第15話:識閾の深層(前編)
保養所の食堂に入ると、希望、渚、鈴音、そしてニャルの四人がテーブルを囲んでいた。
「あ、先輩? 起きたんですね」
希望が手を振りながら明るく迎える。
向かいに座る鈴音は、なんとすでに口をもごもごさせていた。
こいつは人を待つとかないんか!
テーブルに近づくと、渚が朗らかな表情で「こっち空いてますよ」と席を勧めてくれた。
「あれ? 楓は?」
「ゆーゆーを呼びに行ったんだ。入れ違いになったんだね」
鈴音が口をもごもごさせながら答える。
豪華な食事の前に、楓の爪の垢を煎じて飲むべきだな、こいつは。
そんなこんなで少し待つ。
楓が戻ってきたところで夕食が始まった。いや、すでに始めてるやつはいるけど。
「これ、地元の食材らしいですよ。土魔法で調整された育成畑の野菜なんだって」
希望が説明し、渚も「素材の香りがいいですよね。……この煮物、好きです」と柔らかく笑う。
和やかな談笑の中、不意に希望が肩を落とした。
「あー、聞いてくださいよー、先輩方。来月の交流会、わたしが行くことになったんですよね〜。はー、憂鬱〜」
「交流会?」
俺が疑問を口にすると、希望が顔を伏せたまま答えた。
「毎年6月にあるんですよ。教理会と共和国の新進気鋭の若手交流会みたいなの」
教理会? 共和国?
授業で聞いたことがあるような、ないような……。
俺の疑問に答えるかのように、ずっと黙ってもそもそ食べていたニャルが口を開いた。
「カルデュア王国は三つの勢力――ひとつは厳密には国家とは言い難いですが、主権と領土が認められているため便宜上“国”と呼びます――と国境を接しています。その三つとは、教理会本律領、イレシア共和国、セリダ公国です」
「そーそー。んで毎年、教理会と共和国と交流イベントがあるの。数年前まではセリダも来てたらしいんだけどね」
鈴音がニャルの言葉を引き取って続ける。
まったく、ゆーゆーはそんなことも知らないんだね、とでも言いたげな笑顔を俺に向けていた。
こいつは喋ってなくても内心がわかりやすくていいな!
「その集まりに希望が行くってこと?」
「そーなんですよ。去年までは、お兄――ちゃんが行ってたんだけど、今年からわたしに行ってくれって」
お兄ちゃん。晴翔さんのことだな。
「共和国は何となくイメージつくけど、教理会って何?」
俺が聞き返すと、希望がスープをかき混ぜながら答える。
「“神聖な理”を信仰する教団領域。魔法と宗教と学術が一体化してるの」
「でも今、内部で改革派と旧守派が揉めてるって聞いたよ? なんか不穏な感じだよね」
鈴音が茶碗を置いて話に加わったそのとき、渚が静かにスプーンを下ろした。
「……だから、失敗は許されないんです」
抑えた声。
けれど、そこにはいつもの温かさとは違う、どこか張り詰めたものがあった。
その一言に、場の空気がふと、わずかに冷える。
「え……ごめん、そんなに深刻な話だった?」
鈴音が戸惑いを隠せないまま、渚に目を向ける。
だが渚は、すぐにいつもの微笑を浮かべて首を横に振った。
「ううん、私こそごめんなさい。ちょっとだけ……考えてたことがあって」
その笑みは、ほんのわずかにぎこちなかった。
「あー、すいません、愚痴っちゃって。面倒な話はここまで! ほら、先輩、スープ冷めちゃうよ?」
希望が両手を叩いて、空気を切り替えようとする。
そして、それに応じるように皆がわずかに笑って――食卓にはまた、さざ波のような穏やかさが戻ってきた。
けれど。
俺の視線の端に映った渚は、どこか遠くを見るような眼をしていた。
眠れねぇ。
中途半端な時間に昼寝したせいだな。
夜風にでもあたるか。
外の空気を吸うために、保養所の裏庭へと出る。
夜空には、見たことのない星座が散らばっていた。
しばらく空を見上げていると、木陰に立つ人影に気づいた。
「渚……?」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返ったが、すぐに微笑んだ。
「悠真くん……どうしたの?」
「変な時間に昼寝したせいで寝つき悪くて。散歩してた」
「そっか。ふふ、わたしも似たようなものかも」
そう言って、渚は少しだけ間を置いた。
「ねえ、悠真くん。もし……もし、自分の存在が“間違いだった”としたら、どうする?」
その問いに、言葉が詰まる。
「……どうしたんだよ、急に」
「ううん。ただ、ふと思っただけ。……わたし、小さいころは“ねーねー”って呼んでたの」
「……誰を?」
「……天璃様を。昔は、もっと普通のお姉ちゃんだったんだよ」
天璃様……。誰だろう。
お姉さん、なのか? お姉さんを、「様」づけ?
