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31.その火を消させない

門番の火はまだ消えない

最初に後退したのはアダムだった。

細剣を立てた腕が頭上から落ちてきた大剣に押し下げられる。刃が肩へ届く寸前、横から差し込まれたイヴの剣がそれを受け止めた。

二本の剣で支えても止まりきらない。

三人の足元で敷石が沈んだ。


スルト「……二人で支えなきゃいけないんだ」


低く言って大剣を押し込む。

その刃から溢れた黒焔が二人の肩越しに噴き上がった。

赤黒い炎が正門を覆う。

門扉は燃えない。壁も、植え込みも、玄関先に落ちたままの箒も。燃やす相手は決めていた。


スルト「だったら、そのまま」


剣を引く。

支えを失った二人がわずかに前へ傾くその足元へ黒い火が滑り込んだ。


スルト「《黒焔葬列》」


火柱が立つ。一本ではない。

後ろへ退いたアダムの踵に。横へ跳んだイヴの着地点に。その次に選べるわずかな隙間に。

逃げ道をなぞるように赤黒い柱が次々と噴き上がった。

イヴの外套の裾が燃え落ちた。

アダムが細剣で炎を払おうとする。その刃に黒焔が絡みつき手元へ這い上がる。

その一瞬をスルトは逃さなかった。

踏み込む。

アダムの剣を大剣の腹で叩き流れた身体ごと蹴り飛ばす。

続けて振り向き迫っていたイヴの大剣へ自分の刃を叩きつけた。

鋭い破砕音。イヴの剣から刃の一部が弾け飛んだ。

二人が初めて左右へ離れる。スルトは追った。

考えるより先に身体が動いている。

けれど狙いは乱れていなかった。

セナの頬を拭いたときと同じ手で剣を握っている。

あの子に触れた指先の冷たさがまだ残っていた。


スルト「そこから動くな」


左右から伸ばした炎を閉じる。

二人の姿が黒い火の中へ沈んだ。

窓の硝子が震える。

城を焼かないよう絞り込まれた熱が囲いの内側へ集中していく。敷石の目地を走った火は逃げる隙間を残さず重なった。

この中で立っていられるものなどほとんどいない。

スルトはそれを知っている。知っているからこそ。

炎の向こうから靴音がしたとき一瞬だけ剣を握る指に力が入った。


アダム「……温かいですね」


黒い火の中から銀髪の男が歩いてくる。

外套には焦げ跡がある。袖も裂けている。

けれどその下の肌に火傷がない。


イヴ「ええ。これほどまでに」


もう一人も反対側から現れた。

彼女が炎に触れる直前。

胸元で細い光が一度だけ走った。

黒焔の先端がそこだけ崩れる。

スルトは目を細めた。

消えた火へ魔力を送り直す。残った火種からさらに強い炎を立ち上げる。同じ場所で消えた。


アダム「それでも」

イヴ「足りないようです」


スルト「……まだ、何も終わってない」


炎を大剣へ戻す。火が届かないなら刃を届かせる。

スルトは姿勢を低くしアダムの膝を狙って薙いだ。

細剣が下がる。その位置が早すぎた。

こちらが振り始める前からそこへ置くと決めていたような角度だった。

鋼が噛み合う。

スルトは手首を返し刃を滑らせて喉へ跳ね上げた。

アダムが首を引き同時に背後から風が来た。

スルトは身体を捻った。

イヴの大剣が脇を通り抜け肩の布を裂く。

浅い。まだ動く。

振り向きざまに肘を打ち込みイヴを押し返す。踏み込んできたアダムへ足元から火柱を突き上げる。

また胸元で光が走った。

火柱の中心だけが空洞になる。

その中を細剣が通った。


スルト「っ……!」


脇腹に熱いものが走る。

一歩退いた。そこへイヴがいた。

大剣を受け止めた腕が痺れた。支えた足が敷石を削り身体が後ろへ押し流される。

剣の重さだけではない。

踏み込むたびに相手の力がこちらの受け方へぴたりと合ってくる。

押し返そうとした瞬間にはもう角度を変えられていた。

スルトは自分から剣を外した。

肩を入れイヴの懐へ潜り膝を打ち込む。

確かな手応え。

けれど相手は息を詰まらせることさえしなかった。


イヴ「そこは」

アダム「もう空いています」


肩に衝撃。スルトの身体が横へ流れた。

足を踏ん張ったその膝を細剣が掠め力が抜けた。

倒れかけた身体を大剣の切っ先で支える。

刃が石を擦る音がした。自分の呼吸がやけに大きい。

さっきまで一度も気にならなかった音だった。



遠く城の外廊下でヴァルアスは手すりを握り締めていた。


