第32話:収入の格差
六月初夏、本家に繭の買取り商が来たというので、お父さんお母さんと一緒に繭を運んで、買い取ってもらいに来た。
田口の養蚕をしている農家はほとんど来ている。糸ちゃんちもだ。
今年の繭は不作だったよ。
あれだけいろいろ効率化したんだけど、肝心の桑の生育が悪くて、お蚕様に満足な量を食べさせられなかった。
糞の始末は前より早くなった。
換気にも気をつけたし病気の蚕も早めに分けた。
それでも、例年の七割くらいの出来。
今年、私と糸ちゃんは畳一畳ほどの実験区画をもらって、二千匹の幼蚕を飼っていた。
普通なら五齢まで千五百匹以上は残るはず。
でも今年は千二百匹ほど。
取れた繭は、通常なら五百匁、約二キロ近くになるところ、四百匁とちょっと。
それでも、お母さんたちが世話をしているお蚕様より、ほんの少しだけ成績が良かった。
褒められました。
えへん。
もっと褒めてやってもいいんですぜ。
私、おだてると木に登るタイプです。
でも去年よりは、はるかに少ない。
「上州屋さん。今年の繭の値はどうかな?」
榮ちゃんが、繭の買取商人と話をしている。
「今年は少し高うございますな。上物なら一両で二百五十匁、中で二百八十匁、下で三百匁ほどでございます」
令和換算だと、ざっくり一両で一キロ前後。
一両は、だいたい四千文。
令和のお金にすると?
その時の物価や何を基準にするかで変わりすぎるけど、十万から三十万円くらいの感覚らしい。
幅ありすぎだろ、江戸時代!
今度からファジー江戸と呼んであげよう。
弱っちそうなリングネームだな。
しかも、これは江戸みたいな都会で考えた時の感覚。
銭そのものがあまり出回っていない田舎では、現金のありがたみはもっと大きい。
そして我が絹糸研究所――あ、私と糸ちゃんの研究所ね――の売上。
ざっくり六千文。
一両二分くらい。
七歳児の養蚕研究としては、普通に大金である。
この時期、女中さんの奉公の給金が最低で年二両だとか。
二人で半分こした。
糸ちゃんちの備蓄が増えるといいな。
もちろん、ここから
幼蚕代。
桑代。
道具代を引いてから。
それに一番大きいのは人件費。
私と糸ちゃん。
お母さん。
手伝ってくれた人たち。
普通だったら全員で分ける。
「え? これ、人件費まで入れたら、思ったより儲かってなくない?」
気づいてはいけないことに気づいた気がする。
ちなみに私。
こういう商人さんからは、なぜか丁寧に扱われる。
理由は分かってる。
服だ。
別にお姫様みたいな着物を着ているわけじゃない。
でも、よく洗われている。
破れたところはきれいに繕ってある。
帯もちゃんとしてるし茜の着物だってある。
それに髪だってお母さんが毎朝きれいに結ってくれる。
お父さんも、私の着物が小さくなると、なんだかんだ言いながら新しいものを用意してくれる。
一人っ子だからね。
お父さんとお母さんの愛情が、一点集中しておりまする。
だから、遠目に見ても、
「あそこの娘は、そこそこ余裕のある家の子だな」
とは分かるらしい。
商人というものは、そういうところをよく見ているね。
「お嬢様も、繭をお育てになったので?」
「うん。糸ちゃんと一緒に」
「これはこれは。大したものでございます」
ほらね。
七歳の糸ちゃんが同じことを言っても、たぶんこんなに丁寧には返されない。
世知辛いぜ、ファジー江戸よ。
当たり前だけど、うちは田畑の年貢がかかる。
だけど養蚕に労働力を使っているので、その分田畑は少ないのだ。
だから、繭の売上をそのまま年貢に取られない養蚕で得られる銭は、農家にとってものすごく大事なんだ。
基本、普通の農家の田畑にかける労働力を養蚕に振り向けているだけ。
あとは婦女子でもできるのでその分生産性が高い。
凶作になれば田畑から取れるお米や麦が減る。
だから、不作の時には農家なのに普通の農家と違ってお米を買わなきゃならない。
その時に使えるのが、養蚕で稼いだ銭。
塩。
油。
薬。
農具。
着物。
そして足りなくなった食料を買う。
養蚕の現金収入は命綱なのだ。
