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29.まだ剣を置けない

母さん「――あんた!」


通りの向こうに見慣れた姿を見つけた。

いつもならあっちが先に気づく。

師匠!師匠!と大きな声を出してこっちへ走ってくる。

けれど今日は呼んでもすぐには顔が上がらなかった。

もう一度呼ぶとようやく足を止める。


山賊「……師匠」


母さん「何してたんだい。なかなか帰ってこないから捜しに来ちゃったよ」


山賊「あ……すんません」


近づいて顔を見る。疲れている。

ただ歩き回っただけの疲れ方じゃない。

目の下に力がなくて、口元だけが笑おうとしている。


母さん「……あんた、具合でも悪いのかい?」


山賊「いえ。大丈夫っす」


母さん「大丈夫って顔じゃないよ」


手を伸ばすとあの子の肩が小さく跳ねた。

それが少し気になった。

額に触れる。熱はない。けれど汗が冷たい。


母さん「どこかで転んだ?誰かと喧嘩でもしたんじゃないだろうね」


山賊「して、ないです」


妙な間があった。

あたしは手を下ろして少し声を落とす。


母さん「何かあったなら、話してごらん」


山賊「……」


あの子はあたしを見た。

何か言おうとして唇が動く。

けれど言葉にならなかった。


ヴァルアス「無理に立たせておくこともありますまい。そこの店で少し休ませては」


横から声がするとあの子は初めてヴァルアスに気づいたらしい。


山賊「あれ……陛下?」


ヴァルアス「偶然お会いしてな。お前を捜すのを手伝っておった」


山賊「……そう、だったんすか」


母さん「とにかく座ろうか。水でも飲んで――」


山賊「見つかったんです!」


急に大きな声が出た。

道を歩いていた人が何人か振り返る。

あの子も自分の声に驚いたように一度口を閉じた。

それから今度こそ笑った。

ずいぶん頑張って作った笑い方だった。


山賊「師匠。俺、見つけたんすよ。いい場所を」


母さん「場所?」


山賊「帰る場所です。師匠が毎回宿を探さなくてもいいように。毎晩同じ枕で寝られるように」


あたしは少し黙った。今朝の話を覚えていたのか。


山賊「すげえとこなんです。台所も庭もあって。部屋もいっぱいあって……剣も好きなだけ置けます」


母さん「そんな場所を?お金はどうしたんだい」


山賊「貸して、もらえることになりまして」


母さん「誰に?」


山賊「……神様の、お使いだって人たちに」


ヴァルアスがわずかに眉を動かした。

あの子はこっちが次のことを聞く前に続けた。


山賊「ちゃんと会わせます。師匠が嫌なら無理に住まなくてもいいです。ただまず見てほしくて!」


声だけはいつもの元気が戻っていた。

でも握った手が開かない。

あたしはその手を見てから顔へ視線を戻した。


母さん「……あんたが、あたしのために探してくれたのかい」


山賊「はい」


母さん「それは、ありがとうね」


あの子の顔が少し歪んだ。

喜んだというには苦しそうだった。


母さん「じゃあ話を聞きに行こうか。ただし、変な約束をしてきたならちゃんと言うんだよ」


山賊「……分かって、ます」


母さん「それから」


あたしはあの子の肩を軽く叩いた。


母さん「今からそんなに頑張って笑わなくても、あんたのしてくれたことは聞くからね」


山賊は一度うつむいた。それから前を向いた。


山賊「……こっちです。案内します」



城だった。

家を探してきたと言うから家を見に来たつもりだった。

ところが木立を抜けた先に現れたのはどう見たって城だった。


母さん「……あんた。家って言わなかったかい?」


山賊「住めるんで……家ではあるかと」


母さん「屋根があれば同じってもんじゃないだろう」


窓を数えようとして途中でやめた。

こんなの朝から掃除を始めても日が暮れるまでに終わりゃしない。


母さん「こんな広いところ、あたし一人でどうするんだい」


山賊「俺も……その、お手伝いしますから」


母さん「あんたを一日中雑巾がけさせるために来たわけじゃないよ」


そう言って振り向いたとき。

後ろのヴァルアスが止まっていた。

帽子のつばをつかんだまま城を見上げている。

顔色がさっきまでとまるで違った。


