第2話 弱小悪魔
寮の自室に戻ったリナは、机の上へ古びた本を置いた。
「……本当にやるの?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
当然、返事はない。
図書館で見つけてから、ずっと迷っていた。
本に書かれていたのは、外部の存在を呼び出して契約を結ぶ召喚術。
その対価として、魔力や何らかの力を得ることができるらしい。
怪しい。
ものすごく怪しい。
だからこそ、普通なら使わない。
「でも、あと二週間なんだよね……」
進級試験。
そこで失敗すれば退学。
魔力量を増やす普通の方法は、ほとんど調べ尽くした。
どれも二週間では間に合わない。
高価な魔力回復薬を毎回使う金もない。
リナは本を開いた。
古い文字を、指で追っていく。
「魔法陣を描いて……触媒……」
必要なものは意外と普通だった。
蝋燭。
少量の塩。
自分自身の血。
「血……」
そこだけ少し嫌だった。
ただし、必要なのは数滴だけらしい。
「これくらいなら……」
指先に小さく針を刺す。
「痛っ」
滲んだ血を、紙に描いた魔法陣の中央へ落とす。
一滴。
二滴。
三滴。
本に書かれた手順を確認する。
蝋燭に火をつける。
窓を閉める。
部屋の明かりを消す。
「……これでいいのかな」
魔法陣の前に座る。
急に怖くなってきた。
悪魔。
名前だけなら、あまり良いものではない。
子供の頃にも、
『悪いことをすると悪魔に連れていかれるよ』
などと母に言われたことがある。
「……いやいや」
リナは首を振る。
ただの昔話だ。
そもそも本当に召喚できるかも分からない。
古い本に書かれた術式なのだから、もう使えなくなっている可能性だってある。
試してみるだけ。
危なそうなら、すぐやめればいい。
「よし」
リナは魔法陣へ手を置いた。
本に書かれている文章を読み上げる。
「境界の外に住まう者よ」
何も起きない。
「我が声を聞き、我が前へ姿を現せ」
蝋燭の炎が揺れた。
「……え?」
窓は閉めている。
それなのに炎が大きく傾く。
魔法陣が淡く光り始めた。
「う、嘘」
本当に?
リナが立ち上がろうとした瞬間。
蝋燭の炎が一斉に消えた。
「きゃっ!」
部屋が真っ暗になる。
直後。
魔法陣の中央から、黒い煙が噴き出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて後ずさる。
煙が天井近くまで膨れ上がる。
机の上に積んでいた本が落ちた。
カーテンが大きく揺れる。
リナは杖を取った。
やっぱりまずかった。
絶対にまずかった。
今すぐ攻撃魔法を――。
黒煙が消えた。
「…………」
リナは杖を構えたまま固まった。
魔法陣の中央に、何かいる。
黒い。
小さい。
角がある。
だが。
「……小さくない?」
リナの膝より少し高い程度だった。
人型ではある。
黒い身体。
額には小さな角。
背中には蝙蝠のような翼。
尻尾もある。
どう見ても、絵本に出てくる悪魔に近い。
ただし。
「……子供?」
「違う」
「喋った」
「召喚したのはお前だろう」
低い声でもない。
威圧感もない。
普通だった。
悪魔は周囲を見回した。
「ここは人間の住居か」
「う、うん」
「狭いな」
「寮だから仕方ないでしょ」
「そうか」
悪魔はそれ以上興味を示さなかった。
リナは杖を下ろさないまま聞く。
「あなた……悪魔?」
「そうだ」
「本当に?」
「そうだ」
「証拠は?」
悪魔がリナを見る。
「お前は何を召喚したつもりだった?」
「……悪魔」
「なら問題ない」
「いや、そうだけど」
もっと恐ろしいものを想像していた。
巨大な角。
鋭い牙。
見るだけで震えるような怪物。
それなのに目の前にいる悪魔は、どう見ても小さい。
「弱そう」
「弱い」
「認めるんだ」
「事実だからな」
悪魔は淡々と答える。
「私は下位の悪魔だ。今のお前が呼び出せる程度の存在でもある」
「私が弱いから?」
「そうだ」
「なんか腹立つ」
「事実だ」
「ぐっ……」
少なくとも、今すぐ襲ってくる様子はない。
リナは少しだけ警戒を解いた。
「それで……」
「何だ」
「本に書いてあったんだけど」
古い本を持ち上げる。
「契約すれば、魔力をくれるの?」
「可能だ」
即答だった。
リナの表情が変わる。
「本当に?」
「望む量と、支払える対価次第だ」
「対価……」
「契約には対価が必要だ」
悪魔は魔法陣から一歩出た。
「お前は何を望む?」
「魔力」
「どの程度だ」
リナは少し考える。
「進級試験を突破できるくらい」
「分からない」
「え?」
「私はその試験を知らない」
「あ、そっか」
当然だった。
リナは説明する。
「攻撃魔法、障壁魔法、それからもう一回攻撃魔法。全部続けて使わないといけないの」
「今のお前では?」
「一発でほとんど空になる」
「なるほど」
悪魔がリナを見る。
何かを確認しているようだった。
「確かに少ないな」
「分かるの?」
「魔力量は見れば分かる」
