20.願わぬ再開
母さん「あんた……もしかして」
俺の喉がひゅっと鳴った。
まずい。その目はまずい。
記憶の中にある顔と目の前の顔を重ねようとしている。
何か一つ引っかかるものを探している。
今ここでいつもの呼び方をされたら。
母さん「――っ!」
母さんの顔が横へ向いた。黒い釘が飛んできていた。
俺ではなく窓の向こうで身を寄せている乗客へ。
魔剣が動く。
刃の腹で弾かれた釘が誰にも触れずに地面へ突き刺さった。
母さん「まだやるのかい、この……!」
母さんが外へ向き直る。助かった。
いや全然助かってはいない。今まさに襲われている。
ただ別の意味で本当に助かった。
そのとき車内の空間へ紫の線が走った。
縦に伸びた線がゆっくりと開く。
向こうに見えたのは平らな地面だった。
傾いていない。釘も飛んでいない。ちゃんと人が立てる場所。
そして。
紫苑「皆様、その場でお待ちください!こちらに避難路を――」
Φ「見つけたぁ!」
紫苑より先に小さな影が飛び出してきた。
Φが俺の胸へ飛びつく。
咎人「うおっ!?」
コートの裾へ触手まで巻きつきしっかりと掴まれた。
Φは顔を寄せ俺にだけ聞こえる声で笑った。
Φ「知らない人たちまで守ってて、かっこいい♡」
……今それ言うか。
紫苑「なりません!今はそんなことをしている場合では――!」
頬を赤くしながら注意している紫苑の後ろからシェンリィが現れる。
続いてヴァレリア。鵲。
最後には見覚えのある山賊までいた。
山賊「歩ける奴はこっちだ!足元見ろよ、慌てんな!歩けねぇ奴は俺を呼べ!」
大きな声が車内を通る。それに乗客たちの顔が上がった。
ヴァレリアが傾いた通路へ踏み込み動けなくなっていた男性へ手を伸ばす。
ヴァレリア「肩を借りたまえ。荷物は後でいい」
鵲「出口の先は安全です。お子様連れの方から順にお進みください」
紫苑の刀が裂け目の縁をなぞる。
通路と避難先の高さが揃った。
それだけで乗客が一人、自分の足で向こうへ渡れた。
もう一人。さらに一人。
……ああ。なんか。
こいつらの顔を見たら安心した。
俺たちは間違った手を選んだわけじゃない。
あの場でできる最善をその都度選んだ。
攻撃を止め、車両を支え、誰も落とさなかった。
足りなかったのは人数だ。
守る手。運ぶ手。壊れた場所を押さえる手。
もっと連れてくればベルベットにあんな無茶をさせずに済んだ。
その後悔を飲み込み俺はΦの肩へ手を置いた。
咎人「頼みがある」
Φ「なぁに?」
咎人「向こうの人たちを手伝ってくれ。俺も早く手を空けたい」
Φは乗客へ目を向けた。
それからするりと俺から離れる。
Φ「いいよ。あとでちゃんと褒めてね」
伸びた触手が通路に落ちていた鞄を拾い上げる。
別の一本が手すりへ巻きつき崩れた段差を渡るための支えになった。
ベルベットの光が一本ずつ消えていった。
最後の赤い線が途切れたとき彼の肩が僅かに下がる。
顔は俯いたままで髪に隠れてよく見えなかった。
ベルベット「ちっ……来んなら、最初から来いや……」
掠れた声だった。
ベルベット「無駄にカッコつけるとこだったじゃねえか……」
ニルカが彼の左側へ寄った。
焼けた腕に触れないよう一度手を迷わせてから無傷の袖を掴む。
ニルカ「ベルベット。無事。死なない」
ベルベット「あんなので死なねぇよ、俺ぁ」
ニルカ「……うん」
ベルベット「信じてねぇ顔すんな」
そう言うくせに彼は差し出された肩を振り払わなかった。
俺は二人を見て一度だけ深く息を吐いた。
