第7話 届かない手紙
一週間後。
朝食のスープを口に入れた瞬間。
「……あ」
リナの手が止まった。
塩気がある。
野菜の甘みも分かる。
肉から出た脂の味まで感じる。
「味する……」
もう一口。
「美味しい……!」
思わず声が出た。
向かいに座っていたエマが驚いた顔をする。
「どうしたの?」
「何でもない!」
「今、美味しいって」
「美味しかったから」
「今日のスープ、いつもと同じじゃない?」
「それがいいの!」
「……?」
エマが首を傾げる。
リナは気にせずパンをちぎった。
噛む。
香ばしい。
バターの味もする。
「おいしい……」
「今日のリナ、変だよ」
「普通だよ」
「パン食べて泣きそうになってる人を普通とは言わない」
「だって美味しいんだもん」
七日間。
長かった。
途中からは食事の時間そのものが嫌になっていた。
空腹を満たすためだけに、味のしないものを口へ押し込む。
好きだったものを食べても何も感じない。
あれほどつらいとは思わなかった。
「もう味覚は絶対に払わない」
「何?」
「こっちの話」
リナはスープを飲み干した。
◇
「戻ったか」
「戻った! 味覚が!」
寮の部屋へ入るなり、リナは悪魔へ駆け寄った。
「そのようだな」
「普通に食べられるってすごいね」
「そうか」
「昨日までパンなんて、柔らかい何かだったんだから」
「そうか」
「反応薄いなあ」
悪魔には食事そのものが必要ない。
味覚を失うつらさを説明しても分からないらしい。
リナは机の引き出しから焼き菓子を取り出した。
契約した日に途中で食べるのをやめたものだ。
一口。
「……ちょっと湿気てる」
「そうか」
「でも美味しい」
それだけで嬉しかった。
「睡眠も嫌。味覚も嫌」
指を折りながら数える。
「血は絶対痛いし、魔力回復が遅くなるのも困る」
「そうだな」
「記憶もあったよね」
「あった」
「それって、例えばどんなの?」
「内容による」
「楽しくない記憶とかでもいい?」
「価値があれば」
「ふーん」
嫌な記憶。
いじめられた時のことなど、なくなっても構わない気がする。
だが、悪魔がどんな基準で価値を決めるのかは分からない。
「寿命は?」
「使える」
「……うん」
リナはすぐに別の話へ移した。
「今は契約いらないから」
「分かった」
まだ魔力は残っている。
最近は自分自身の魔力を節約して使うことも覚えてきた。
今すぐ新しい契約をする必要はなかった。
◇
数日後。
昼休み。
リナは校舎入口にある郵便棚を確認した。
「……ない」
自分の名前が書かれた棚は空だった。
「今日も?」
隣にいたエマが聞く。
「うん」
「遅れてるんじゃない?」
「かな」
母からの手紙が来なくなって、少し経っていた。
普段なら、リナが手紙を送ればそれほど間を置かず返事が来る。
毎回きっちり同じ日というわけではない。
忙しい時は遅れることもある。
だから最初は気にしていなかった。
「村の仕事が忙しいのかも」
「そうだね」
「畑もあるし」
そう言いながら、もう一度棚を見る。
当然、何も増えていない。
「リナ」
「ん?」
「今日は食堂の新しいお菓子食べようよ」
「新しいの?」
「蜂蜜使ってるやつ」
「行く」
即答した。
味覚が戻ってから、食事が以前より楽しみになっている。
「この前まで食欲なかったくせに」
「治ったの」
「何が悪かったの?」
「……疲れてたんじゃない?」
「また無理してた?」
「してないよ」
「怪しい」
二人で食堂へ向かう。
手紙のことは、しばらく頭から消えた。
◇
その日の放課後。
「リナ」
教室を出ようとしたところで教師に呼び止められた。
「はい?」
「少しいいか」
いつもと違う声だった。
「……はい」
教師について廊下を歩く。
向かった先は教員室ではなく、小さな応接室だった。
「座ってくれ」
「はい」
妙だった。
何か怒られるようなことをしただろうか。
授業にも出ている。
成績も以前より上がっている。
学外実習でも問題は起こしていない。
「あの……何かありました?」