母さん「どうしたんだい?」


返事がない。唇が少し震えている。

それから隣にいた山賊の腕をつかんだ。


ヴァルアス「貴様……ここが、何の城か分かっているのか……?」


山賊「え?」


ヴァルアス「分かって連れてきたのかと聞いておる……!」


山賊「いや、その……師匠に休んでもらう城で……」


ヴァルアス「我が最も見たくない城だ!ひぃいいいい!!」


いきなり叫んで来た道へ向き直った。

供の者たちが慌てて追いかける。


母さん「ちょっとあんた!どうしたんだい!」


ヴァルアスは数歩進んだところでぴたりと止まった。

片足が半端に浮いている。そのまま動かなくなった。



――待て。待て待て待て。落ち着け我。

逃げるのはいつでもできる。

いや、できるうちに逃げるべきではある。だが。

我はゆっくりと振り返った。

そこに立っている女を見る。

馬鹿げた剣を当たり前のように持っている。

帝国の城を吹き飛ばし我の攻撃を意にも介さず、最後には謝りながら我の威厳を頭から飛ばしていった女だ。


……強い。とてつもなく強い。

常識も加減も何もかもが馬鹿げている。

ならば。もしかしたら。


ヴァルアス「……ワンチャン、あるのではないか?」


供の兵「陛下?」


ヴァルアス「黙っておれ。今我は極めて重要な判断をしておる」


あの咎人を。

あの気取った言葉を延々と並べる腹立たしいほど強い男を。

この女ならやっつけてしまうのではないか?

我はすべてを奪われた。

軍も。城も。皇帝として築いてきたものも。

最後まで隠しておきたかったものまで。

奪ったのは咎人とこの女だ。


……改心はした。

奪われた側のことを考えろと言われれば今なら少しは分かる。

だから土地を返し、人を解放し、これ以上奪うこともやめた。


だが根に持っていないかと問われれば持っているに決まっておるだろうが。

簡単に消えるものではない。

消してよいものでもないはずだ。少なくとも。

二度と同じ目に遭わぬためにこの恐怖は覚えておかねばならん。

その恐怖を取り除ける相手が今目の前にいる。


ヴァルアス「……賭けてみるか」


我は浮かせていた足を下ろした。

道の先ではなく城のほうへ。

もし外れたらそのときはそのときだ。


……そう思った直後に供の兵へ小声で伝えた。


ヴァルアス「馬は、すぐ乗れるようにしておけ」


覚悟と準備は別の話である。



門の前には銀髪の男女が並んでいた。

男は赤黒い外套。女は黒紫の装い。

二人ともひどく静かな顔をしている。

山賊が紹介すると同時に頭を下げた。


アダム「お待ちしておりました」

イヴ「お疲れでしょう。お部屋へご案内します」


母さん「その前にお話を聞きたいんだけどねぇ。本当にこんな場所を借りていいのかい?」


アダム「勇者として招かれたあなたを」

イヴ「支援することも我々の務めです」

二人「どうぞお気遣いなく」


母さん「そう言われても気にはするよ。あとから払えないものを請求されても困るからね」


イヴ「金銭をいただくことはありません」

アダム「まずはお確かめください。お気に召さなければ別の場所も検討いたします」


女はしばらく二人を見ていた。

それから隣の山賊へ目を向ける。


母さん「……じゃあ少し休ませてもらおうか。この子も疲れてるみたいだし」


山賊「俺は大丈夫です」


母さん「それ、今日はもう聞いたよ」


二人が先へ立つ。女がそのあとへ続いた。

我は山賊の襟首をつかみ引き止めた。


母さん「どうかしたかい?」


ヴァルアス「少々この者に確認を。勇者殿は先にお休みください」


女は少し迷ったようだった。


母さん「……あんたも、話が済んだら休むんだよ」


山賊「はい」


母さん「あとで、ちゃんと話をしようね」


山賊は返事をせず頭を下げた。

女と銀髪の二人が廊下の向こうへ消える。

そこでようやく我は声を落とした。


ヴァルアス「ここは...葬月の城だ」


山賊の顔から残っていた色まで消えた。


山賊「……そう、げつ?」


ヴァルアス「あの咎人の居城だ。お前は奴の家の椅子を借りて茶でも飲むつもりで連れてきたのか?」


山賊「……知ら、なかったっす」


その声は嘘には聞こえなかった。

だとすればなおさら恐ろしい。

あの銀髪の二人は何を考えている?