説教は後だ。全員で帰ってからいくらでもできる。
外で縄の切れる音がした。
藁人形の頭がこちらへ傾く。
白い布袋に縫われた笑顔。
その額から頭頂部にかけて長い縫い目が開いていった。
中から人の手が出た。次に肩。
灰色の外套を着た男が藁の頭の上へ身を起こす。
帽子を外し乱れた髪を整えた。
ひどく丁寧な動きだった。
紫苑「……あの案内係」
シェンリィ「やはり、こちらにいたんだね」
男は軽く頭を下げた。
ラグネル「お久しぶりです、恩人様」
その声を聞いて記憶が繋がった。帝国。
床へ押さえつけられながらそれでもこちらを睨んでいた男。
もうじきブレンダが来る。そうなればお前たちも終わりだと。
そう言っていたあの暗殺部隊の。
咎人「……貴様か」
男の口元に笑みが浮かぶ。
ラグネル「覚えていただけて光栄です。ラグネルと申します。あのときは名乗る余裕も与えていただけませんでしたので」
指が腰の短剣へ触れた。
コン。コンコン。
車体に残った釘が微かに鳴った。
咎人「その音も、貴様の仕業か」
ラグネル「私の手ではあなた方へ届かない。ですので、少々手数を増やさせていただきました」
彼の視線がベルベットへ落ちる。
焼けた腕。肩を借りて立つ姿。
まだ装甲の隙間に残っている赤い光。
男の笑みが少しだけ深くなった。
ラグネル「あと少しでしたね」
俺は剣を作ろうとした指を止めた。
ラグネル「あの化け物も来ていればよかった。何でも喰らうとふざけた口を利いていた……あの男も」
シェンリィ「ガングレリのことかい?」
その名を聞いた瞬間ラグネルの顔が変わった。
笑っている。
けれどその笑顔の下で歯を食いしばっているのが分かった。
ラグネル「私の術を、私の部下を、まるで食卓の余り物のように……」
シェンリィ「随分と根に持っているんだね」
ラグネル「忘れられると思いますか」
シェンリィは眼鏡の位置を直した。
それから不思議そうに首を傾げる。
シェンリィ「でも、彼は君のことを覚えているかな」
空気が一段冷えた。
シェンリィ「あのとき、彼が一番熱心だったのは、僕の眼鏡をどれだけ傾けられるかという遊びだったからね」
ラグネル「……何?」
シェンリィ「君たちを相手にしながらずっと僕の眼鏡を弄っていたよ。おかげで指紋だらけになって、あとで拭くのが面倒だった」
おいシェンリィ。その話今する必要ある?
シェンリィ「まさか、あれで力の一端を見せてもらえたつもりだったのかい?」
ラグネルの指が止まった。
シェンリィ「彼はふざけていただけだよ。君を倒すための力加減なんて、考える必要もなかったんだ」
ラグネル「――黙れッ!」
男の声が初めて裏返った。釘が鳴る。
藁人形の胸が裂け黒い槍のような釘が何本も飛び出した。
その向きは避難路。
最後の乗客たちが集まっている場所だった。
咎人「お前また余計なことしたな!」
シェンリィ「そうだね」
彼女は笑っていた。
ただしその目はもう男をからかうためだけのものではなかった。
シェンリィ「だから、今回は僕が片づけるよ」
ベルベット「釘の頭を撃つな……!魔力を通しやがる!」
シェンリィ「忠告、感謝するよ」
彼女の左腕へ蒼黒い鱗が走った。指が長くなる。
手首から肘へ。肩へ。
人の腕だったものが黒竜の前脚へ姿を変える。
《冥竜顕現〈ドラグ・エピファニア〉》。
シェンリィの本来の肉体を必要な部分だけこの場へ解き放つ力。
その一つ。
《部分顕現〈パーシャル・ドラグ〉》。
巨大な竜爪が飛来した釘を横から掴み握り潰す。
