9.その忠義が我を殺す
ヴァルアス「……待て。最後にもう一度だけ確認する」
迎賓の間へ続く廊下で我は近衛隊長の肩を掴んだ。
隊長「はっ。葬月の一行に対し、最高位の国賓待遇を。警備は通常配置とし、威圧と受け取られる行動は慎むよう、既に――」
ヴァルアス「やめろよ?」
隊長「……は?」
ヴァルアス「絶対逆らうなよ?」
声を落とし肩を掴む指に力を込める。
ヴァルアス「あいつら、我よりやばいからな?」
隊長の表情が固まった。
そうだ。その顔でよい。事の重大さを理解しろ。
隊長「……陛下が、そこまで警戒されるとは」
ヴァルアス「警戒ではない。礼節だ」
隊長「はっ」
ヴァルアス「向こうが何を言ってもまず我を見るのだ。勝手に判断するな。剣に触れるな。眉も寄せるな」
隊長「眉も、でございますか」
ヴァルアス「寄せて何になる。勝てるのか、眉で」
隊長は深く頭を下げた。
よし。軍人は命令に従う。
我が帝国の兵はとりわけそうだ。
これまで幾度も我が命に従って敵陣へ踏み込み、都市を落とし、勝利を持ち帰ってきた。
今日は何もしなくてよい。
踏み込むな。落とすな。立っていろ。
これほど簡単な任務がほかにあるものか。
ヴァルアス「……それと、ブレンダは」
隊長「所在を確認しております。見つかり次第、こちらへと」
ヴァルアス「急がせよ。ただし、慌てているようには見せるな」
隊長「承知いたしました」
我は衣の襟を整えた。
背筋を伸ばす。顎を上げる。口元に余裕を作る。
皇帝の顔とはこういうものだ。
その作り方を今日は一つずつ思い出さねばならなかった。
やがて扉の向こうで衛兵の声が響いた。
衛兵「葬月総帥、咎人殿。並びに、御随行のお二方が到着されました!」
随行。便利な言葉だ。
あの二体をたった二文字で済ませられる。
扉が開く。
最初に見えたのは黒い冠だった。
紫の髪。片目を覆う装飾。肩に落ちる黒い羽毛と、歩調に合わせて微かな音を立てる銀の鎖。
咎人は何も変わっていなかった。
我を倒した時と同じ歩き方をしていた。
急ぎもせず。身構えもせず。
この場所に自分を害せるものなど一つもないと知っている者の歩き方。
その後ろから角を戴いた女が入ってくる。
口元には初めから笑みがあった。
そしてもう一人。
黒い甲冑に覆われた異形が巨大な弓を携えて扉をくぐる。
その背後から牙が見えた。
頭上へ湾曲した巨大な顎が開いたままゆっくりと扉の内側へ入ってくる。
近衛兵の一人が息を呑んだ。我も呑んだ。
咎人「久しいな、皇帝よ……何も言わず領地に足を踏み入れたこと、その非を詫びよう」
低くよく通る声だった。
咎人は我の前で足を止め僅かに顎を引いた。
詫びた。よし。
少なくとも今のところ怒ってはいない。
ヴァルアス「いや、何を申される。貴殿らであればいつでも歓迎しよう。事前の知らせなどどうかお気になさらず」
ほんとは出来れば事前に知らせてほしい。
その日我は遠方へ視察に出る。
咎人「寛大な配慮、感謝する」
ヴァルアス「はは……互いに一国を預かる者同士、堅苦しいことは抜きにしようではないか」
ガングレリ「おっ、いいのぉ?じゃあ皇帝ちゃんよろしくねぇん!」
背後で金具が鳴った。
近衛兵の指が剣の柄にかかっていた。
我はその手を見た。近衛兵は我の顔を見た。
我はゆっくりと首を横に振った。
抜くな。
その剣は今日一日鞘と仲良くしていろ。
ガングレリ「ん〜?どったの?」
ヴァルアス「何でもない。少々緊張しているようだ」
ガングレリ「俺ちゃん見て緊張しちゃったぁ?いやぁ、照れるねぇん」
誰も笑わなかったから我が笑った。
皇帝とはこういう時にも仕事がある。
シェンリィ「立派なお城だね。手入れも行き届いてる」
ヴァルアス「……そうであろう。我が帝国の技術の粋を集めた宮殿だ」
これは少しだけ本心だった。
巨大な柱。天窓から落ちる光。磨き抜かれた黒い石床。
ここへ連れてこられた敗者は皆、一度は天井を仰ぐ。
自分たちが何に逆らったのかをその時になって理解するのだ。
シェンリィ「壊したら、大変そうだ」
ヴァルアス「大変だ」
思ったより早く声が出た。
シェンリィは我を見ると楽しそうに目を細めた。
シェンリィ「ふふ。大切にしているんだね」
そう大切なのだ。
だからその感想を口にした理由を教えてくれ。
我は三人を席へ案内した。
長い卓には既に酒と軽食が並んでいる。料理はすぐ出せる。贈り物も用意させた。
話を聞く。食事を出す。機嫌よく帰っていただく。
本日の方針は以上だ。
帝国の歴史上最も穏当な外交である。
咎人「……皇帝よ」
ヴァルアス「何かな」
咎人「貴殿も腰を下ろすとよい。我らだけが寛いでは落ち着かぬ」
ヴァルアス「うむ。そうだな」
自分の城で座るのを忘れていた。
我はゆっくりと椅子を引いた。
その時卓の向こうでガングレリの背の顎が動いた。
椅子を引く手が止まる。
……今何を見た?
