第14話:勝者の休息、火花の予感(後編)
ゴクリと唾を飲み込む。
いや、まさかそんな。
この長さ……。渚に似ているような……。
いやいやいや、待て待て! これはいけない!
「ご、ごめん!」
踵を返して立ち去ろうとすると、背後から声がかかった。
「おー、君か。待ちなよ」
低く、よく通る声が響いた。
足を止めて振り返ると、声の主も俺の方へゆっくりと振り向いた。
――そこにいたのは、もちろん渚ではなかった。
長髪の男。蒼い瞳に、どこか場違いなほど整った顔立ち。
そして、どこか――あの烏丸焔理に似た雰囲気を感じた。見た目は似てないのに、なぜだろう。
「覚えているか? 田中晴翔だ」
田中晴翔……。どこかで聞き覚えがある。どこだったっけな。
『晴翔だ。カルデュア王国第一王子にして、王立アカデミーの副総督を務めている』
そして思い出す。
この世界に来た日、王宮で会ったあの人だ。すごいイケメンだったから思い出せた。
「王宮で会いましたね?」
「覚えてたか。せっかく来たんだ、そんなとこに突っ立ってないで入れよ」
断るのも不自然なので、促されるままに進むと、適当にパシャパシャとかけ湯をする。それからそっと温泉に足を入れた。
「ふー」
お湯はちょうど良い温度で、思わず声が漏れるほど気持ちいい。
「調子はどうだ」
先に湯に入っていた男――晴翔は、どこか柔らかい笑みを浮かべていた。
「おかげさまで、なんとかやれてます」
「そうか」
「あの……田中ということは、希望さんの――」
「兄だ」
「そうなんですね。希望さん、お兄さんがいることなんて全然話さないんで。少し驚きました」
何気なく継いだ言葉に、希望の兄――晴翔が一瞬ムッとした表情になった気がした。
気のせいかな。特に変なこと言ってないよな……。
湯気が立ち上る空間の中、俺は落ち着かないまま、対面に座る形で体を沈める。
うーん、何を話せばよいのやら……。
沈黙が数十秒続いた。
「……希望のことだけどな」
不意に、晴翔が口を開いた。
その一言に、俺の背中がぴくりと反応する。
「希望は、自由に見えて意外と弱いところのある子だ。……守られるより、誰かを守ろうとして傷つくタイプでな」
「……そう、なんですね」
なんとなくわかる気がした。
あいつが俺にあんなふうに構うのも、異世界で一人の俺を気にかけてくれている面もあるのだろう。――いや、不意打ち契約とか考えると違うかも……。
「そういう子だから、昔から目を離せなくて」
「まさか……希望さんのことが気になってここまで?」
だとすると、この人かなりの――
晴翔は湯の表面を見つめながら、微かに笑った。
「今回は違う。別の用事のついでさ。ただ……ちょうどよく、“希望に関わる男”が現れてくれた」
男……えっ!? まさか俺?
その言葉には、ほんの僅かだが温度があった。圧というより、“静かな問い”のような重み。
「君が、どういうつもりで希望と接しているか……別に詮索するつもりはない」
「でも、気にはなると」
「兄だからな」
そう言って、晴翔は湯をすくって手のひらに受け、ゆっくりと落とす。
「俺にできるのは、あの子を守ることだけだと思っていた。だが――最近は、少しだけ変わってきた気がしている」
「変わってきた……?」
「希望の視界が広くなった。今までは俺を中心に世界を見ていた希望が、別の何かを中心に世界を見始めているように見える」
俺の視線が、湯気越しに晴翔さんの視線と真っ直ぐぶつかる。
そのまなざしには感情の濁りがなかった。真剣な眼差し。
「……桐原悠真。君には、あの子と向き合う覚悟があるか?」
真正面から問われた。
ここは適当に流す場面ではなさそうだ。俺は、湯の中で指先を握りしめる。
「……覚悟と呼べるほどのものじゃないけど、裏切るようなことはしないつもりです。こうして温泉に入れてるのも、希望さんのおかげですし」
あいつと会ってなかったら、俺は今頃どこかで野垂れ死んでいたかもしれない。命の恩人というべき存在だからな。あと、裏切ったら死ぬし。物理的に。契約あるから。
晴翔の目が、微かに細められた。そして、頷いた。
「なら、よかろう。それ以上のことは……まあ、色々あるからな」
にやっと笑ったのち、彼は再び目を閉じた。今の答えで十分だと言わんばかりに。
静かで、短い。けれど妙に疲れるやりとりだった。
でも――信用はしてもらえたかな。
俺は、湯に肩まで浸かりながら、胸の奥にほんの少しだけ残った熱を感じていた。
――そろそろ上がろうかな。
『色々と大変だろうけど、がんばれよ』