黒い金属が掌の中で短く折れた。
魔法の光を流し込むことなくただ力で。
次の釘も。その次も。
逃がした一本は彼女の槍が軸を叩き誰もいない岩壁へ逸らした。
シェンリィ「……僕たちに腹を立てているんだろう?」
竜の腕がもう一度開く。
その向こうで山賊が子供を抱え上げた。
山賊「よし!お母ちゃん先に行ってくれ!この子は俺が運ぶ!」
シェンリィは避難路の前から動かなかった。
シェンリィ「だったらこちらを見なよ。何度よそ見をすれば気が済むんだい?」
ラグネルが短剣を振る。
藁人形の残った腕が地面を薙いだ。
縄と藁と黒い釘。
それらを束ねた巨大な腕が横から押し寄せる。
シェンリィの竜爪がその手首を捕らえ地面が砕ける。
彼女の踵が僅かに沈んだ。
それでも避難路の位置は変わらない。
シェンリィ「か弱い者を狙うのが好きなら、僕を選んでおくれよ」
口元に細い笑みが戻った。
シェンリィ「僕はいつもそう名乗っているじゃないか。僕はか弱い乙女なのさ。」
竜の腕が捻られる。
藁人形の手首が縄ごと引き千切れた。
彼女はそれを列車から遠ざけ岩壁の向こうへ投げ捨てる。
釘の混じった藁が誰もいない場所へ散った。
シェンリィ「……さあ。続けるなら僕の前を通ってもらうよ」
ラグネルはもう笑っていなかった。
短剣を握った手に白くなるほど力が入っている。
ラグネル「どいつも、こいつも……!」
男の目が避難する人々へ向いた。
まただ。
それを見た瞬間俺の中で何かが静かになった。
さっきまでの焦りも。
母さんに見つかるかもしれないという恐怖も。
一度奥へ沈んだ。
咎人「こちらを見ろ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ラグネルの目が戻る。俺は一歩前へ出た。
車両を支える鎖はまだ離さない。
けれど紫苑たちがいる。シェンリィがいる。
ニルカが最後まで乗客の足元を支えている。
もう一人で全部を抱える必要はなかった。
咎人「貴様が我らを恐れたことを恥じる必要はない。届かぬ力に膝をつくことも、敗北の理由を探すことも、好きにすればよい」
男の指が僅かに動く。
咎人「だが、貴様の屈辱とその者らの命に何の関わりがある」
指が止まった。
咎人「我らの足を止めるため弱き者を狙った。策としては正しかろう。現に我らは手を止めた。貴様を討つより先に守るべきものへ手を伸ばした」
俺は一瞬焼けたベルベットの腕を見た。
すぐに男へ目を戻す。
咎人「だが、それを我らの敗北と思うな」
黒鎖が足元へ集まり始めた。
咎人「ひとつ勘違いを正してやる。その者らは我らの盾ではない。我らが盾となると決めた者だ。弱さを理由に切り捨てるのなら、最初から最強などと名乗らぬ」
鎖の一端が浮き上がる。
いくつもの輪が重なり長い刃の輪郭を作る。
咎人「貴様は、守る者の手が塞がることを知った。ならば、その手が再び空いたとき何を掴むのかも覚えて帰れ」
ラグネルの喉が動いた。
咎人「釘を打ち込む場所を間違えたな。貴様が穿っていたのは我らの隙ではない。己が棺の蓋だ」
鎖が鳴る。
連なった刃が蛇のように身を起こす。
咎人「我らは月を喰らう月蝕。貴様がどれほど己の勝利を照らそうと、その光ごと我らの影に呑ませてやる」
俺は出来上がった柄を握った。
咎人「貴様は、月となった」
蛇腹剣が足元の石を掠めた。
その刃を持ち上げようとしたとき。
目の前へ黒い鎧が割り込んだ。
母さん「ちょっと、あんた」
俺は息を止めた。近い。さっきよりずっと近い。
