第39話 残高
悪魔は変わらない調子で答えた。
リナの記憶にある悪魔は、机の上に座れるほど小さかった。
今、目の前に立つ姿はリナよりも大きい。
伸びた角。背を覆う翼。細かった手足にも、人間とは違う力強さがある。
初めて見る者なら、恐ろしいと思うのかもしれない。
だが、リナにはいつもの悪魔にしか見えなかった。
『いつの間に?』
「契約で得た対価を使った」
『ふうん』
もう少しゆっくり見てみたい。
そう思ってから、今がそんな場合ではなかったことを思い出す。
視界の端では、クラリスの雷が止まっている。
自分へ伸びた捕縛鎖も、杖から離れかけた水の帯も、空中に縫い付けられていた。
『これ、時間を止めてるの?』
「そうだ」
『そんなこともできるようになったんだ』
「契約交渉中に限る」
『じゃあ、今のうちに逃げるのは?』
「できない」
悪魔が即答する。
「止まっているのは周囲だけではない。お前の身体も同じだ」
試しに指を動かそうとした。
動かない。
呼吸も、瞬きもできていない。
考えることだけができる。
「交渉が終われば、時間は再び動き出す」
『そっか』
それなら、状況は何も良くなっていない。
時間が動けば、クラリスの雷が届く。
捕縛鎖も、水の帯も来る。
杖は手から離れかけ、外付けの魔力も残り少ない。
「このままでは、お前は捕縛される」
『うん。そうみたいだね』
「回避する手段はある」
悪魔はリナを見下ろした。
「新たな契約を提案する」
『何を払えばいいの?』
「お前が現在、使用権を持つ寿命の大部分だ」
リナはすぐには返事をしなかった。
『……大部分?』
「わずかな残量を除き、使用する」
『結構貯めたんだけど』
「そうだな」
『それで、何をくれるの?』
「魔力。肉体の強度。反応速度。魔力を扱う器の強化」
悪魔は淡々と並べた。
「お前が持つ火と雷の適性も、増加した魔力に耐えられるよう補強する。配分は、現在の包囲を突破するために必要な形へ調整する」
『色々まとめてってこと?』
「そうだ」
『どれがどのくらい?』
「事前に正確な比率を示すことはできない。だが、契約が成立すれば、現在のお前を大きく上回る力を得る」
契約魔力だけを増やしても、身体が扱いきれなければ意味がない。
雷魔法を得た時にも、適性だけでは使いこなせなかった。
だから必要なところへ、必要なだけ使う。
悪魔の説明は理解できた。
問題は、支払う量だった。
『ほとんど使うんだよね』
「そうだ」
『全部じゃない?』
「最低限の残量は残る」
『でも、ほとんどか……』
犯罪者を倒した。
助けを求める者へ力を与えた。
契約を重ね、少しずつ増やしてきた。
使える寿命の残高を確認するたび、増えていることが嬉しかった。
何かあっても大丈夫だと思えた。
それを一度にほとんど使う。
もったいない。
『ほかに安い方法は?』
「ない」
『もう少し少なくしても勝てない?』
「包囲を抜けるだけなら、消費を抑えられる可能性はある」
『じゃあ――』
「ただし、成功は保証できない」
悪魔は勧めない。
止めもしない。
使えば逃げられる。
使わなければ捕まる。
ただ、それだけを示している。
クラリスが言っていたことを思い出す。
契約者を解放する。
他人の寿命を手放す。
悪魔との契約を止める。
ここで捕まれば、せっかく貯めたものを使えないまま奪われる。
それなら。
『使わないで取られる方が、もったいないよね』
「価値の判断は、お前が行うものだ」
誰の寿命が、どれほど減るのか。
そこまで確かめようとは思わなかった。
今までだって、使える総量だけ見てきた。
今回も同じだった。
『分かった。使う』
「契約内容を確認する」
暗い光が、リナの視界の内側に広がった。
「お前が現在使用できる寿命の大部分を、対価として受け取る。わずかな残量は保持する」
『うん』
「私はその対価を、お前の契約魔力、肉体、反応、魔力を扱う器、火および雷の適性の強化へ変換する」
『うん』
「強化の配分は私が行う。得た契約魔力は使用によって減少するが、器と肉体へ施した強化は残る」
『うん』
「契約するか?」
『契約する』
魔法陣が光った。
身体は動かない。
