第33話:アラート、生産力低下中
七月が終わっても、空はなかなか晴れなかった。
雨。曇り。たまに日が差しても、すぐに雲に隠れる。
稲は枯れてはいない。
桑も死んではいない。
豆も粟も育ってはいる。
ただ、全部が遅い。
畑も田んぼも、季節に置いていかれているようだった。
「いかぬ。実の入り方が遅すぎるでござる」
田んぼの畔に屈んで稲の穂先を撫でながら、胤親さんが深刻な顔をしてつぶやいた。
「そんなに悪いの? 胤さん」
「悪いでござる。稲は夏が肝心。夏が涼しい、日の照りようが悪いと実が入らぬ穂が多くなり申す」
私も顔色が悪くなっていると思う。
手が少し震えている。
九月。
太陽暦で十月。
収穫時期だ。
やはり実が入らない穂が多いことにみんなが気がついた。
刈り取り後、数日稲架掛けにして乾燥。
千歯扱きで穂から籾だけにしたのち、ゴザの上で竹で叩いて脱穀、箕を使ってお米ともみ殻を選別する。
枡を使って、用意した俵に詰めていくと、みんなの顔がだんだん凍りついていく。
少ない。
平年の八割、いや七割か。
平年の二割から三割減。
極端な不作ではないが、年貢を納めれば立ち行かなくなるくらいの不作だ。
年貢の量は土地によって決まっているので、うちの場合、平年の約四割を毎年納めないといけない。
平年なら百採れて四十を年貢に納める。
残り六十。
そこから種籾や来年のために必要なものを二十ほど残せば、実際に食べたり売ったりできるのは四十くらい。
それが今年は七十しか採れない。
年貢で四十。
来年の種や必要な分で二十。
残るのは⋯⋯一割!
平年の四分の一しか口に入らない。
でも、ここ一年半で飢饉対策をしてきたので、芋と麦、蕎麦を並行して作っている。
春が遅かったせいで、麦は八割くらいの収量。
蕎麦は寒さに強いので、平年以上の収穫率だ。
やっぱり複線化していてよかったよ。
開墾したての野っぱらのような狭い土地。
あまり期待はしていなかったので、本当にありがたい。
お米にして二ヶ月分の収穫ができた。
お芋はまだ多くなくて、一ヶ月分はない。
そんなに長く保存はできないから早めに干し芋などにしないとね。
「少ないがなんとかなるさ。お蚕様のおかげで銭は少しだがなんとかなる」
「そうだな。いつものように米か麦を買おう」
年貢を納めに来た村の人達が、慰め合っている。
しかし悪い噂が届いた。
「米の値段がわかった。一俵が二両だ」
村の衆がざわめく。
普段の倍?
「麦しか食えんな」
「俺んちは稗しか食えねえ」
「売れる米がありゃぁ、万々歳なんだがなぁ」
そりゃそうだよ。
全国的に米がないから高くなっている。
そしてこれが毎年続くんだ。
さらに米の値段は上がる。
令和の米騒動どころじゃないだろう。
秋が深まるにつれ、その言葉の実際の意味が分かってきた。
米がない。
正確には、売ってくれる米がない。
銭を出せば買えないわけじゃない。
でも、去年まで取引していた商人に頼んでも、
「今年はこれだけしか回せませぬ」
と言われる。
隣の村も、その隣の村も不作なんだから当たり前だ。
自分のところで食べる米が足りないのに、わざわざ田口まで売りに来てくれるわけがない。
値段が上がったから買えない、だけじゃなかった。
物そのものが減っている。
少なくとも前橋近郊には米がないのだ。
十一月。
太陽暦では十二月に入るころ。
寒さが一段と厳しくなった。
田口では新しく取れた米と麦を蔵へ入れ、古いものから食べるようにした。
大豆。
蕎麦。
芋。
干し菜。
味噌。
今年取れたものを全部数えて、榮ちゃんたちが帳面に書き込んでいく。
今までなら、米が少なければ買えばよかった。
今年は違う。
最初から、
「米だけで腹を満たさない」
ことにした。
米に麦を混ぜる。
豆を混ぜる。
芋も混ぜる。
蕎麦を打ち、大根を混ぜる。
糒をお粥にする。
令和だったら健康食として喜ばれそうな献立ですな。
こっちは生存戦略だけどね。
それでも田口は、まだ恵まれていた。
