第7章 勇者たちの再興。もうひとつの10・19〜⑧〜
同年10月23日――――――。
ナゴヤ球場では、セ・リーグを制覇した中日ドラゴンズとパ・リーグの覇者である西武ライオンズが日本シリーズの第二戦を行っていたその日、西宮球場では、阪急ブレーブスとロッテオリオンズの25回戦と26回戦のダブルヘッダーが行われた。3万人以上の観客が詰めかけた球場は、寂しさと熱気が入り混じった不思議な雰囲気に包まれる。
チームとしては、次のシーズン以降も引き続きこの球場を本拠地として活動するものの、「阪急ブレーブス」としては最後の試合が行われるこの日、佐藤少年は、第一戦の試合開始前に球場を訪れた。
第一戦を2対4でオリオンズに敗戦したブレーブスは、第二戦にこの年限りで引退を表明していた山田久志を先発させ、7対1で完投勝利を飾った山田は、見事に引退の花道を飾った。
この日も、二試合をとおして、物議を醸す事態が起きている。
それは、シーズン終盤のタイトル争いで発生する敬遠合戦だ。
この年、ブレーブスの松永浩美は、シーズンを通じてオリオンズの高沢秀昭との間で首位打者争いを展開していた。
勝負の行方は、10月22日から23日にかけて本拠地・阪急西宮球場で組まれていたロッテとの三連戦(にまで持ち越された。
高沢は21日までに打率.327を記録していたが、オリオンズ首脳陣の方針で、ブレーブスとの三連戦をすべて欠場。高沢を追う立場の松永は、22日の試合で第1打席からの2打席連続安打によって、打率.326にまで上げた。第二打席を終えた時点で松永の打率が高沢を上回る可能性が高まったことから、ロッテの首脳陣は、松永の第3打席から敬遠攻めを投手陣に指示。
松永は延べ三試合で11打席連続四球・10打席連続敬遠四球、23日のダブルヘッダーで1試合4敬遠四球(第一戦と第二戦を通じて8打席連続敬遠四球)のプロ公式戦記録を樹立する羽目になり、第二戦の最終打席で三振を記録したことによって、わずか1厘差でタイトルを逃すことになった。
なお、最終打席の三振は、「バットが到底届かないコースへ投げられたボールに向かってバットを放り投げる」という行為を三度繰り返したことによるものだ。この行為について、「ロッテバッテリーが勝負しないことに対する無言の抗議」との解釈が報道などで広まっているが、松永自身は引退後のインタビューでこの解釈を否定。
阪急最後の試合で、ロッテの選手・首脳陣に向かって一部の観客がブーイングを飛ばし続けたことへの抗議として、ブーイングを鎮めるつもりでバットを放り投げたことを明かしている。松永によれば、
「シーズン最後の三連戦を打率2位で迎えた時点で『高沢さんに負けた』と自覚していたので、三連戦中の敬遠攻めをめぐって、ロッテ(の関係者)を恨んだことは一度もない」
とのことだが、一方で、観客からはバットを放り投げるたびに「松永、いいぞ!」という歓声が上がっていた。
そして、試合終了後には、上田監督やコーチ、選手一同がグラウンドに集結してセレモニーが行われる。
「ただ今からご援いただきましたファンの皆様方に上田監督がご挨拶申し上げます」
というアナウンスとともに、ピッチャーマウンドに上田監督が歩み寄る。
センター後方の選手名を記す電光掲示板とアストロビジョンと名付けられたスコアボードには、
「さようなら 阪急ブレーブス」
の文字とマイクを握る監督の姿が大写しになった。
「球団譲渡のお話を伺った時に夢であれ、嘘であれと思い続けてきましたが、とうとう実現してしまいました。しかしながら、いいたくさんの思い出を作っていただいたこの西宮スタジアム、また今日の試合を持って引退をする山田とか福本とか、幾多の名選手を生み、育ててくれました」
「この西宮球場は新しいチームの本拠地として存続いたします。そしてまた、この球場で培われ皆様方によって育てられました阪急魂・勇者魂はユニフォームこそ変われこの立ち並ぶ選手たちの胸の中に永遠と燃え続ものと確信しております」
「ブレーブスは阪急のものでも、オリックスのものでもありません。ファンの皆様のものです。選手一人ひとりのものです」
約5分にもおよぶ監督のあいさつは、集まったファンから万雷の拍手を受けた。
だが、山田と異なり、現役続行の意志を示していた福本の去就は、監督の「今日の試合を持って引退をする山田とか福本」の一言で、チームのみならずファンやマスコミを巻き込んだ大騒動に発展してしまった。
結局、様々な理由が重なり、福本が引退を決意したことにより、阪急ブレーブスの黄金期を支えた選手は、後続のオリックスブレーブスに残ることはなくなった。
「ベテラン選手もいなくなって、来年からのブレーブスは、どうなるんやろう……?」
最終戦が終わったあと、阪急ブレーブスという存在との別れを惜しむファンとともに、小学5年生の佐藤少年は、声の限りに選手や監督、マスコットキャラクターに声援を送った。
そして、プロ野球史上最大の当たり年と言われた1968年に入団した山田や福本がチームを去る中、同じ年にプロ野球の世界に飛び込んだ一人の男は、翌年以降も、ファンの声援に応え続けることになる。