我か?椅子か?皿の肉か?
肉であれ。肉であってくれ。
ガングレリ「皇帝ちゃん?」
ヴァルアス「何だ」
ガングレリ「椅子、重いのぉ?」
ヴァルアス「……頑丈なのだ」
ようやく腰を下ろし我は杯を持ち上げた。
ヴァルアス「では、此度の来訪を祝して――」
咎人「その前に、一つ」
杯を下ろした。
早かった。我ながら命令に忠実な動きだった。
咎人「此度は、帝国の力をこの目で確かめに来た」
室内の空気が変わった。
近衛隊長の目が細くなる。給仕の足が止まる。
我の杯の中で酒が一度だけ揺れた。
ヴァルアス「……と、申されると?」
咎人「噂は聞いている。優れた軍備とそれを率いる将。中でも、ブレンダという名は耳に残っていてな」
ブレンダ。
やはりか。呼んでおいてよかった。
いやよかったのか?
今からここへ呼んで本当によいのか?
咎人「兵装も含め、一度拝見したい。差し支えなければ、案内を頼めるか」
頼めるかと言った。断れる言葉の形をしていた。
だが我の記憶の中にはこの男の前で断るという行為がどういう結果を招くか、十分な教材が残っている。
ヴァルアス「……無論だ。貴殿らの見聞に資するのであれば、我が帝国も喜んで――」
近衛騎士「お待ちください、陛下!」
声は壁際から上がった。若い近衛騎士だった。
南方戦線で功を立て、つい先日宮廷勤務を許した男。
胸には我が直々に授けた勲章がある。
あの時、何と言って褒めたか。確か...そうだ。
敵を前に退かぬ、その気概を忘れるな。
近衛騎士「軍事施設の視察など、諸侯にすら許されぬこと!それを他国の者に――」
ヴァルアス「我が許した」
近衛騎士「ですが!」
ヴァルアス「控えよ」
我は声を低くした。騎士の肩が震える。
よい。まだ我の声は届く。
近衛騎士「……御意」
男は一歩退いた。剣から手も離した。
ほらできるではないか。
我は咎人へ向き直り口元を緩めた。
ヴァルアス「失礼した。我が兵は少々忠義に厚くてな」
咎人「構わぬ。仕える主を思う心は尊いものだ」
まったくだ。
もう少し我の心臓のことも思ってほしい。
シェンリィ「よかったね。慕われているじゃないか」
ヴァルアス「……ああ」
シェンリィ「じゃあ、食事の後にでもお願いしようかな。エスコートを頼むよ、皇帝陛下」
近衛騎士「……貴様」
我は目を閉じた。
先ほど退いたその男の声だった。
近衛騎士「陛下を、案内役のように……!」
ヴァルアス「我が案内すると言っているのだ」
近衛騎士「そのような役目、臣下に命じれば済むことです!」
ヴァルアス「では、貴様は下がって――」
近衛騎士「皇帝陛下を軽んじる言動、これ以上は看過できん!」
剣が抜かれた。
近衛隊長「馬鹿者、やめろ!」
間に合わなかった。
男は速かった。
南方で重装騎兵を三騎まとめて斬り伏せたその踏み込み。
床石を鳴らし卓の端を回り込む。
我が勲章を与えた理由が目の前で余すことなく発揮されていた。
今でなければ見事なものだった。
ヴァルアス「おい!やめろ!!」
刃はシェンリィの首へ迫った。
女は椅子から立たなかった。杯も置かなかった。
空いていた手を軽く持ち上げただけだった。
高い音がし刃が止まった。
シェンリィの二本の指の間で。
近衛騎士「……な」
男の腕が震える。押し引いている。
全身の力をその剣一本へ注いでいるのに動かない。
シェンリィは首を傾げた。
シェンリィ「これは、何のお作法かな?」
指が僅かに捻られ剣が折れた。
飴細工を割るようなあまりにも軽い動きだった。
男がよろめく。
折れた刃を持ったままシェンリィは我を見た。
笑顔のままだった。
シェンリィ「皇帝陛下?」