ヴァルアス「持ち主への話はついておるのか」


山賊「……」


ヴァルアス「おい」


山賊「二人が……大丈夫だって」


答えになっておらん。

だが我がさらに問い詰めようとしたところで廊下の奥から足音が戻ってきた。

二人分のはずが一つに聞こえる。


アダム「勇者様はお休みになられます」

イヴ「お連れの方々のことをよろしくと」


我は二人を見た。


ヴァルアス「……ここの持ち主が戻った場合どうするつもりだ」


アダム「お迎えします」


イヴ「そのための準備は進めています」


ヴァルアス「迎えるだけで済む相手ではないぞ」


二人「承知しております」


迷いがない。虚勢にも見えぬ。

山賊へ目を向けると男は二人を見ないようにうつむいていた。

我は決めた。


ヴァルアス「……我にも、動かせる者が少しは残っておる。周囲の警戒に回そう」


アダム「ご協力に」

イヴ「感謝いたします」

二人「あなたもここに留まられるのですね」


妙な言い方だった。

兵を出すことより我が残ることを確かめているように聞こえた。


ヴァルアス「……勇者殿を、一人にはしておけまい」


口に出すとずいぶん立派な理由になった。

山賊は何も言わなかった。


呼び寄せた兵が到着したのはしばらく経ってからだった。

数は多くない。

かつての帝国なら門の警備に置く人数にも満たぬ。

それでも我の呼びかけに応じて来た者たちだった。

その先頭に来るよう命じていない姿があった。


ヴァルアス「……ブレンダ」


ブレンダ「遅くなりました、陛下」


ヴァルアス「お前まで来いとは言っておらん」


ブレンダ「葬月の者たちが戻ると聞きましたので」


顔を上げる。

仮面の奥の目は城の内部を見据えていた。


ブレンダ「居ても立ってもいられず、参りました」


その声は静かだった。

だが剣の柄に添えた指は強く握り込まれている。


ヴァルアス「……復讐か」


ブレンダ「そう呼ばれても、否定はいたしません」


ヴァルアス「前に何があったか、忘れたわけではあるまい」


ブレンダ「一瞬たりとも」


即答だった。


ブレンダ「剣を振ればあの男に流された軌道を思い出します。目を閉じれば最後に奪われた光が蘇る」


彼女は自分の手を見た。


ブレンダ「私は、あの戦いを終えられておりません」


ヴァルアス「戦いは終わった。我らは負けたのだ」


ブレンダ「はい。敗れた事実は変わりません」


その目が我へ向く。


ブレンダ「ですが、その次まであの男に決めさせるつもりはありません」


……以前の彼女なら勝つと言っただろう。

今度こそ打ち倒すと。

己が帝国最強であることを疑わず剣を抜いたはずだ。

今回は違った。


ブレンダ「今の私では届かない。それも理解しております」


ヴァルアス「ならば――」


ブレンダ「だからこそ、ここへ来ました」


その言葉に別の声が重なった。


アダム「届かないことを」

イヴ「理解されているのですね」


いつからいたのか。

二人が広間の入口に並んで立っていた。

ブレンダの目が細くなる。


ブレンダ「……何者だ」


アダム「あなたの不足を」

イヴ「補える者です」

二人「その剣に、もう一度の機会を差し上げられます」


ヴァルアス「待て」


我は二人とブレンダの間へ入った。


ヴァルアス「何を持ちかけるつもりだ」


アダム「力を」

イヴ「彼女が求めているものを」


ブレンダ「……強くなれる、と?」


二人「ええ」


二つの声が同じ高さで響く。


アダム「今の肉体が許す範囲を越えて」

イヴ「今までの鍛錬では届かなかった場所へ」


ブレンダはすぐには答えなかった。

二人の剣を見る。顔を見る。

最後に自分の掌へ目を落とした。


ブレンダ「……何をすればいい」


ヴァルアス「ブレンダ」


ブレンダ「まだ、受けるとは申しておりません」


我にそう答えてから二人へ向き直る。


ブレンダ「都合のよい力が何の代償もなく手に入るとは思っていない。条件を話せ」


イヴ「苦痛を伴います」

アダム「変化も伴います」

イヴ「それまでのご自身へ戻れるとはお約束できません」


ヴァルアス「聞いたな。話は終わりだ」


だがブレンダは動かなかった。


ブレンダ「勝てるのか」


二人がわずかに首を傾けた。


アダム「勝利はお約束しません」

イヴ「お渡しするのは戦うための力です」

アダム「その力で何を成すかは」