村倉には去年までに集めた穀物がある。
本家にも備蓄がある。
うちにもある。
それに、この一年半で増やした麦や芋や蕎麦が、ちゃんと役に立った。
誰も腹いっぱいお米のご飯を食べられるわけじゃない。
でも、食べる物はあるのだ。
十二月になると、外から聞こえてくる話が変わった。
最初は、
「今年は米が高い」
だった。
次は、
「米が買えない」
になった。
そして、
「種籾まで食べ始めた家がある」
という話が入ってきた。
私は、その言葉を聞いた時に背筋が寒くなった。
種籾を食べる。
それは、来年を食べているってことだ。
今日を生きるために、春に蒔くものを腹へ入れる。
シルジェネなら、
〈来年度生産力低下〉
というアラートが表示されるだろう。
でも現実には、そんな親切な警告は出ない。
腹を空かせた子供がいて目の前に米がある。
だったら食べるよ。
私だって、その立場なら子供に食べさせると思う。
ふと、前に榮ちゃんへ言ったことを思い出した。
「田口って、小さな国みたいだね」
あのときは、ちょっと面白い発見をしたくらいに思っていた。
食料を用意する人がいる。
種を守る人がいる。
薪を集める人がいる。
値段を調べる人がいる。
病人を見る人がいる。
シルジェネで国を動かしていたときと似ている。
ここでうまくいったら、いつかもっと大きなところでも使えるかもしれない。
そんなことを考えた。
でも、種籾を食べた家にも、きっと子供がいる。
お父さんがいて。
お母さんがいて。
きっとみんな腹を空かせている。
画面の向こうにあった数字じゃない。
失敗したらリロードして、もう一回。
そんなことはできないんだ。
田口だって同じだ。
糸ちゃんがいる。
榮ちゃんがいる。
お父さんとお母さんがいる。
亀じいがいる。
みんな、私のゲームの駒じゃない。
ここで何かやって、うまくいったら次でもやる。
それはいい。
でもそのために田口があるんじゃない。
まず、ここにいる人たちが生き残るためにやるんだ。
順番を間違えちゃ駄目だ。
年の瀬。
本家の座敷では、もう一度すべての備蓄を数え直していた。
私は榮ちゃんの横から帳面を覗き込む。
「どう?」
「今年だけなら問題ない」
榮ちゃんが筆を置いた。
「春まで食う分も、種も残せる。多少なら売ることもできる」
「多少なら?」
「ああ」
その言い方が気になった。
「去年より減った?」
「当たり前だろう」
榮ちゃんが呆れたように私を見る。
「今年は不作だったんだぞ。それでもこれだけ残ったんだ。十分うまくいった」
「⋯⋯そっか」
「何が不満なんだ」
「不満じゃないよ」
本当に。
田口はうまくやったよ。
備蓄したし、作物を増やした。
麦も芋も蕎麦も作った。
養蚕も完全には潰れなかった。
みんな頑張ったんだよ。
その結果、今年は誰も飢えない。
大成功だ。
天領では逃散もあったらしいのに。
まだ田口は踏ん張っている。
なのに。
「榮ちゃん」
「なんだ」
「今年は、乗り切ったね」
「ああ」
榮ちゃんは帳面を見たまま答えた。
「お前が言っていたほどじゃなかった」
「今年はね」
筆先が止まる。
「⋯⋯今年は、か」
「うん」
私は帳面の数字を見る。
減った米。
減った麦。
増えた出費。
それでも田口は、まだ食べられる。
「前に言ったでしょ。これ、一年じゃ終わらないって」
「覚えている」
「天明の飢饉みたいになるかもしれないって」
「ああ」
榮ちゃんが小さく息を吐いた。
「だから、これだけ集めた」
「うん」
「それでも減った」
「うん」
しばらく、二人とも帳面を見ていた。
「榮ちゃん」
「なんだ」
「来年も乗り切ろう」
「当たり前だ」
「その次も」
榮ちゃんは今度はすぐに返事をしなかった。
閉じかけていた帳面を、もう一度開く。
「⋯⋯春までに、もう一度全部計算し直す」
「お願い」
「絹」
「なに?」
「お前も逃げるなよ」
「逃げないよ」
外では雪が降り始めていた。
今年は、乗り切った。
でも。
まだ一回目だ。