ヴァルアス「咎人殿!我はこんなの命じていませんので!勘違いなきよう願いますぞ!」
立ち上がった拍子に椅子が倒れた。
そんなものを直している場合ではない。
我は騎士の襟首を掴み無理やり引き寄せた。
そして客には見えぬ角度で男の耳へ口を寄せる。
ヴァルアス「てめぇこの野郎……あとで処刑だ……」
近衛騎士「へ、陛下……私は、帝国の――」
ヴァルアス「分かっておるのか、貴様が刃向かった奴らは城だぞ……」
男の襟を握り締める。
ヴァルアス「我々は、その城を見上げる一粒の石にすぎんのだぞ!?馬鹿野郎……!石が城に喧嘩を売るな……!」
近衛騎士「ですが陛下は常々、力ある者こそが――」
ヴァルアス「だから向こうだと言っておるのだ!!」
最後の一言が大きくなった。
室内が静まる。我は咳払いをした。
ゆっくりと客へ向き直る。
ヴァルアス「……少々、教育が行き届いておらなんだ」
咎人はまだ座っていた。
杯にも手をつけていない。ただこちらを見ている。
咎人「皇帝よ」
ヴァルアス「……何かな」
咎人「我らは、貴殿の招きに応じた客だ」
ヴァルアス「無論、承知している」
咎人「ならば、そのように扱え」
静かな声だった。
怒鳴りもせず。睨みもせず。
我は襟を掴んでいた手から汗が伝うのを感じた。
咎人「貴殿の配下を我らが躾けることになっては……貴殿も面白くなかろう」
ヴァルアス「……仰る通りだ」
我は騎士を近衛隊長へ押しつけた。
ヴァルアス「連れていけ。武装を解かせ謹慎させよ」
隊長「はっ!」
騎士はまだ折れた剣を握っていた。
その手を見てようやく気づいた。
震えている。怒りではない。
今になって分かったのだ。
シェンリィ「これ、返した方がいい?」
女が折れた剣先を差し出した。
近衛隊長が両手で受け取る。
シェンリィ「次はちゃんと声をかけてね。服に傷がついたら困るから」
我は男の命が惜しい。女は服が惜しい。
話が成立しているようで少しも成立していなかった。
ガングレリ「いやぁびっくりしたねぇん。俺ちゃんだったら反射でやっちゃってたかもぉ」
背後の巨大な顎がゆっくり閉じる。
がちり、と音がした。
何を。どこまで。聞く勇気はなかった。
我は倒れた椅子を起こさせ改めて席へ着き酒を飲んだ。
喉を通ったかどうかよく分からなかった。
咎人「さて。話を戻そうか」
ヴァルアス「……うむ」
咎人「視察は、どこから始める?」
我は窓の外を見た。
中庭。訓練場。その奥に並ぶ兵装試験棟。
今日も大勢の兵士がいる。
我に忠誠を誓い、帝国の威信を信じ、敵を前に退くことを恥とする誇り高い兵士たち。
先ほどまでそれが我の自慢だった。
ヴァルアス「……その前に、一つだけ」
咎人「何だ」
ヴァルアス「全軍に、通達を出しておきたい」
ガングレリ「歓迎の準備ぃ?」
ヴァルアス「……そうだ」
生存の準備だ。
我は近くの侍従を呼び極力穏やかな顔で命じた。
ヴァルアス「客人に対する敵対行動は一切禁ずる。命令なく剣を抜いた者は厳罰に処す。例外はない。全部隊へ直ちに伝えよ」
侍従「はっ」
これでよい。
今度こそ伝わるはずだ。
侍従は扉へ向かいかけ何かを思い出したように振り返った。
侍従「なお、先ほどの騒ぎを受けまして、第一近衛中隊が陛下の御身をお守りすべく、既に中庭へ集結しております」
我は杯を置いた。
侍従「陛下の御威光を損なわせぬと皆、並々ならぬ決意で――」
ヴァルアス「解散させろ」
侍従「……陛下?」
ヴァルアス「決意をするな。持ち場へ帰れと伝えよ」
窓の向こうで整列する兵士たちの槍が光った。
我を守るために。帝国を守るために。
我は生まれて初めて忠臣ばかりを集めたことを後悔した。