ヴァルアス「……嘘だ」


門前を包んだ黒焔を見た瞬間過去の光景が蘇った。

整然と並んでいた兵。帝国の旗。号令。

それらを一撃で呑み込んだ赤黒い炎。

あの女は息を切らすことすらなかった。

こちらを誇るでもなく勝利に酔うでもなく。

ただ門を守る仕事の一つを終えたように剣を下ろしていた。


ヴァルアス「スルトは……我が軍を、あの炎の一撃だけで葬った女だぞ……」


その女が膝をついている。

立ち上がるたびに傷を増やしている。


ヴァルアス「……あんなに、いとも容易く……」


期待していたはずだった。葬月に対抗できる力を。

もう一度あの者たちへ顔を上げられるだけの可能性を。

それが今目の前にある。

なのに手すりを握った指の震えが止まらない。


ヴァルアス「……ブレンダ」


振り返る。いつもなら呼べばそこにいた。

自分より背筋を伸ばし自分より迷いなく前を見ているあの将軍が今はいない。


ヴァルアス「……どこに、おるのだ」


廊下の奥から返事はなかった。





スルトは右脚を引いた。

思った場所まで足が来ない。

膝から下がひどく重かった。歩幅を狭くする。

傷のある脇腹を庇わないようにする。

庇えばそこを狙われる。分かっている。

分かっているのに身体が勝手に縮こまろうとした。

痛い。動けば痛い。息を吸っても吐いても痛い。


――あの子も。


ふとセナの姿が重なった。街の人に肩を借りて。

片脚を引きずって。

ずれた目隠しを直す余裕さえなくそれでも顔を上げたあの姿。

今の自分は...考えたくなかった。

似ていると思いたくなかった。

それでも大剣を支えに立つ自分の手があのときのセナの手に見えた。


スルト「……この痛みに」


声が漏れる。


スルト「耐えて、来たんだ」


こんな状態で。

次の一歩を出せるかも分からない身体で。

追いつかれたら殺されるかもしれないと知りながら自分たちに会うために。

スルトの背後で火が膨れ上がった。

痛みと一緒に込み上げてきた恐怖をようやく認めた。

次の剣が怖い。立てなくなるのが怖い。

ここで終わってしまうのが怖い。

あの子もこの気持ちを抱えていたのか。

それなのに自分たちの顔を見て。

休暇は楽しかったかと、聞いたのか。


スルト「……よくも」


大剣を持ち上げる。柄を握る手が滑り握り直す。


スルト「よくも、あの子に……!」


炎が空へ伸びた。

門の高さを越え塔の影を赤く染める。

それでも城の花壇には燃え移らない。

玄関先の箒も、倒れた鉢も、そのままだ。

スルトはまだ守っていた。

これほど怒っていても。こんなに痛くても。

帰ってくる仲間の家を焼かなかった。


アダム「まだ、立たれるのですね」


スルト「……当たり前」


イヴ「苦しいでしょうに」


スルト「お前たちがここにいるから」


足元の炎を噴き上げる。

傷ついた脚の代わりにその勢いで身体を前へ運んだ。

大剣へすべての黒焔が集まっていく。

刃の輪郭が見えなくなるほど濃く。

小さく。重く。


スルト「《終焔断ち》」


振り下ろした。イヴが大剣を掲げる。

ぶつかった瞬間先ほど欠けた刃から亀裂が伸びた。

初めてイヴの膝が沈む。

その足元を斬撃が通り抜け背後の地面へ火種が刻まれた。

直後。巨大な炎の刃が二人の足元から噴き上がる。

前も後ろも上もない。その中心に二人を捉えた。

スルトは歯を食いしばった。

もう一押し。あと一押しだけで。

炎の中で二つの光が重なった。

刃の形をした黒焔が二人の身体に沿って裂ける。

そこだけがぽっかりと抜け落ちた。


スルト「……なん、で」


アダムの細剣が大剣の鍔へ絡んだ。

傷ついた肩を正確に押し上げられる。

腕が上がる。脇が空く。

イヴが一歩踏み込んだ。

スルトにはその一歩が見えていた。

剣が来るのも分かった。避けようとしたが足が動かなかった。

重い衝撃が身体の奥まで抜け音が遠くなる。

自分が飛ばされたのだと気づいたのは背中が敷石へ叩きつけられてからだった。

大剣が手を離れた。何度か跳ねて門の脇で止まる。

炎がほどけた。

空へ伸びていた黒焔が細い火の粉になって落ちてくる。

スルトは息を吸おうとしたがうまく入らない。

胸が小さく上下するだけだった。


スルト「あぁ……久しぶりに……痛い」