教師はすぐには答えなかった。
机の上に、一通の封書を置く。
「君の故郷からだ」
「私の?」
母からなら、普通は自分宛てに届く。
それがなぜ教師のところにあるのか。
嫌な感じがした。
「最近、君の故郷の周辺で流行り病が出ていることは知っているか?」
「……え?」
知らない。
母の最後の手紙にもそんなことは書いていなかった。
「かなり急速に広がったらしい」
「でも……」
リナは封書を見る。
「母さんは?」
教師が黙る。
その一瞬で。
聞きたくないと思った。
「先生」
「リナ」
「母さんは?」
教師は静かに告げた。
「……亡くなったそうだ」
「…………」
言葉の意味が理解できなかった。
「誰が?」
「君のお母さんだ」
「いや」
勝手に言葉が出た。
「それ、間違いじゃないですか?」
「村から正式に届いた知らせだ」
「だって」
つい最近まで手紙が来ていた。
元気だと書いてあった。
畑の出来も悪くない。
次の仕送りも送ると。
「母さん、元気だったんです」
「ああ」
「病気だなんて書いてなかった」
「流行が始まってから、亡くなるまでが早かったそうだ」
「…………」
机の上の封書へ手を伸ばす。
指が震えていた。
開く。
読んだ。
一度。
二度。
何度読んでも。
書いてあることは変わらなかった。
流行り病。
死亡。
埋葬。
遺品について。
「……嘘」
手紙が落ちた。
「リナ」
「ちょっと」
立ち上がる。
「帰ります」
「今日は授業はもうない。寮まで誰かを――」
「大丈夫です」
「しかし」
「一人で大丈夫です」
教師の顔を見られなかった。
部屋を出る。
廊下。
階段。
校舎の外。
どうやって歩いたのか、よく覚えていない。
◇
寮の扉を開ける。
「戻ったか」
悪魔がいた。
いつも通り。
それだけで。
「…………」
涙が出た。
「どうした」
「母さんが」
声が震える。
「死んだって」
「そうか」
「病気で」
「そうか」
「……それだけ?」
悪魔を見る。
何も変わらない顔。
「何を言えばいい?」
「分かんないよ!」
自分でも分からない。
悪魔が悪いわけではない。
それでも腹が立った。
「なんで……」
机の引き出しを開ける。
母から届いた手紙。
一通。
もう一通。
何通もある。
『ちゃんと食べなさい』
『無理しないように』
『卒業を楽しみにしています』
『次の休みに帰ってきたら、好きなものを作ります』
「…………」
涙で文字が滲む。
「帰るって……」
約束していた。
まだ何も返していない。
母を楽にするために魔法使いになる。
そう決めたのに。
「何のために……」
学園へ来た。
頑張った。
退学しないために契約までした。
「間に合わなかった……」
手紙を握りしめる。
もっと早く帰ればよかった。
学園なんて。
魔法なんて。
そんな考えまで浮かぶ。
でも。
母は自分が卒業することを楽しみにしていた。
「……どうすればいいの」
悪魔は答えない。
答えられるはずもない。
リナはしばらく泣いていた。
◇
夜になっても眠れなかった。
目を閉じると、母のことを思い出す。
学園へ出発した日。
何度も荷物を確認された。
食事をちゃんと取れと言われた。
出発する時、最後まで手を振っていた。
「…………」
苦しい。
泣きすぎて頭も痛い。
眠ろうとしても、母の姿ばかり浮かぶ。
目を閉じ直しても、母の姿は消えなかった。
もう、母のことを考えたくなかった。
「…………」
机の端。
悪魔がこちらを見ていた。
「何だ」
「……ねえ」
「何だ」
「契約、できる?」
「対価があれば」
「今、したい」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
契約のことを考えている間だけは、母のことを考えずに済んだ。
「何を対価にする?」
悪魔が尋ねる。
睡眠は嫌。
味覚も嫌。
身体がつらくなるものも嫌だった。
「……記憶」
リナは小さく答えた。
「記憶でも……使えるんだよね?」
「使える」
「じゃあ、それで」
悪魔は淡々とリナを見つめた。




