10.身勝手
中庭に集まっていた近衛兵は我の命令で持ち場へ戻った。
誰も剣を抜かなかった。誰も余計なことを言わなかった。
実によい。軍とは本来こうあるべきなのだ。
我は三人を連れ庭園へ続く回廊を歩いていた。
咎人は景色を眺めている。
シェンリィはガングレリと何か話している。
穏やかなものだった。
そうだ。こちらから何もしなければ向こうも何もしない。
案内を済ませ話を合わせ帰っていただく。
我がすべきことはそれだけだ。
ヴァルアス「この先が、兵装の試験施設となっている。普段は将官以外の立ち入りを禁じているのだが、貴殿らであれば――」
ガングレリ「あれぇ?」
その声に我は足を止めた。
ガングレリはシェンリィの眼鏡を弄っていた。
眼鏡の端を少し持ち上げ下げる。
何をしているのだ。
シェンリィは気にしていない。
まるで肩に落ちた髪を風に揺らされている程度のことのようにそのまま我の話を聞いていた。
ガングレリ「下っ端ちゃんたち、まーだ懲りてないみたいよ?どぅーする?」
我は振り向いた。
後ろには近衛隊長と侍従がいる。
二人とも何もしていない。
剣は鞘に収まっているし口も閉じている。
問題ない。今回は本当に何も――
シェンリィ「そうだね。でもしょうがないよ。ここはそういう国だからね」
眼鏡がまた少し傾いたが女は直さなかった。
シェンリィ「でも、もう少しだけ分かった方がいいかもしれない。君がやるかい?」
ガングレリ「やっちゃっていいなら、食べちゃいますけど?」
背後の巨大な顎が開いた。
歯の隙間から白い息のようなものが漏れる。
我は庭園を見た。
整えられた植え込み。噴水。回廊を支える白い柱。
何もおらぬ。
少なくとも我の目には何も。
咎人「……牙を示すだけでよい」
咎人は歩みを止めたまま片手を軽く上げた。
咎人「命までは喰らうな。招かれた庭を血で汚すのも無粋であろう」
ガングレリ「はぁい。じゃ、お行儀よくしまぁす」
眼鏡から指が離れたその瞬間だった。
水音が消えた。
噴水の周囲に薄い灰色の膜が立ち上がる。
遮音結界。
それが何を意味するか我は知っていた。
喉がひゅっと鳴った。
ヴァルアス「待――」
柱の陰から矢が飛んだ。
一本ではない。
屋根の上。植え込みの奥。回廊の左右。
咎人たちの首、胸、足元へ黒い線が幾重にも重なる。
同時に石畳へ術式が走り三人の影を縫い留めようとした。
見事な連携だった。
逃げ道を塞ぎ、声を奪い、防御の手を分散させて急所を狙う。
我が帝国の暗殺部隊が何度も他国の要人を葬ってきた手口。
だが。
ガングレリ「いただきまぁす」
口が前へ出た。そうとしか言いようがなかった。
ガングレリの背後で湾曲していた異形が我の視界を黒く覆う。
牙が閉じる音がした。
矢を噛み砕いた音ではなかった。
もっと大きな、何か。
空間に張られていた膜ごと庭園の一部が口の中へ消えたように見えた。
次の瞬間噴水の音が戻った。
矢はなかった。足元の術式も消えていた。
咎人の外套の裾だけがゆっくりと揺れている。
暗殺者「……なっ」
植え込みの奥で声が漏れた。
ガングレリ「そこにいたの、俺ちゃん知ってるよぉ?」
巨大な弓が持ち上がり弦に紫の光が宿った。
我が一度瞬きをする間に弦の音が幾つも重なった。
石を穿つ音。木の枝が折れる音。短い悲鳴。
屋根の上から一人が転がり落ちた。
落下する身体を次の矢が外套ごと柱へ縫い留める。
植え込みから飛び出しかけた男は両袖を背後の幹へ固定されていた。
回廊の陰では術師の手にあった杖が砕けている。
誰も死んでいない。
それが分かった時、我は逆に寒気を覚えた。
狙ってそうしている。
あの数をあの速さで。
人を殺すより面倒なことを片手間にやっている。
ガングレリ「あ。皇帝ちゃん、足元気をつけてねぇん。なんか転がってくるから」
黒い人影が回廊の端から飛び出した。
短剣を逆手に握り低い姿勢で踏み込んでくる。
狙いはガングレリ。
射撃直後の隙を突いた捨て身の接近。
その男の顔を我は知っていた。
ヴァルアス「貴様――!」
牙が落ち短剣の刃だけが消えた。
男の手は残っている。
指も、手袋も、袖口すら傷ついていない。
握っていた武器だけが柄から先を失っていた。
男は止まった。止まるしかなかった。
開いた顎がその頭を挟む位置にあったからだ。
ガングレリ「……まだやるぅ?」
先ほどまでと同じ声だった。
軽く。親しげで。どこか間の抜けた声。
それを聞いた男の膝が石畳へ落ちた。
我は駆け寄った。
ヴァルアス「何をしておる!!」
暗殺隊長「……陛下」
ヴァルアス「敵対行動は禁ずると通達したはずだ!」
暗殺隊長「我々は、独立指揮下にあります。宮廷警備からの連絡は、まだ――」