声にしたら少しだけ実感が湧いた。

自分は負けたのだ。最強と呼ばれる側にいた。

それに相応しいだけの戦いをしてきた。

今日もそうするつもりだった。

けれどそんなことは何の支えにもならなかった。

目の前の二人へ届く力が足りなかった。


アダム「もう」

イヴ「お休みください」


靴音が近づく。

スルトは火を灯そうとした。

指先に小さな黒焔が生まれすぐに揺らいだ。

それでも消すまいとした。

もう少し。皆が帰ってくるまで。せめてそれまで。





俺たちが辿り着いたとき。

門の前にスルトが倒れていた。

一瞬何を見ているのか分からなかった。

さっきまで一緒にいた奴が帰る家の前で倒れていた。

イヴが剣を上げる。

俺の鎖がその腕へ絡みついた。

振り下ろされる寸前で刃が止まる。


咎人「そこから離れろ」


引いた。

イヴの身体がアダムごと後ろへ流れる。その二人を横から走った青い音の壁が押し返した。


ロゼリオ「《反響防壁》」


いつもの華やかな声ではなかった。

短く低い。

地面を滑った二人とスルトの間へ青い波形が幾重にも立ち上がった。

俺はスルトの傍へ膝をついた。


咎人「スルト」


返事がない。


咎人「スルト。聞こえるか」


瞼がわずかに動いた。


スルト「……帰って……」


咎人「ああ。帰ってきた」


自分の外套を脱いでその身体へ被せる。

傷を見る。見たくないと思った。

けれど目を逸らすな。今逸らしてどうする。


咎人「ローデリヒ。ここを押さえろ。シグ、止血できるものを全部出せ。紫苑は城から離れる方へは繋げられるか」


紫苑「はい……!こちら側でしたら!」


咎人「退路を確保しろ。全員単独で前へ出るな」


鎖を敷石へ打ち込み俺たちの周囲に巡らせる。

スルトを支えたローデリヒの手が一度だけ震えた。


ローデリヒ「……スルト」


声が普段より低い。


スルト「……ごめ……」


ローデリヒ「喋るな」


きつい言い方だった。

けれど身体を支える腕は驚くほど慎重だった。


ローデリヒ「謝らなくていい。だから今は喋るな」


スルトの指が何かを探すように動いた。

俺はその手を握った。熱いはずの手が冷たかった。


咎人「剣は後で拾う。今はこっちを掴んでろ」


弱い力が指へ返ってきた。

それだけで息が詰まりそうになった。

ロゼリオがスルトの顔にかかった髪を払う。


ロゼリオ「アタシの声、聞こえる?」


かすかに瞼が動く。


ロゼリオ「いい子。返事はしなくていいわ。そのまま聞いてて。……勝手に最後の曲にしないのよ」


マイクを握る手には白くなるほど力が入っていた。

青い防壁の向こうで二人が並び直した。

銀色の髪。傷のない顔。焦げた服。欠けた剣。

あいつらか。セナが言っていた二人組。

ローデリヒがゆっくり顔を上げた。


ローデリヒ「……てめぇらか」


手当てに必要な指示だけを短く伝えスルトの身体を仲間へ託す。

立ち上がったときには執事の顔が消えていた。


ローデリヒ「俺の仲間を傷つけた奴は」


アダム「あなたも」

イヴ「ここの方なのですね」


ローデリヒ「答えなくていい。もう分かった」


ローデリヒの杖が鳴った。

鞘の中から現れた刃をいつもより低い位置で握る。


ローデリヒ「外の連中に頭を下げるのは主の顔を立てるためだ。てめぇらを敬っているからじゃねえ」


狼の耳が低く伏せられる。


ローデリヒ「王だろうが神の使いだろうが俺には同じだ。主の客でなけりゃ門の外で待たせるだけの連中だ」


声がさらに低くなった。


ローデリヒ「そんなてめぇらが……俺の部下を殺して今度は相棒まで踏みつけたのか」


足元の石が靴の下で割れた。


ローデリヒ「勘違いすんなよ。うちの者が頭を下げるのは、てめぇらより下にいるからじゃねえ。帰ってきた仲間に胸を張れる仕事をするためだ」


ロゼリオも立ち上がった。いつもなら杖を回す。

肩を揺らす。

こちらの緊張を解くように何か一言冗談を添える。

何もしなかった。

スルトの血で汚れた指を一度見ただけだった。


ロゼリオ「……さすがにね。アタシもこれは見逃せないわ」


二人へ向き直る。


ロゼリオ「アタシも、こう見えて葬月の一員だもの。仲間がこんなにやられて黙っていられるほど強くないのよ」


声が震えた。それを隠そうとはしなかった。


