第6話 今度は味覚
三日後。
リナたちは学園近郊の森へ来ていた。
「今回の実習では、三人一組で指定区域を巡回する」
引率教師の声が森の入口に響く。
「対象は低級魔物。討伐数だけでなく、魔力管理、連携、負傷時の対応も評価する」
リナは杖を握りながら説明を聞いていた。
隣にはエマ。
もう一人は同じクラスの男子生徒だった。
「魔力が不足した場合は無理をせず帰還すること。いいな?」
その言葉に、少しだけ肩が固くなる。
魔力不足。
自分の一番の弱点だった。
「リナ、大丈夫?」
「大丈夫」
「本当に?」
「今回は準備してきたから」
「ならいいけど」
嘘ではない。
昨日の夜。
リナは、二度目の契約を結んでいた。
◇
「睡眠は絶対に嫌」
「分かった」
寮の自室。
リナは机の前で腕を組んでいた。
「本当につらかったんだから。一週間ずっと寝ても寝ても疲れてるし、頭も回らないし」
「そうか」
「だから別のやつ」
悪魔はいつものように候補を提示した。
血。
魔力回復能力。
感覚。
記憶。
寿命。
「味覚なら?」
「一週間」
「味がしなくなるだけだよね?」
「そうだ」
「身体は普通?」
「問題ない」
「食事もできる?」
「できる」
「一週間たったら元に戻る?」
「契約内容をそう定めれば戻る」
リナは考えた。
七日間眠っても休めないのと。
七日間、食べ物の味がしないのと。
「……味覚の方が絶対楽だよね」
「私には判断できない」
「だって食べられるんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ平気」
リナは決めた。
「それでお願い」
「必要な魔力は?」
「明日の実習を最後までこなせるくらい」
「お前が説明した内容なら可能だ」
「前にもらった分も残ってるよね?」
「残っている」
「じゃあ、それに追加して」
「分かった」
悪魔の足元に魔法陣が浮かぶ。
「確認する」
「うん」
「お前は一週間の味覚を対価として差し出す」
「うん」
「私は対価に見合う魔力をお前へ譲渡する」
「契約する」
光が広がり。
すぐに消えた。
「終わり?」
「終わりだ」
何も変わった感じはしない。
リナは机に置いてあった焼き菓子を取った。
いつも買っているものだ。
「じゃあ確認」
一口。
「…………」
噛む。
もう一度噛む。
「……え?」
甘くない。
香ばしくもない。
舌触りはある。
サクサクしていることも分かる。
鼻から抜ける焼き菓子の香りも感じる。
なのに。
味だけがない。
「何これ……」
「味覚を失った」
「分かってるけど」
もう一口。
やはり同じ。
いつもなら好きな甘さが広がるはずなのに、口の中にあるのは、ただの乾いた塊だった。
「……美味しくない」
「味覚がないからな」
「いや……うん」
想像していたのとは違った。
味が分からなくなる。
ただそれだけだと思っていた。
少しつまらないくらいだろうと。
リナは残りの焼き菓子を見た。
さっきまで食べたかったはずなのに。
「……もういらない」
袋を閉じた。
◇
翌朝。
リナは食堂で朝食を前にしていた。
パン。
卵。
温かいスープ。
いつもと同じ。
「いただきます」
まずスープを飲む。
「…………」
温かい。
具材の柔らかさも分かる。
でも味がない。
パンを食べる。
もそもそしている。
卵も食べる。
柔らかい。
それだけ。
「……うわぁ」
思わず手が止まる。
昨夜の焼き菓子だけならまだよかった。
食事全部がこれなのか。
空腹なのに、食べたいと思えない。
「食べないと」
自分に言い聞かせてパンを口へ運ぶ。
飲み込む。
次。
また飲み込む。
食事ではなく、身体に必要なものを詰め込んでいるようだった。
「一週間……」
