に、今日も領内の村役人からの報告書の山が置かれた。
また深刻な現状を目にしなくてはいけないのか。
帰宅したら、いつもより長めに阿弥陀さまへの念仏を唱えよう。
本日は北部の橘山周辺の村か。
どうせ内容は決まっている。
困窮者が何人、米何俵不足、救米願い等に違いない。
最初の報告書は田口村か。
冒頭の願い。
これは⋯⋯
『困窮流民一時抱置願』
だと?
内容は
一、田口村人別帳数
二、流入者数
三、出身村別名簿
四、男女人数
五、働ける者
六、病人
七、乳幼児、老人数
八、一日必要穀物等
九、村倉残量
十、種籾数
十一、柴刈り、普請、開墾への流民延投入人数
十二、一時救済後の帰村可能予想数
「⋯⋯なんだ、これは」
頁をめくる。
「難民を数えているのではない。働かせられる日数を数えておるのか。しかも、働ける者は食わせるだけではなく、柴刈りや普請へ回している」
困窮した民で働けるものは倉賀野や高崎に人足として出稼ぎに出ることは許している。
が、それにも限界がある。
すでに高崎藩や岩鼻の陣屋からは、これ以上受け入れられないとの申し伝えが来た。
私は今、奥利根の根利で放棄されて荒れたままになっている山林を伐採、前橋町へ搬送する計画を建てている。
この収益を少しでも救米調達の資金にしようとの算段だ。
その労働賃として困窮者に収入を与える。
が、田口ではすでにそれをやっているだと?
「面白い。これをやっているのは誰だ? 顔を見に行こうではないか」
久しぶりに明るい仕事だ。
胸が踊る。
「領内視察に出る。支度せよ」
私は即座に腰を上げた。
◇◇◇◇
大男が下座で平伏している。
塩原継太郎。
田口の庄屋だ。
「よい。面をあげよ。私はそういう堅苦しいことは嫌いだ」
「はっ。では御心のままに」
頭を上げると大きさとともに人としての器量を感じる。
庄屋でこんな男はいたか?
記憶にない。
いや、この非常時だ。
腹を据えての飢饉対策で、一回り人が大きくなったのやも知れぬ。
「本日の御来村、誠に感謝いたします」
「うむ。田口では面白い村統治をしていると聞き及んで足を運んだ」
村の入口で見たことを思い出す。
竹矢来で簡素な関所を作り、そこで人別改めをしていた。
私が到着したときも、老人と乳児を抱えた痩せこけた家族が入村の手続きをしているのが伺えた。
「いつからだ」
「なにがでございましょう」
「いつから準備していた」
こんな施策はすぐにはできない。
また村倉も飢饉前から整備していた痕跡が見受けられる。
今でも十石単位の穀物が備蓄してあるのだ。
人口二、三百人の村がすぐに用意できる量ではない。
それに甘藷や馬鈴薯の手配もしてある。
いったい誰がこれを準備したのだ。
「はい。飢饉の前年、天保三年より、村人の創意で飢饉対策を始めました」
「誰がいい出した」
「それは、天狗様のお告げにて」
「天狗だと?」
「はい」
塩原継太郎は平然としている。
「天狗が村倉を建てたのか」
「いいえ」
「天狗が芋を植えたか」
「いいえ」
「では、天狗がこの帳面を書いたか」
「それも違いまする」
「ならば誰だ」
継太郎が、ほんの少しだけ笑った。
「皆でございます」
「皆?」
「始まりは天狗様のお告げにございました。しかし、それをどう使うか決めたのは村の者たちにございます」
私は黙って続きを待った。
「倉を増やすと決めたのは私。銭と備蓄を計算したのは倅の榮太郎。芋のことは佐津間胤親という浪人者。道具は村の喜平次。養蚕は女衆。流民をどう扱うかも皆で決め申した」
「ほう」
面白い。
一人の才人が村を動かしているのではない。
役目を分けて皆でやるか。
「では、この流民の仕組みは?」
「それも、皆で」
「父上」
横に控えていた少年が口を挟んだ。
これが倅の榮太郎か。
まだ十二にもならぬと聞いていたが、目だけは大人のそれだ。
「最初に人数で食料を割れと言ったのは、絹です」
