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第37話 私のもの

「私が払ったんです」


 クラリスは、すぐには言葉を返さなかった。


「悪魔に、記憶を要求されたのではないのか?」


「違います」


 リナは隣に浮かぶ悪魔を見た。


 悪魔は何も言わない。


 自分に都合のいい説明を加えることも、リナへ答えを促すこともなかった。


「母さんが死んだと聞いて、何も考えられなくなって。それで、私から記憶でも契約に使えるか聞きました」


「どの記憶を渡すかも、君が決めたのか?」


「今の私を一番悲しくさせている記憶、と指定しました」


 あの夜、自分が泣いていたことは覚えている。


 胸が苦しくて、少しでも楽になりたかったことも。


 ただ、その苦しみを生んでいたものだけが、今はもう分からない。


「一度渡した記憶は返せないことも、契約する前に説明されました」


「それを理解したうえで契約したのか?」


「説明されたことは覚えています。でも、あの時はちゃんと聞いてませんでした」


「なら、正常に判断できる状態ではなかったはずだ」


「聞かなかったのは私です」


 リナの答えに迷いはなかった。


「あの子は、記憶を払えとは言ってません。返せないことも隠してません。嘘もついてません」


「だが、結果として君は最も大切な記憶を失った」


「どの記憶が条件に当てはまるかは、あの子も知らなかったんです」


「知らなかった?」


「指定した条件に合う記憶を受け取っただけで、中身までは分からないそうです」


 母の手紙を見つけるまで、リナにも分からなかった。


 怒られたことは覚えている。


 学費や仕送りを送ってくれたことも覚えている。


 それなのに、一緒にいて幸せだった記憶だけが残っていなかった。


「だから、あの子は何も悪くありません」


 クラリスは、リナの隣へ目を向けた。


 そこにいるはずの悪魔は、クラリスには見えていない。


「返してもらいたいとは思わないのか?」


「返せないので」


「もし、方法が見つかるとしたら?」


 リナは少し考えた。


 なくなったものが戻るなら、それを拒む理由はない。


 だが、戻るかどうかも分からないものに、今あるものまで払うつもりはなかった。


「何を払うかによります」


 クラリスの表情が曇った。


「記憶を取り戻すことにも、対価が必要だと考えるのか」


「契約なら、そうですよね?」


「悪魔との契約以外の方法を探す」


「見つかるといいですね」


 リナは本心からそう答えた。


 それ以上、その話を続ける理由はなかった。


 クラリスはしばらく黙ったあと、別の質問をした。


「義賊として捕らえた者たちとも、契約を結んだのだな?」


「はい」


「その者たちからも寿命を取った?」


「契約に必要な分を払ってもらって、残りの寿命を使えるようにしました」


「何人と契約した?」


「分かりません」


「分からない?」


「人数は、もう数えてないので」


 一人ずつ残り寿命が違う。


 重要なのは、誰から何年使えるかではなく、全部合わせてどれほど使えるかだった。


「使える寿命の総量は分かります」


「これまで、何に使った?」


「自分の寿命を増やしたのと、雷属性の適性を得るためです。それから、エマを助ける時にも使いました」


「あの事故で、君がエマの命を救ったことは否定しない」


「だったら、何がいけないんですか?」


「エマを助けたことではない。その支払いとして、事故と無関係な人々の寿命を使ったことだ」


「使っていいって契約した寿命です」


「誰から、どれほど使ったかも確認しなかったのだろう?」


「誰も死なないように分けてもらいました」


「そういう問題ではない」


「同じですよ」


 エマは生きている。


 契約者たちも、あの支払いで死んではいない。


 それなのにエマはクラリスへ相談し、クラリスは間違っていると言う。


「エマは、私に助けてほしいと話した」


「私は、もう助けました」


「悪魔契約から君を助けてほしい、という意味だ」


「頼んでません」


 リナは杖を握り直した。


「秘密保持を付けなかったのは、エマを信じていたからです」


「彼女も君を信じている。だから、契約を続ける君を放っておけなかった」


「勝手ですね」


「今も残っているのか?」


「はい。必要な時のために貯めています」


 クラリスは目を閉じ、長く息を吐いた。


「リナ。今後、他人の寿命を使わないと約束してくれ」


「どうしてですか?」


「他人の命だからだ」


「命をそのまま取ってるわけじゃありません。一人から取りすぎなければ、死なないように使えます」


「死ななければ、何年奪ってもよいことにはならない」


「奪ってません。契約です」


「その契約を、どうやって結ばせた?」


 リナはすぐには答えなかった。


 犯罪者には、殺さず警備隊へ渡す代わりに契約を求めた。


 薬草採集者には、救援を呼ぶ条件として契約を提示した。


 どちらも、断ることはできた。


「全員、自分で契約すると答えました」


「生きたければ契約しろと迫られての同意は、自由な同意ではない」


「でも、犯罪者ですよ」


「犯罪者なら、君が寿命を取ってよいのか?」


「私は殺してません」


「そういう話ではない」


「同じです」


 リナはクラリスを見返した。


「殺せた人も殺さずに捕まえました。警備隊に渡して、町の人を助けました」


 依頼を待たず、自分で悪人を探した。


 警備隊が証拠をそろえられなかった相手も倒した。


「力がなくて困っている人には、契約で力も渡しました。あの人たちから、私はお金も寿命も受け取ってません」


「それも調べている」


 クラリスは否定しなかった。


「工房の青年が妹を助けたことも、君に感謝している者がいることも知っている。君がしたことのすべてを、悪事だと言うつもりはない」


「だったら――」