昨日は簡単に言った。
一週間くらい。
だが一日に三回。
七日なら二十回以上もこれを続けることになる。
「……長いな」
それでも睡眠よりはまし。
そう思うことにした。
◇
「出発!」
教師の合図で森へ入る。
最初の一時間ほどは何も起きなかった。
「静かだね」
エマが言う。
「魔物いない方が楽だけど」
「実習にならないよ」
「それはそう」
少し進む。
草むらが揺れた。
「何かいる」
三人が足を止める。
狼に似た魔物が二体飛び出してきた。
「右お願い!」
「分かった!」
エマが一体へ魔法を放つ。
リナも杖を構える。
「《火球》!」
炎が飛ぶ。
魔物へ直撃。
一撃で倒れる。
「相変わらず威力すごいな」
男子生徒が感心したように言う。
「ちょっと抑えたよ」
「それで?」
もう一体もエマが倒す。
リナは身体の中を確かめる。
まだ魔力がある。
自分自身の小さな魔力。
そして契約で手に入れた、もう一つの魔力。
「……よし」
ちゃんと使える。
契約した意味はあった。
◇
二度目。
三度目。
森を進むにつれ、戦闘が増える。
「《炎壁》!」
魔物の突進を炎の障壁で止める。
「エマ!」
「任せて!」
横から飛んだ水弾が魔物を倒す。
リナは障壁を解除した。
「リナ、今日すごいね」
「そう?」
「全然息切れしてない」
「まあね」
嬉しい。
以前なら、とっくに座り込んでいた。
今日はちゃんと仲間と同じだけ戦えている。
契約してよかった。
そう思った。
少なくとも、この時までは。
◇
昼休憩。
「お腹空いたー」
エマが嬉しそうに弁当を開ける。
「今日は燻製肉多めに持ってきたんだ」
「いいな」
「リナも食べる?」
一切れ差し出される。
いつもなら喜んでもらっていた。
「……いい」
「え?」
「自分のあるから」
「珍しいね」
リナも弁当を開く。
朝、自分で用意したもの。
パン。
チーズ。
肉。
空腹ではある。
午前中ずっと歩いて戦っていたのだから当然だ。
なのに。
全く食べたいと思えなかった。
「…………」
パンをちぎる。
口へ入れる。
噛む。
やはり何もない。
ぱさぱさした感触だけ。
水で流し込む。
次は肉。
噛み切る感触。
脂の感触。
でも味がない。
「……気持ち悪い」
「え?」
エマがこちらを見る。
「あ、いや」
「どうしたの?」
「ちょっと食欲なくて」
「朝もちゃんと食べた?」
「食べたよ」
嘘ではない。
無理矢理。
「体調悪いんじゃない?」
「大丈夫」
「顔、全然美味しそうじゃないよ」
「今日の私の弁当、失敗したのかも」
「じゃあこれ食べる?」
エマが先ほどの燻製肉をもう一度差し出した。
「美味しいよ」
リナは少し迷った。
受け取る。
「ありがとう」
一口。
「…………」
「どう?」
「……美味しい」
嘘をついた。
本当は何の味もしない。
エマが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、リナは急に嫌になった。
いつもなら。
「これ美味しいね」
「でしょ?」
そんなやり取りをしていた。
今はできない。
同じものを食べているのに、自分だけ何も感じない。
「…………」
残りの肉を飲み込む。
昨日まで。
食事なんて毎日当たり前にしていた。
味がすることなんて、意識したこともなかった。
なくなって初めて。
思っていたよりずっと大きなものだったと分かった。
「……あと六日」
「何が?」
「何でもない」
睡眠よりはまし。
そう思いたかった。
でも。
これはこれで、かなりつらかった。
◇
午後。
最後の指定地点へ向かう途中。
前方から大きな物音がした。
「何?」
三人が立ち止まる。
木々の間から巨大な猪型の魔物が飛び出してきた。