一瞬。
継太郎の眉が動いた。
「⋯⋯絹?」
「あ」
少年が口を閉じる。
私は継太郎を見る。
「その絹という者は何者だ」
「⋯⋯分家の娘にございます」
「娘?」
「はい」
「幾つだ」
「数え九つにございます」
思わず聞き返した。
「九つ?」
「はい」
私はもう一度、手元の帳面を見る。
流入者数。
働ける者。
病人。
老人。
一日に必要な穀物。
種籾を除いた可食量。
「九つの女童が、これを考えたと申すか」
「いえ」
継太郎が即座に否定した。
「この仕組みを考え、決めたのは村の者たちにございます」
「だが、その娘が何かを言った」
「時折、妙なことを申します」
「例えば?」
継太郎は少し考えた。
「米が百俵あると言っても意味はない、と」
「なに?」
「何人が何日食えるかに直せ、と申しました」
私は思わず帳面を見る。
なるほど。
だからこの報告なのか。
「その娘はどこにいる」
継太郎が困ったような顔をした。
「⋯⋯おります」
「どこだ」
継太郎が横を見る。
部屋の隅。
榮太郎よりさらに幼い女童が、ちょこんと正座していた。
気づかなかった。
小綺麗な着物を着ている。
庄屋の娘というほどではないが、貧しい百姓の子にも見えぬ。
私と目が合うと、慌てたように頭を下げた。
「これは分家、作造の一人娘、絹乃にございます」
「なぜここにおる」
「先が面白そうな娘でしてな」
継太郎は悪びれもせず言った。
「こういう話は、聞けるうちに聞かせておこうかと」
「女童に村政を学ばせるか」
「覚えて損になるものでもありますまい」
変わった庄屋だ。
変わった村だ。
私は女童を見る。
「絹乃」
「は、はい」
「百俵では意味がない、と申したそうだな」
「⋯⋯はい」
「なぜだ」
女童は少しだけ榮太郎を見た。
助けを求めたのだろうか。
だが少年は知らぬ顔をしている。
「百人で食べるのと、三百人で食べるのでは、なくなる日が違うからです」
「当たり前ではないか」
「はい。当たり前です」
女童は答えた。
「でも、食べ物がいっぱいあると、忘れちゃうから」
私は言葉を失った。
当たり前。
確かに当たり前だ。
だが、その当たり前を我々はどれだけ忘れてきた。
蔵に何石ある。
何俵残っている。
そればかりを数える。
その米で、何人を、いつまで生かせるか。
そうか。
「なるほどな」
私はそれ以上、娘を追及しなかった。
天狗のお告げ。
九つの女童。
ずいぶん出来過ぎた話ではある。
だが、村人たちがそう信じ、それによって備え、現に人が生きている。
ならば今は、それでよい。
信心が人を働かせることもある。
それより見るべきは、この村が何をしているかだ。
「継太郎」
「はっ」
「流民は何人まで入れるつもりだ」
継太郎の顔が変わった。
先ほどまでの柔らかな顔ではない。
庄屋の顔だった。
「決めておりませぬ」
「何?」
「入れられる限りは入れまする」
「それでは村が潰れるぞ」
「承知しております」
「ならばなぜだ」
継太郎はしばらく黙った。
「門の前で、幼子を抱いた母親に帰れとは、私は申せませぬ」
「情で村を治めるつもりか」
「いいえ」
即答だった。
「だから帳面をつけております」
私は継太郎を見る。
「食わせられる数を毎日計算する。働ける者には働いてもらう。病人は分ける。帰れる者には種と食料を持たせて帰す。それでも限界が来れば」
そこで初めて、継太郎は言葉に詰まった。
「来れば?」
「⋯⋯その時は、私が門を閉めます」
部屋が静かになった。
「誰かにやらせるつもりはございませぬ」
なるほど。
この男は庄屋なのだ。
天狗でもない。
九つの女童でもない。
最後に責任を負う者が、ここにいる。
「面白い」
思わず口に出ていた。
「田口という村は、実に面白い」
私もこの愉快な連中に一味同心しようではないか。
「ならば、その時は田口だけで背負うな。我らに知らせよ」