届いておらぬ、そうかなるほど。では今から届く。
我が直接耳元へ届けてやる。
ヴァルアス「撤退だ。全員武器を捨てよ。今すぐに」
男は答えなかった。我を見ている。
その目に浮かんでいるのは恐怖だけではなかった。
痛ましさ。憤り。
まるで敵に屈した主君を見ているような――
やめろ。その目をやめろ。
何か碌でもない決意を固めるな。
ヴァルアス「聞こえぬのか。これは勅命である」
暗殺隊長「……陛下の御心、承知しております」
承知していない時の返事だ。
我はこの返事を知っている。
暗殺隊長「ですが、帝国の誇りまで明け渡すわけには参りません」
誇りは明け渡しておらぬ。
今明け渡しそうになっているのは貴様らの命だ。
我は言い返そうとした。その前に男が咎人を睨んだ。
暗殺隊長「……もうじき、ブレンダ様が参られる」
我の口が閉じた。
暗殺隊長「そうなれば……たとえ貴様らでも……!」
咎人が男を見下ろしていた。
ほんの僅かに口元が上がる。
咎人「……ほう」
靴音が一つ男の前で止まる。
咎人「未だ、分かっておらぬようだな。我らがどのような存在であり、貴様らの行いがいかに愚かで浅はかなものか」
黒い鎖が肩から垂れた。その先が石畳へ触れる。
微かな金属音。
それだけで庭園のあちこちに縫い留められた暗殺者たちが息を詰めた。
咎人「我らは、月を喰らう月蝕」
何を言っておるのだ。
咎人「その侵食には何者も抗えぬ。剣を掲げようと、祈りを捧げようと……喰らわれゆく月にそれを止める術などない」
前々からこの意味不明なことを言う癖は変わっておらぬな。
咎人「故に、貴様らはその月となるのだ」
男は黙っていた。我も黙っていた。
恐らく黙っている理由は異なる。
言葉の意味は正直よく分からぬ。
だが、続きを聞きたくないことだけははっきりしていた。
我は男と咎人の間へ半歩だけ身体を入れた。
一歩は出られなかった。
ヴァルアス「……咎人殿。この者たちの処分は我に預けてはいただけまいか」
咎人の視線が我へ移った。
ヴァルアス「重ねての非礼、弁解の余地もない。だが、貴殿らへ刃を向ける意思は我にはない。それだけはどうか理解していただきたい」
背後で隊長が何かを言いかけた。
我は振り向かずその肩を掴んだ。
握力で伝えた。
次に口を開けば本当に殺す。
咎人「……皇帝よ」
ヴァルアス「うむ」
咎人「貴殿は、随分と忙しい主であるらしい」
忙しくしたのは我だ。今猛烈に後悔している。
咎人「よかろう。此度も、貴殿の顔を立てよう」
膝から力が抜けかけた。
抜けるな。我は皇帝だ。
まだ地面に手をつく段階ではない。
ヴァルアス「……感謝する」
咎人「ガングレリ。解いてやれ」
ガングレリ「はぁい。よかったねぇん下っ端ちゃん。もうちょっとで俺ちゃんのお腹見学だったよぉ」
巨大な顎が男の頭から離れた。
柱や木に突き立った紫の矢が消える。
暗殺者たちが次々と地面へ崩れ落ちた。
シェンリィ「せっかく助かったんだ。大切にした方がいいよ、その命」
女は相変わらず笑っていた。
まだ少し傾いた眼鏡の奥で赤い目が男たちを眺めている。
シェンリィ「皇帝陛下が頑張って拾ってくれたんだから」
我は拾いたくて拾っているのではない。
捨てるな。まず勝手に捨てるな。
近衛隊長へ目配せし暗殺者たちを武装解除させる。
今度こそこれで終わりだ。
少なくとも庭園ではもう何も起きぬ。
我は息を吐き歩き出そうとした。
咎人「ところで」
足が止まる。
咎人「先ほどの話だが……ブレンダはこちらへ来るのだな?」
ヴァルアス「……呼んでは、ある」
咎人「そうか」
満足そうに頷いた。
咎人「それは楽しみだ。貴殿らが最後まで縋るほどの将……ぜひ、会っておきたい」
我は暗殺隊長を見た。男は俯いた。
遅い。理解するのが何もかも遅い。
我が念のために呼んだ将軍を。
我が少しでも安心するために呼んだ将軍を。
相手に紹介してどうする。
その時男の胸元で小さな光が点滅した。
赤い発信符。我はそれを指さした。
ヴァルアス「……何だ、それは」
暗殺隊長の顔色が変わった。
暗殺隊長「一定時間、作戦継続の応答がない場合……部隊が壊滅したものとして宮殿守備隊へ――」
遠くで鐘が鳴った。
一度。続いて二度。
庭園の向こうで兵舎の扉が開く。
ガングレリ「おぉ〜。まだ何かある感じぃ?」
咎人が我を見た。
シェンリィも我を見た。我は暗殺隊長を見ていた。
……こいつらはまだ全員生きている。生かしてもらったばかりだ。
ヴァルアス「生きておると伝えろ」
暗殺隊長「は、直ちに――」
ヴァルアス「我もだ!!我もまだ生きておると全軍に伝えろ!!」