「……そんなに?」
「少ない」
「もういいよ」
落ち込む。
しかし悪魔は続けた。
「だが威力は高い」
「え?」
「一度に扱える魔力量と変換効率は悪くない」
リナは顔を上げた。
「じゃあ」
「足りないのは総量だけだ」
「やっぱり!」
思わず身を乗り出す。
教師にも似たことを言われてきた。
才能がないわけではない。
ただ、魔力が少なすぎる。
「そこを補える?」
「対価があれば」
悪魔は変わらない調子で答えた。
「何を払えばいいの?」
「いくつかある」
悪魔が指を一本立てる。
「血」
「血?」
「お前の血液を対価とする」
もう一本。
「魔力」
「魔力をもらうために魔力を払うの?」
「契約後の一定期間、魔力回復能力を低下させる」
「それだと試験後が大変そう……」
「そうだな」
さらに一本。
「感覚」
「感覚?」
「味覚。嗅覚。場合によっては視覚や聴覚」
「それは嫌」
「なら選ばなければいい」
「他は?」
「睡眠」
「睡眠?」
「一定期間、睡眠による休息を得られなくする」
リナは顔をしかめる。
「それ絶対つらいやつじゃん」
「おそらく」
「おそらくなの?」
「私は眠らない」
「……そっか」
悪魔が最後に言った。
「寿命」
リナの表情が止まる。
「……寿命?」
「そうだ」
「何年?」
「望む魔力量による」
「払ったらどうなるの?」
「その分だけ早く死ぬ」
「嫌」
即答した。
「寿命は嫌」
「分かった」
「もっとこう……お金とかないの?」
「可能だが価値は低い」
「金貨なら?」
「大量に必要になる」
「どれくらい?」
悪魔が金額を告げた。
リナは黙った。
「……無理」
「そうか」
「全財産でも足りない」
「なら別のものにすればいい」
簡単に言う。
リナは腕を組んだ。
寿命。
それだけは怖い。
何年生きられるのかなんて誰にも分からない。
ただでさえ母を楽にするために魔法使いになろうとしているのに、卒業するために自分が早死にするのは違う気がする。
「睡眠なら?」
「必要な魔力なら、七日分」
「七日寝られないってこと?」
「眠ることはできる」
「え?」
「眠っても休息できない」
「……それ大丈夫なの?」
「死にはしない」
「基準が怖いよ」
それでも。
寿命よりはいい。
七日なら終わる。
味覚を失うよりも、まだ我慢できそうだった。
「……それで」
「何だ」
「今、魔力をもらえる?」
「可能だ」
「これだけあれば、試験は最後までできる?」
「お前が説明した内容なら足りるだろう」
悪魔は嘘をついているようには見えない。
そもそも表情がほとんどない。
リナは机の上に置かれた母の手紙へ視線を向けた。
退学はできない。
二週間後。
それまでに何とかしなければならない。
「七日……」
七日つらいだけ。
それで進級できる可能性がある。
なら。
「契約する」
「確認する」
悪魔の足元に、小さな魔法陣が浮かんだ。
「お前は七日分の睡眠による休息を対価として差し出す」
「うん」
「私はお前へ、対価に見合う量の魔力を譲渡する」
「うん」
「契約するか?」
一瞬だけ迷った。
けれど。
「する」
リナが答えた瞬間。
魔法陣が光った。
「っ!」
胸の奥を何かが通り抜けたような、不思議な感覚。
痛くはない。
熱くもない。
光が消える。
「……終わり?」
「終わりだ」
「本当に?」
「契約は成立した」
リナは自分の手を見る。
何も変わっていない。
身体も普通。
「魔力は?」
「使ってみろ」
リナは杖を持った。
寮の部屋で攻撃魔法を使うわけにはいかない。
代わりに、小さな炎を出す。
「《灯火》」
杖の先に炎が灯る。
いつもなら分かる。
魔法を使ったことで、身体の中の魔力が減った感覚。
だが。
「……まだある」
「当然だ」
もう一度。
「《灯火》」
消して、また出す。
もう一度。
「《灯火》」
いつも使っている魔力とは別に、身体の内側に新しい溜まりがあるような感覚がした。
そこには、まだ魔力が残っている。
「すごい……」
リナの顔に笑みが広がった。
「まだ使える」
「そういう契約だ」
「これ、使ったら減るんだよね?」
「当然だ。使えば減る」
「自然には戻らない?」
「戻らない」
「七日が終わったら、残りは消える?」
「消えない。譲渡した時点でお前のものだ」
「じゃあ、試験まで取っておかないと」
これ以上《灯火》を使うのをやめ、リナは杖を置いた。
今まで一番欲しかったものが、自分の中にある。
「これなら……」
試験を突破できる。
退学しなくて済む。
卒業できる。
魔法使いになれる。
母を楽にできる。
「できるかも……!」
リナは悪魔を見る。
「ありがとう!」
「礼は不要だ」
「でも」
「対価を受け取る」
悪魔は淡々と言った。
「これは取引だ」
「……そっか」
少しくらい感謝してもいいと思うのに。
変な悪魔だった。
けれど。
リナはまだ知らなかった。
悪魔の言った通り。
契約は、すでに成立していた。
七日分の対価も。
間違いなく支払うことになる。