「これ、低級?」
「違う!」
男子生徒が叫ぶ。
「中級だ!」
魔物が地面を蹴る。
「散って!」
三人が左右へ飛ぶ。
巨体が木へ激突した。
「先生呼ぶ?」
「救難魔法を!」
男子生徒が信号魔法の準備に入る。
魔物が方向を変えた。
次の標的はエマ。
「エマ!」
「分かってる!」
水弾が飛ぶ。
甲殻へ当たるが、ほとんど効かない。
そのまま突進する。
「《炎壁》!」
リナが間へ入った。
炎の障壁。
激突。
「っ!」
足が地面を滑る。
「リナ!」
「大丈夫!」
魔力を流す。
障壁が厚くなる。
まだある。
まだ使える。
「下がって!」
炎壁を横へずらす。
魔物の進路が逸れる。
「今!」
エマが魔法を撃つ。
リナも杖を向けた。
「《火球》!」
炎が魔物の側面へ直撃。
爆発。
巨体が倒れる。
だが、また起き上がろうとする。
「まだ!」
もう一度。
「《火球》!」
頭部へ直撃。
今度こそ動かなくなった。
「…………」
静かになる。
「倒した……」
リナは杖を下ろした。
まだ立っていられる。
まだ魔力も残っている。
「すご……」
男子生徒が倒れた魔物を見る。
「中級だぞ」
「三人で倒したんだから」
「いや、ほとんどリナだろ」
「エマもいたし」
「私はあんまり効いてなかったよ」
エマが笑う。
「でも、ありがと」
「うん」
その言葉は嬉しかった。
契約したから守れた。
もし契約していなければ。
今日も途中で魔力切れになっていたかもしれない。
そう考えれば。
味覚くらい。
我慢する価値はあった。
遠くから教師の声が聞こえてきた。
信号を見て、こちらへ向かっているらしい。
◇
実習終了後。
教師からはかなり褒められた。
想定外の魔物が出たことについて、学園側から謝罪もあった。
そしてリナたち三人には高い評価がついた。
◇
夜。
寮へ戻ったリナは、食堂で夕食を受け取った。
今日の献立はシチューだった。
「あ……」
好きなものだった。
いつもなら少し嬉しくなる。
席に座る。
一口食べる。
「…………」
温かいだけだった。
具材を噛む。
何もない。
周囲では生徒たちが、
「今日の美味しいね」
「肉多い」
などと話している。
リナは黙ってスプーンを動かした。
一口。
もう一口。
だんだん食べること自体が嫌になってくる。
「……もういい」
半分ほど残して立ち上がった。
◇
「ただいま」
「戻ったか」
悪魔は窓際にいた。
リナはベッドへ倒れ込んだ。
「今日ね、中級の魔物倒した」
「そうか」
「契約してなかったら危なかったかも」
悪魔は黙ってリナを見ていた。
「だから……契約してよかった」
否定も肯定も返ってこなかった。
「でも」
枕へ顔を埋める。
「味覚ももう嫌」
悪魔がこちらを見る。
「一週間だけだ」
「分かってる」
「契約通りだ」
「それも分かってる」
何も間違っていない。
自分で選んだ。
一週間なら平気だと思った。
「食べるのって、味がしないとこんなにつまらないんだね」
「私は食事を必要としない」
「……聞く相手間違えた」
リナは寝返りを打つ。
「睡眠も嫌」
「味覚も嫌」
「血はもっと嫌だし」
悪魔は何も言わなかった。
どれも、すでに提示した対価だった。
選ぶのはリナだ。
どれも嫌だった。
力は欲しい。
でも対価はつらい。
「もっと楽なのないのかな……」
ぽつりと呟く。
悪魔は答えなかった。
候補は、すでに説明してある。
リナ自身も覚えている。
その中に。
今はまだ選びたくないものが、一つあった。
寿命。
払っても痛くない。
食事もできる。
眠ることもできる。
今日の自分には何も起こらない。
けれど。
「……それは駄目」
リナは小さく呟いた。
まだ。
そう思えていた。