母さんは魔剣を持ったままこちらへ半分だけ顔を向けていた。
母さん「やっぱり、少しだけ、あたしの息子に似てるんだよねぇ」
まずい。そんな近くで俺の顔を見ないでくれ。
目を合わせたくない。
でも露骨に逸らすのも不自然だ。
母さん「あんまり前へ行かせたくないんだ。悪いね、勝手なこと言って」
母さんの手が俺の袖へ触れた。
大岩を弾き飛ばした手だった。
なのにその指にこもった力はひどく弱かった。
母さん「おばさんに任せなさい」
いつもの調子で言おうとしていた。
でも最後の方だけ少し違った。
笑っているのに目が笑いきれていない。
母さん「……もし」
風が吹いた。紫の髪が頬へかかる。
母さんはそれを払わず俺の顔を見ていた。
母さん「もし、あんたがユウだったら……どれほど嬉しいか……」
何も言えなかった。
喉まで出かかった言葉がそこで止まった。
……そうか。俺がこの世界へ来たのは向こうの世界で死んだからだ。
その事実を忘れていたわけじゃない。
でも、そのあとに残されたものを俺はちゃんと考えていたか。
俺と母さんは二人家族だった。
食卓には二人分の場所があった。
台所から呼ばれれば返事をする相手は俺だった。
帰ってきて声をかける相手も家を出る前に一言残す相手もずっと母さんだった。
その家から俺だけがいなくなった。
あの食卓はどうなったんだろう。
二人分を用意しかけて途中で手が止まった日はあったのか。
癖で俺を呼んで返事がないことを思い出した日は。
俺は知らない。
こっちへ来て強くなって。仲間と笑って。
自分を格好よく見せることに夢中になっていた。
母さんが現れたときも、最初に考えたのは自分が困ることばかりだった。
見つかりたくない。知られたくない。早く帰ってほしい。
母さんが何を思って俺に似た顔を見ているのかなんて。
今、この言葉を聞くまでちゃんと考えもしなかった。
……親不孝者だな、俺。
母さんはもう俺から視線を外そうとしていた。
自分でも無理な願いだと思ったのかもしれない。
母さん「ごめんよ。変なこと言ったね。ほら、あんたは向こうで――」
俺はその手へ自分の手を重ねた。
袖を掴んでいた指をゆっくりと外す。
乱暴にはしなかった。一つずつ。
母さんがこちらを見た。
死んだことは変えられない。
向こうで母さんを一人にした時間も今ここで取り戻せるわけじゃない。
けれど。今この人を一人で前へ行かせるかどうかは俺が選べる。
咎人「心遣いは、受け取った」
声が震えないようゆっくり言った。
咎人「だが、我を庇って前へ出る必要はない」
母さん「あんた――」
咎人「我はもう、誰かの背に隠れて守られるだけの者ではない」
蛇腹剣の刃が静かに連なった。
一枚ずつ噛み合い長い剣へ戻っていく。
咎人「誰かを案じることに慣れた者ほど己の身を数え忘れる。お前も、この場で失ってよい命ではない」
母さんの前へ一歩出た。
今度は俺の背中が彼女を隠す。
咎人「そこから見ていろ。守られることにも少しは慣れろ」
格好をつけた言い方しかできなかった。
もっと普通に言えばいいのに。
ありがとう、とか。ごめん、とか。
言いたいことはいくらでもあるのに、まだ声にできない。
だから風と鎖の音に紛れるくらい小さく。
ほんの少しだけ本当のことを言った。
咎人「……今度は、ちゃんと帰るから」
母さんには聞こえなかった。
俺は振り返らず剣を持ち上げた。
背中にいる人を一人にはしない。
そのためにもう一歩だけ前へ出た。




