第8話 いらない記憶
「記憶でも……使えるんだよね?」
「使える」
「じゃあ、それで」
悪魔は淡々とリナを見つめていた。
「どの記憶を差し出す?」
「どれって……」
リナは目元を拭った。
考えるだけでも頭が痛い。
母のこと。
明日の授業。
何も考えたくなかった。
「嫌な記憶でいい」
「嫌な記憶?」
「うん」
学園に来てからも、嫌なことならたくさんあった。
田舎者と笑われた。
落ちこぼれと言われた。
魔力切れで動けなくなったところを見られたこともある。
そんなものなら、なくなったところで困らない。
「私が今、一番いらないと思ってる記憶」
「それでは指定が曖昧だ」
「じゃあ……」
リナは少し考える。
涙がまた頬を伝った。
「今の私を、一番悲しくさせてる記憶」
「それなら指定できる」
「それでいい」
悪魔がリナを見る。
「対価に見合うだけ取得する」
「うん」
「一度取得した記憶は返却できない」
「……うん」
リナは頷いた。
言葉は耳に入っていた。
けれど、その意味まで考える余裕はなかった。
今日はもう、何も考えたくない。
母のことも。
明日のことも。
これからどうするのかも。
今、この苦しさが少しでもなくなるなら。
それだけでよかった。
「魔力は?」
「前と同じくらいでいい」
「分かった」
悪魔の足元に魔法陣が浮かぶ。
「確認する」
「うん」
「お前を現在もっとも強く悲しませている記憶を対価として受け取る」
「うん」
「私は対価に見合う魔力を、お前へ譲渡する」
「うん」
「契約するか?」
「する」
リナが答える。
魔法陣が光った。
「――っ」
今までとは違った。
頭の奥を、何かが撫でていくような感覚。
痛くはない。
ただ。
何かが遠ざかっていく。
誰かに名前を呼ばれた気がした。
それが誰だったのか確かめる前に、消えた。
「…………」
光が収まる。
リナは何度か瞬きをした。
「終わった?」
「終わった」
「……そっか」
頭がぼんやりする。
何かを忘れた気がする。
でも。
何だっただろう。
「何か……」
考えようとする。
その瞬間。
強烈な疲労が押し寄せた。
今日はずっと泣いていた。
ろくに食事もしていない。
もう何もしたくない。
「……疲れた」
リナはベッドへ向かった。
「寝る」
「そうか」
「明日になったら考える」
布団へ潜り込む。
胸の中にあった重苦しいものが、少し薄くなっていた。
何かとても嫌なことがあったはずなのに。
思い出そうとしても、うまく形にならない。
「……まあ、いいや」
今は眠りたかった。
リナは目を閉じた。
すぐに眠りへ落ちた。
◇
朝。
「ん……」
リナは目を開けた。
しばらく天井を眺める。
「…………」
身体が軽い。
よく眠った。
頭もすっきりしている。
「久しぶりによく寝たかも」
起き上がる。
机の上には悪魔がいた。
「おはよう」
「おはよう」
「覚えたんだ」
「以前聞いた」
「そうだったね」
ベッドから降りる。
顔を洗う。
昨日までの重苦しい気分が嘘のようだった。
「……あれ?」
そこで昨夜の契約を思い出す。
「そうだ」
悪魔を見る。
「記憶」
「受け取った」
「……返ってこないんだっけ?」
「返らない」
「…………」
リナの動きが止まる。
「ずっと?」
「そうだ」
「一週間とかじゃなくて?」
「違う」
「味覚みたいに、時間が経ったら戻るんじゃなくて?」
「そのような契約はしていない」
「…………」
そこでようやく。
昨夜聞いた言葉の意味が、はっきりと理解できた。
『一度取得した記憶は返却できない』
「……本当に、ずっと?」
「そうだ」
「でも私……」
言葉に詰まる。
「説明した」
「…………うん」
言われた。
覚えている。
ただ昨夜は。
頭がぐちゃぐちゃで。
聞いてはいたのに、ちゃんと考えていなかった。
「……私、ちゃんと聞いてなかった」
「そうだな」
「止めてよ……」
「なぜだ?」
「だって……」
リナは言葉に詰まる。
悪魔は嘘をついていない。
説明もした。
確認もされた。
その上で、自分が契約した。
「……何の記憶を取ったの?」
「知らない」
「知らない?」
「内容そのものを理解する必要はない」
「でも、私から取ったんでしょ?」
「お前を強く悲しませていた記憶だ」
「どんな?」
「だから知らない」
悪魔は少し考える。
「お前は昨日、何かを非常に不快に感じていた」
「不快……」
「それに関連する記憶を取得した」
「嫌なこと?」
「おそらく」
リナは自分の記憶を探る。
嫌なこと。
最近。
「……あの三人かな」
食堂で馬鹿にされた。
田舎者と言われた。
魔法が使えないと笑われた。
もっと前にも色々あった。
「いじめられた時の記憶?」
「私には判断できない」
「……そっか」
胸を撫で下ろす。
もしそうなら。
「それなら……まあ、いいかな」
いじめられた記憶なんて、大切に取っておく必要はない。
永久に戻らなくても困らない。
むしろ忘れられたなら得かもしれない。
「びっくりした……」
それでも。
次から記憶はやめよう。
何を失ったのか、自分で確認できないのは怖い。
「絶対もう使わない」
「そうか」
「記憶は危険」
「対価としては成立する」
「あなたにとってはね」
リナは制服へ着替え始めた。
今日は授業がある。
契約でもらった魔力も増えた。
「よし」
昨日は何だか色々あった気がする。
でも。
今はずいぶん気分がいい。
「学校行こ」
鞄を手に取る前に、考えるより先に手が動いた。
机の端に置いていた便箋を一枚取り、ペンを握る。
「……あれ?」
何かを書こうとした。
けれど、宛先も内容も浮かばない。
「私、何で手紙を書こうとしたんだっけ」
しばらく考えても、答えは出なかった。
「まあ、いいか」
便箋とペンを戻し、リナは部屋を出た。