豊作の年なら、少しずつ銭を貯められるくらい、うちは裕福ではある。
だからここ二年で大量の備蓄ができた。
しかし今年は繭の量が三割ほど減った。
値段が少し上がっているから売上が丸々三割減るわけではないけど、それでも痛い。
でも。
まだうちは痛いで済む。
だけど糸ちゃんの家は違う。
自分の田畑がない。
あるのは庭で家庭菜園並みの収穫だけ。
養蚕の規模もうちより小さい。
それなのに、食べる口は多い。
お兄ちゃん、お姉ちゃんも五人いる。
普段なら、それでもやっていける。
家族総出で本家から借りている小作地を耕し、小作料を納めて残りを収入に。
それと並行して本家の田畑の手伝いに出て、その作料をもらう。
寝る間を惜しんで、自分の蚕を育てて銭を得る。
それで一年を回している。
だけど今年みたいに、
麦が悪い。
米も怪しい。
桑も育たない。
繭も減る。
となったら、全部が一緒に減る。
それなのに出ていく食べ物の量だけは、ほとんど減らない。
だから着ているものはツギハギが多い。
せめて清潔に、と思ってもあんまり洗濯をするとさらにボロくなる。
令和の所得格差よりも徹底している。
のし上がる隙がないのだ。
横を見ると、糸ちゃんがお母さんと一緒に繭を選り分けていた。
「きぬちゃん、これきれい」
白くて丸い繭を両手に乗せて見せてくる。
「おお、上物候補」
「じょうもの?」
「高く売れるやつ」
「ほんと?」
にこっと笑う。
糸ちゃん、七歳児です。
幼稚園年長さんだね。
上物候補です。
今はそれでいい。
私はその笑顔を見ながら、ちょっとだけ胸が痛くなった。
そして、本家。
ここはさらに別格だ。
田んぼも畑もある。
小作に出している土地もある。
養蚕の規模もうちよりずっと大きい。
蔵がある。
生糸の取引もある。
なにより、信用がある。
何かあれば商人から物を買える。
銭を借りることもできる。
人を雇うこともできる。
一年の不作くらいなら、本家だけならどうってことない。
たぶん二年でも、それ以上でも耐えられる。
でも。
田口全部を支えるなら?
村倉を増やした。
食料を集めた。
種を買った。
芋神様まで拾った。
人も使っている。
本家だって、無限に銭が湧いてくるわけじゃない。
田口を守るたびに、本家の蓄えも少しずつ減っている。
「上州屋さん」
私は商人に声をかけた。
「今年は、よその村も繭少ないの?」
「左様でございますな」
上州屋さんが私の方を向いた。
「前橋の西も東も、桑の出来がよろしくありません。繭も例年より少のうございます」
「田口は?」
「まだ良い方でしょう」
「じゃあ、養蚕してないところは?」
上州屋さんの顔から笑みが消えた。
「そちらの方が厳しいでしょうな」
「どうして?」
「繭のように、銭になるものがございませんから」
やっぱり。
「麦もあまり出来が良くないと聞きます。米も、このままでは豊作とは参りますまい」
榮ちゃんが会話に入ってきた。
「大坂の米は?」
「上がっております」
「どれくらいだ」
「まだ先は分かりませぬが、かなり騒がしくなっておりますな。凶作の噂が広がれば、さらに上がりましょう」
大坂の堂島。
日本中の米が集まるところ。
そこで値段が上がり始めている。
まだ田んぼの稲は青いけど。
まだ村の人は食べているけど。
まだ本家の蔵もいっぱいだけど。
でも。
もう銭の世界では、飢饉が始まっているのかもしれない。
帰り道。
お父さんとお母さんの少し後ろを歩いた。
道の横には田んぼが広がっている。
青い。
遠くから見れば、いつもの夏の田んぼだ。
でも近くで見ると。
少し背が低い。
葉の色も薄い。
風が吹く。
七月なのに、肌寒い。
繭は減った。
桑も悪い。
麦も悪い。
米もどうなるか分からない。
大坂では値段が上がり始めている。
それでも今は、まだ誰も飢えていない。
だからこそ怖い。
「⋯⋯これ、まだ入口なんだよね」
田んぼの向こうに広がる灰色の空を見上げた。
知っている
この先を。
知っているからこそ
怖かった。