渚の少し照れたような笑みの奥に、言葉にならない寂しさが滲んでいるように思えた。
「でも、“天璃様”になってからは、もうずっと……“お姉ちゃん”じゃなくなっちゃった。わたしが、そう呼んじゃいけない空気になったから」
夜風がそっと二人の間をすり抜ける。
「今では、天璃様のそばにいることが、自分の“神聖性”を守るためって思われてる。……だから、わたし自身は、あの世界で少しずつ浮いてるの」
「……浮いてる?」
「“神”のそばにいる人間は、人間じゃなくなるの。同じ“神”でないと許されないの。……ね、悠真くん。異世界人として、少しわかるでしょ?」
そう言った渚の表情には、微笑みの仮面の下に静かな孤独が宿っていた。
「でも……最近は“変えよう”とする人たちもいて。そういうのを見てると、どっちが正しいのか分からなくなる」
彼女は空を見上げながら、ぽつりと続ける。
「正しさって、誰が決めるんだろうね。……“ねーねー”のことも、わたしのことも」
渚は俺の方を見て笑った。
笑ったのに、とてもさみしそうに見えるのは俺の気のせいだろうか。
「でも、悠真くんみたいな人がいてくれたから……少しだけ、救われてる。“あ、お姉ちゃん”って、もう一度呼べる日が来るかもって……そんな気が、ほんの少しだけするの」
その声は、決して涙声ではなかった。
けれど、どこか胸に刺さるような、優しい響きを持っていた。
「……だから、もう少しだけ頑張ってみるんだ」
夜空を見上げながら、渚はそっと目を閉じた。
夜が明けた。
昨日の騒がしさが嘘のように、今朝の食堂の空気は静かだった。
朝の光が木枠の窓から差し込み、湯気の立つスープと焼きたてのパンが並ぶテーブルに、柔らかな影を落としている。
「ねぇねぇ、みんな。今日ちょっと面白い場所があるんだけど、行ってみない?」
希望がパンをかじりながら、突然そんなことを言い出した。
「訓練所じゃないなら行く」
俺が即答すると、鈴音が驚いたように眉を上げた。
「おっ、珍しく乗り気~? ボクとのデートと探索ならどっちがいい?」
「後者一択!」
「え~、つれないなあ、ゆーゆー」
不満顔をする鈴音を横目に、希望が本を取り出して開いた。
「昔、王都研究部が観測してた旧干渉帯研究施設が、この近くにあるんだって。たまたまこの本に載っててさ」
「……干渉帯研究施設? 残っていたんですね」
渚が手を止めて、少しだけ眉をひそめた。
「稼働状態なら危ないかも」
「定期的に王国の調査は入ってるみたい。年一くらいだけど」
「それなら、だいじょーぶなんじゃない?」
鈴音が気楽に言う。
相変わらず防御を考えないやつだぜ。
希望がパンをかじりながら、少し真面目な調子で言った。
「本当にちょっと気になる場所なの。古い資料にも名前が出てたし、微弱だけど今も魔力の反応があるって」
「……事故か何かの記録は?」
渚が問いかけると、希望が本をぱらぱらとめくりながら少し首をかしげた。
「明記されてないけど……封印の再施行が二度、って記録はあった。詳しいことは、現地で確認してみないとわからないかな」
「そんなところ行って大丈夫なのか?」
なんか怖くなってきた。
俺はお前らほど強くないんだぞ。
不安げに周囲を見渡すと、楓と目が合う。
楓が安心してくださいとばかりに力強く頷いた。
本当に頼もしい。
「もちろん。定期的に調査されてるし、せっかく来たんだから、ただの観光よりは絶対に楽しいって」
渚と楓も頷き、それを受けるように鈴音がにかっと笑った。
「じゃあ、みんなで冒険と洒落込もう」
「まあ訓練よりはマシか……」
このメンバーが俺に施す訓練なんて、地獄という言葉すら生ぬるいだろうし。
俺の答えに、希望がいたずらっぽくウィンクした。
「決まりだね、先輩!」
朝食後、保養所の管理人、柏木玄斎さんが食堂の隅でまったりとお茶を淹れていた。
「ふむふむ……今日も良い天気で。絶好の散策日和ですな」
そう呟きながら、縁側で茶を啜る玄斎に、希望が「おはようございます」と声をかけた。
「おぉ姫様、おはようございます。昨日はよくお休みになられましたかな」
「ええ、すっごくぐっすりでした。ここ、気持ちよくて」
「それは何より。……そういえば昨日の朝ですな、晴翔様がちょっとだけこっちの様子を見に来てのぅ。このあたりの干渉帯の安全確認を――」
「――えっ?」
隣で聞いていた希望が、明らかに固まる。
「それは……」
楓も静かに言葉を重ねた。
「――あ、いやいや、昨日じゃなかった、もうちょっと前じゃったかの……年寄りになると日付の感覚がなぁ……はっはっは」
玄斎はひとしきり笑いながらごまかしたが、希望の笑顔はわずかに引きつっていた。
「……そっか。うん、まあ、そういうことにしておこうかな」
「はい……」
楓は希望と顔を見合わせたあと、何も言わず小さく頷いた。