との言葉を残して、晴翔さんは既に上がっていた。
温泉の熱で体はすっかり温まり、逆に入浴前の淡い期待は、さっきのやりとりですっかり冷めてしまっていた。
なんかそーいう気分じゃなくなったというか。
ここから無理に粘っても、逆に虚しくなりそうだし。
それに今ここで希望の姿を見るようなことになったら、明日を無事に迎えられないような気もするし。
――それにしても、あの人なんでここにいたんだろう。
湯を出て、脱衣所で適当にタオルを巻く。髪からぽたぽた落ちる滴を軽く拭って、手早く着替えを済ませる。
着替えを終え、扉を開けて外に出た瞬間――
「――もうあきらめたのですか?」
「うおっ!」
夜の廊下の明かりを背に、まるで最初からここで待っていたかのように、ニャルが無表情で立っていた。
「なんでこんなところに?」
「館内の探索中に偶然通りがかっただけです」
いつも偶然っていうけど、本当に狙ったようなタイミングで現れるよな、こいつ。
俺をおちょくることに執念かけてるんじゃないかと思うレベルだ。
「その表情、“勝利の栄光”は得られなかったようですね」
「いいんだよ、これで!」
そう、これでよかったのだ! 半分強がりだけど、もし本当に鉢合わせしたら、その後気まずくてしょうがないし。
「そうですね」
笑いもせずに言ってのけるニャルの横顔は、少しだけ、ほんの少しだけ――嬉しそうに見えた。
その言葉を最後に、ニャルはこの場から姿を消した。
あいつ、ほんとになんであんなところにいたんだろうな。
温泉の入口はこの施設のほぼ行き止まりにある。
まさか風呂に入ろうとしてた?
でも、あいつ風呂嫌いだしなぁ。
未だに楓と風呂に入る入らないでやりあってるし。結局引きずられていくけど。
「まー、あいつの考えなんかわかるわけないか」
こうして風呂から出てしまった以上、早くこの場を立ち去らなければ。
誰かに見られたら、あらぬ誤解(誤解じゃないけど)を受けてしまう。
俺は大きなため息をつくと、足早に温泉をあとにした。
風呂から戻ってみれば、女子組の部屋からは既に笑い声が漏れていた。
少し聞き耳を立ててみる。
「それでね、それでね~! そのとき楓ちゃんが真顔で“それは防御の意義に反します”って言ってさ――」
「うっそ、まさかあれを本気で……!」
「私は真剣でした」
希望、渚、鈴音、そして楓の声。
よし、全員いるな。
普段は異なるテンションの四人が、今夜ばかりは一つの空間でにぎやかに混ざっている。
これなら俺の果敢な挑戦はバレてないだろう。
見つかる前に退散だ。
自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。
ほてった体をゴロゴロしながら冷ましていると、ゆっくりと意識が遠のいていった。
意識が現実に戻る。
「寝ちゃったのか」
どれくらいの時間が経ったのだろう。
起き上がろうと体を動かしたその時、不意に視界の端が揺れた。
「また来たの?」
ニャルが無表情でこちらを見ていた。
「あなたの監視、及び観察がわたしの役割です」
相変わらずの声音。
けれど、どこか――いつもより少し、静かだった。
「他のみんなと一緒にいなかったのか?」
「おりましたよ。皆さん入浴ということで一足先に部屋に戻りました。女子会の議事録も用意しておりますが……ご覧になりますか」
そう言って、紙の束らしきものをふわりと浮かせる。
「ご覧になれるわけないだろ!」
すごく気になるけど。コイバナとかしてたりしたらどうしよう。
「そうでしょうね」
ニャルの声が、少しだけ嬉しそうだった気がした。気のせいかもしれない。
「それを渡すために、わざわざ来たの?」
「探索も終わって暇でしたので」
暇なら一緒に風呂に行けばいいのに。
……いや、やっぱり風呂は嫌いなのか。
ほんとに、こいつの考えることはわからん。
会話が、そこで止まる。
しばらく沈黙のあと、ニャルはふいに立ち上がり、背を向ける。
「……今日は、にぎやかでしたね。あなたもくつろいだ顔をしておりました」
「そうかもな」
この世界に来て、今日が一番安らいだ日かもしれない。ずっとハードな日々だったからな。
「今日は適応支援もないしな」
「やりましょうか?」
「勘弁してください」
俺がそう返すと、彼女は肩をすくめる仕草をして――そのまま、部屋の空気から消えた。
残された俺は、ため息をひとつ。
まあでも、色々感謝はしてるよ、ニャル。
さて、食堂でも覗いてみるか。
そろそろ夕飯の時間も近いだろう。
俺は立ち上がると、ゆっくりと部屋を出た。