それでも、何かが自分の中へ流れ込んでくるのが分かった。
底の見えない魔力。
それを受け止められるように、身体の内側が作り替えられていく感覚。
痛みはない。
ただ、自分がどこまでも大きくなったような気がした。
「契約は成立した」
悪魔が一歩下がる。
「交渉を終了する」
音が戻った。
◇
雷鳴が弾けた。
水の帯が右腕を引き、杖が指から抜ける。
正面から捕縛鎖が迫る。
そのすべてが、ひどく遅く見えた。
「《炎壁》」
空いた左手を振る。
炎が爆発した。
壁と呼ぶには大きすぎる炎が半球状に広がり、捕縛鎖を弾き飛ばす。
右腕に絡んだ水は一瞬で蒸発した。
クラリスの雷さえ、炎の向こうで砕けて消える。
落ちていく杖へ手を伸ばした。
床へ触れる寸前でつかむ。
「……何、これ」
身体が軽い。
魔力が多いだけではない。
考えた通りに身体が動き、流した魔力が少しも暴れない。
以前なら集中しなければ形にできなかった威力を、息をするように扱える。
「リナ!」
クラリスの声で顔を上げる。
警備隊は既に次の陣形へ移っていた。
「第二陣、前へ! 接地杭を維持! 捕縛術式を再展開!」
火に強い盾が並ぶ。
床から何本もの接地杭が伸び、上空には水の網が広がった。
さっきまでなら、どこから崩すかを考えた。
今は考える必要がなかった。
「《雷撃》」
白い雷が杖の先から放たれる。
接地杭が光った。
一つ、二つ、三つ。
吸収しきれなかった雷が杭を内側から砕き、床を走って捕縛術式を焼き切る。
続けて杖を横へ振った。
「《炎波》」
熱風が訓練場を駆け抜けた。
盾は溶かさない。
人も焼かない。
ただ、構えていた者たちをまとめて押し返す。
隊列が崩れたところへ、細い雷をいくつも落とした。
「うっ――」
「が……!」
警備隊員たちが次々に膝をつく。
死なない程度。
動けなくなるだけの威力。
今のリナには、その調整さえ簡単だった。
「全員、下がって!」
クラリスが前へ出る。
五本の雷槍が、その背後に浮かんだ。
「まだ間に合う! その力を止めて、こちらへ来なさい!」
「嫌です」
「それがどれほど危険な力か、分かっているの!?」
「分かってますよ」
雷槍が一斉に放たれる。
リナも杖を向けた。
炎と雷が正面から衝突する。
轟音。
訓練場の窓がまとめて割れた。
競り合ったのは、ほんの一瞬だった。
リナの炎が雷槍を飲み込み、そのままクラリスの目前まで迫る。
炎は直前で二つに割れた。
代わりに足元が爆ぜる。
「くっ……!」
クラリスの身体が宙へ投げ出された。
雷を地面へ流して落下の勢いを弱めたものの、受け身を取ったまま膝をつく。
「この威力で加減を誤れば、人が死ぬ……!」
「殺しませんよ」
リナは本気で答えた。
「私、そんなに悪い人じゃないので」
クラリスが息を呑む。
その表情が、なぜか少し悲しそうに見えた。
リナは訓練場を囲む結界へ杖を向ける。
内側の捕縛結界。
その外側にある、もう一枚の捕縛結界。
二枚をまとめて壊せばいい。
「《爆炎》」
凝縮した炎が結界の一点へ突き刺さる。
内側の膜に亀裂が走った。
さらに雷を重ねる。
亀裂から光が広がり、二枚の結界が続けて砕けた。
夜の空気が流れ込んでくる。
出口が開いた。
「待ちなさい、リナ!」
背後でクラリスが立ち上がる気配がした。
リナは振り返る。
もっと怒っていると思っていた。
けれどクラリスは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「クラリス先輩とは、もっと普通に仲良くしていたかったです」
「なら――」
「でも、先輩は私が集めたものを全部捨てろって言うから」
もう戻れない。
学園にも、寮にも。
エマにも、もう会えない。
『エマだから』
秘密保持を付けなかった時のことを思い出す。
信じていたのに、エマはクラリスへ話した。
それでも、助けたことを後悔してはいなかった。
エマに死んでほしくなかった気持ちは、今も変わらない。
ただ、もう以前のようには戻れない気がした。
それでも、捕まるつもりはなかった。
「さようなら、クラリス先輩」
リナは壊れた結界を越えた。
雷をまとい、夜の街の上を駆ける。
追ってくる者はいなかった。