イヴ「あなたがお決めください」

二人「刃を握るのはあなたです」


ブレンダの呼吸が一度だけ深くなった。

我はその音を聞いて嫌な予感がした。

この女は勝てると断言されていたら疑ったかもしれぬ。

責任をすべて相手へ預けるような話なら退けたかもしれぬ。


だが剣を握るのは自分だと言われた。

それが彼女には都合がよすぎた。


ブレンダ「……なるほど」


ヴァルアス「納得するな!」


思わず声が大きくなった。兵たちがこちらを見る。

構うものか。


ヴァルアス「我が頼んだのは警戒と援護だ!お前を得体の知れぬものに変えることではない!」


ブレンダ「陛下」


ヴァルアス「一度負けた!それがどうした!生きて戻ったではないか!剣もある、腕もある!もう一度鍛えればよいだろう!」


ブレンダの指が大剣の柄へ触れた。


ブレンダ「……鍛えれば届く距離だったなら、そうしておりました」


静かな返事だった。

怒鳴り返されるよりずっと重かった。


ブレンダ「私は、あの男に何度も斬りかかりました。積み重ねたものをすべて使った」


彼女の目がわずかに伏せられる。


ブレンダ「そのすべてを、あの男は自分の選んだ終わりの時刻まで受け流していた」


広間が静かになった。


ブレンダ「私が命を懸けていた時間は、あの男にとって、まだ始まりですらなかったのです」


我は言葉を失った。覚えている。

あの旋律。咎人の顔。

こちらが必死で抗っている間も何かを待つように笑っていた。


ブレンダ「……あの距離を、知ってしまった」


ヴァルアス「だからといってお前自身を失ってよい理由にはならん」


ブレンダが我を見た。

少しだけ驚いたような目だった。

我はその腕をつかんだ。


ヴァルアス「負けたお前でも、我は連れて帰った」


指へ力を込める。


ヴァルアス「強くなるために、我が連れて帰れぬものになるな」


ブレンダはしばらく何も言わなかった。

それからゆっくりと片膝をついた。

かつて何度も見た臣下の礼だった。


ブレンダ「……そのお言葉、忘れません」


ヴァルアス「ならば」


ブレンダ「ですが、剣を置く理由にはできません」


彼女は我の手を自分の腕から外した。

乱暴ではなかった。だからこそ止められなかった。


ブレンダ「たとえこの身が滅びようと、敗北したあの瞬間を、私の最後にはいたしません」


顔を上げる。


ブレンダ「届かなかった刃をもう一度振るう。それが私の選んだ道です」


ヴァルアス「……ブレンダ」


ブレンダ「どうか、この選択まで陛下の責任になさらないでください」


立ち上がった彼女はもう我を見なかった。

二人の前へ進む。


ブレンダ「力を寄越せ」


アダム「ご意思は」

イヴ「変わりませんね」


ブレンダ「二度言わせるな」


二人が同時に頭を下げた。

喜んだようには見えなかった。

ただ待っていた言葉を受け取ったように。


二人「では、あなたの名を」


ブレンダ「……ブレンダ」


イヴ「もう一度」

アダム「ご自身の意思であることが届くように」


誰に。

我が尋ねる前に彼女が答えた。


ブレンダ「我が名はブレンダ。この剣とこの身をもって、再び頂に挑む者だ」


二人の足元へ細い光が走った。

見慣れぬ紋様が床を静かに広がっていく。

中心に立つブレンダの白髪が風もないのに浮いた。

彼女が歯を食いしばる。膝がわずかに曲がった。

それでも倒れなかった。


ヴァルアス「やめろ……!」


踏み出そうとした我を二人が同時に見た。


アダム「今はお近づきにならないほうが」

イヴ「彼女のためです」


その向こうでブレンダが自分の胸元をつかんだ。

息が詰まるような音。握った拳が震えている。

我は叫ぼうとした。

名を呼んでもう一度止めようとした。

その直前。


ブレンダ「……は」


声が漏れた。痛みに耐える声だと思った。違った。


ブレンダ「は、はは……」


彼女は笑っていた。顔を伏せたまま。

苦しそうに肩を揺らしながら。

それでも確かに笑っていた。


ブレンダ「……そうか」


剣を握る手に力がこもる。


ブレンダ「まだ……上がるのか……!」


我の知っているブレンダはそんな声で笑わなかった。

アダムとイヴが彼女を見つめる。

そしてまったく同じ動きでうなずいた。


二人「ええ。まだ始まったばかりです」

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