ロゼリオ「それを我慢できるのが強いって言うなら……アタシ、そんなふうに強くなりたくないわ」


マイクの先に青い光が集まる。


ロゼリオ「この子ね。寒い日に何も言わず廊下を暖めてくれるの。誰かに褒めてほしくてやってるわけでもないから、いつも同じ顔してるのよ」


スルトの方は見なかった。

見たら声が出なくなるのかもしれなかった。


ロゼリオ「アンタたちには、その火が邪魔だったのね」


二人が一歩進む。ローデリヒの踵が浮いた。

ロゼリオが息を吸った。

その二人の間を気怠げな声が通った。


華蓮「あんたらは下がっとき」


華蓮だった。

肩の力を抜いたまま二人の前へ出る。


ローデリヒ「……退いてください...」


華蓮「退かへんよ」


ロゼリオ「華蓮ちゃん。今、アタシ――」


華蓮「分かっとる」


短く遮った。

華蓮の視線はもう敵を見ていた。


華蓮「せやけど二人とも今、顔しか見てへんやろ」


ローデリヒの指が止まる。


華蓮「憎い顔に目ぇ奪われたら足が見えん。刃が見えん。その後ろで待っとるもんまで見落とす」


アダムの細剣がわずかに下がった。

イヴの爪先が外を向く。二人で同じ隙間を空けた。


華蓮「ほら。今そこへ来い言うてる」


ローデリヒが奥歯を噛み締めた。

華蓮はほんの少しだけ振り返った。


華蓮「怒りは持っとき。捨てんでええ。ただ目ぇまで渡したらあかん」


そしてスルトを見る。

被せられた外套。弱く握られた俺の手。

そこへ一度だけ視線を落としてから再び前を向いた。


華蓮「……咎人はん。その子頼むわ」


咎人「ああ」


それ以上言う必要はなかった。

俺はスルトを支え直した。

ローデリヒの拳が一度きつく握られる。

けれど戻ってきた。スルトの傍へ。

その場に膝をついてもう一度止血の布を押さえた。


ローデリヒ「……俺は、ここにいる」


誰に聞かせるためでもない声だった。

ロゼリオは防壁を後ろへ広げ俺たちを覆った。

前に残ったのは華蓮一人。


アダム「次は」

イヴ「あなたが」


華蓮「せや。わっちが相手したるわ」


腕と脚の紋様に紫の光が灯る。

溢れかけた魔力が肌へ吸い戻されるように細くなった。


《覇魔纏身》。


華蓮は指を軽く開き閉じた。


華蓮「スルトが削ってくれたお陰で、やりやすぅなっとる」


その言葉にイヴの視線がわずかに動く。

欠けた大剣の刃へ。

アダムが踏み込んだ。速い。

細剣が華蓮の喉へ一直線に走る。

華蓮は半歩も退かなかった。身体を薄くする。

刃が髪の横を抜けた瞬間その肘へ指先を添えた。

押したのはほんの少し。けれど剣先が大きく逸れた。

その先へイヴの大剣が振り下ろされ二本の刃がぶつかった。

イヴが瞬時に角度を変え味方の剣を避けようとする。

華蓮の足が先に動いていた。

踵でイヴの前足を押す。

踏ん張る位置をわずかにずらす。

崩れた体勢で受けた剣の衝撃が欠けた刃へ集中した。

スルトが残した傷から亀裂が走る。


華蓮「……ここやね」


剣の欠片が弾けた。

その落ちる音より早く華蓮の掌がアダムの胸へ触れる。


華蓮「《零間掌》」


振りかぶらない。声も張らない。

ただ触れた一点で紫の光が消えた。


次の瞬間。アダムの身体が背後へ跳んだ。

靴底が敷石を削り長い溝を二本残す。

イヴが支えに入る。

その腕へ衝撃が伝わり二人揃って門柱の手前まで押し戻された。

初めて二人の足音が揃わなかった。

華蓮は追わなかった。

スルトへ通じる道を塞いだままゆっくり手を下ろす。


華蓮「よそ見したらあかんよ」


二人が顔を上げる。


華蓮「今、相手しとるんはわっちや」


アダムの唇に細い血の筋があった。

イヴは折れた刃を一瞥し剣を持ち直した。

笑わない。怯まない。また並ぶ。

華蓮の口元がわずかに上がった。

目は笑っていなかった。


華蓮「久しぶりに暴れたいしなぁ。簡単に壊れてくれんなや?」


紫の光が足元で揺れる。

その横にはまだ小さな黒焔が残っていた。

スルトが最後まで消さなかった火。

華蓮はそれを踏まない場所へ静かに足を置いた。


華蓮「……わっちも、よう腹立っとる」


構えが小さくなる。


華蓮「せやから、一発も雑には殴らへんよ」

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