「だが、善い行いをしたことは、ほかの行いまで正しくはしない」


 クラリスの声は静かだった。


「犯罪者を捕らえたことは評価する。だが、その処分を君一人で決めることはできない」


「処分じゃありません。契約です」


「呼び方を変えても同じだ」


「違います」


「では、消えた財物はどう説明する?」


 リナの口が止まった。


「義賊が襲った拠点では、金貨や宝石だけでなく、盗品までなくなっている。被害届に記録された品と一致するものもあった」


「犯罪者が持っていたものです」


「元の持ち主がいる」


「貴族や、お金持ちの商人ですよね」


「誰の物であっても、所有者へ返すべきだ」


「私が危険な思いをして倒したんです。警備隊に全部渡したら、私には何も残りません」


「だから自分の物にしてよい理由にはならない」


「町の人は喜んでました」


「盗品が戻っていないことを、多くの市民は知らない」


「クラリス先輩は知ってるんですね」


「警備隊の調査へ協力しているからだ。義賊を称賛する市民を責めるつもりはない。彼らは、身近な犯罪者がいなくなった結果を見ている」


「結果は出ています」


「ああ。だからこそ、止めるのが遅れた」


 クラリスは、リナの善行を否定しない。


 犯罪者を減らした結果も、人を助けた事実も認めている。


 それなのに、リナが得たものだけは返せと言う。


 エマまで、クラリスへ自分の秘密を話した。


 エマの命を救うために使ったものまで、間違いだったことにされている。


「契約者たちを解放してくれ」


「解放?」


「今後、他人の寿命を使わない。残っている寿命の使用権を手放す。秘密保持や行動制限を含め、契約を安全に終了させる方法を、学園と魔術機関で調べる」


「強制解除で、一人死んだんですよね」


 クラリスの表情が固くなる。


「知っていたのか?」


「契約が切れた時に、悪魔から聞きました」


「同じことはしない。君にも協力してもらい、安全な方法を探す」


「その間、私はどうなるんですか?」


「学園の保護区画へ移ってもらう。悪魔との新しい契約も止め、接触を断つ方法を調べる」


「保護って、閉じ込めることですよね」


「君と契約者を守るためだ」


「嫌です」


 返事はすぐに出た。


「どうしてだ?」


「私が集めたものだからです」


 正規の依頼をこなした。


 襲撃を受けたこともある。


 夜の町を歩き、何日も犯罪者の拠点を見張った。


 魔力を使い、怪我をする危険を負って、一つずつ契約を増やした。


「それを全部捨てろって言うんですか?」


「捨てるのではない。本人へ返すんだ」


「もう使った分は戻りません」


「残っている分だけでもだ」


「もったいないです」


 クラリスの眉が動いた。


「人の寿命だぞ」


「だから、使えるんです」


 血や睡眠や味覚と違って、貯めておける。


 必要になるまで減らない。


 魔力にも、属性にも、自分の寿命にも変えられる。


「誰も死なないように使えばいいんです。私はずっと、そうしてきました」


「一人、死んでいる」


「私が寿命を使ったからじゃありません。勝手に契約を壊そうとしたからです」


「本人が解除を拒んでいたことは分かっている。それでも、その契約がなければ起きなかった死だ」


「それを私のせいにするんですか?」


「責任がないとは言えない」


 リナは杖を強く握った。


「弱かった頃は、先輩も私を褒めてくれましたよね」


「今も、君の努力と才能を否定していない」


「でも、強くなったら止めるんですね」


「強さを問題にしているのではない」


「私は先輩の雷魔法に憧れて、頑張って雷属性を手に入れました。犯罪者を捕まえて、人も助けました。学園や警備隊ができなかったことも、私ならできました」


「リナ」


「私が先輩より上手くやったのが、気に入らないんですか?」


 クラリスの目が見開かれた。


「そんなことを考えたことはない」


「弱かった私なら、先輩の言うことを聞いたからですか?」


「違う」


「今は先輩より強くなって、先輩よりたくさんの人を助けられる。だから、私のやり方だけ間違っていることにしたいんですよね」


「違う、リナ」


 クラリスははっきり否定した。


「君が強くなったことを、私は嬉しく思っていた。今でも、その力も努力も認めている」


「だったら、私から取らないでください」


「それはできない」


「ほら」


 リナは小さく笑った。


 やはり、分かってもらえない。


 自分が弱かった頃に憧れたクラリスは、正しいことをすれば認めてくれる人だと思っていた。


 だが、リナが結果を出しても、クラリスは自分たちの決まりを優先する。


「もう、話すことはありません」


 リナは入口へ身体を向けた。


「リナ」


 クラリスの声が、背中へ届く。


「それでも、ここで止める」


 訓練場の扉が、重い音を立てて閉じた。


 床と壁に隠されていた術式が、一斉に青く光る。


 観覧席の奥。


 器具庫の陰。


 訓練場を囲む通路。


 誰もいないように見えた場所から、警備隊員たちが現れた。


 杖を持つ対魔法部隊。


 大盾と拘束鎖を構えた捕縛班。


 外周には、契約術の専門家と救護担当が待機している。


 二重の捕縛結界が、訓練場を覆った。


「最初から、このつもりだったんですね」


「君が自分から協力してくれることを望んでいた」


「断ったら、力ずくで言うことを聞かせるつもりだったのに?」


「契約者たちを危険な状態のままにはできない」


 クラリスが杖を構えた。


「リナ。杖を置いてくれ」


「嫌です」


「殺してはならない!」


 クラリスの声が、訓練場全体へ響いた。


「全員、捕縛を優先しろ!」


 四方から銀色の拘束鎖が放たれる。


 リナは杖を振り上げた。


「《炎壁》!」


 炎が立ち上がり、最初の鎖を弾き飛ばした。


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