第三話「リナとミナの匂い」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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甘く香ばしい匂いが、アムネシア中央資料室の冷たい空気を、今日は少しだけ負かしていた。
窓のない壁に投影された朝の光はいつも通りやわらかいのに、その下にある機械油の匂いだけが、どこか遠慮がちだ。
さっき廊下を通りかかったリナとミナが、焼きたての石焼き芋を半分に割って置いていったせいだった。
湯気を立てる黄金色の実を、もかが両手で包む。
ふー、ふー、と息を吹きかけてから、小さくかじった。
「あちっ……でも、すっごく甘いね、すずちゃん」
ほろりと崩れた芋の断面から、素朴でやさしい熱が立ちのぼる。
その匂いに撫でられるたび、資料室の硬い輪郭が少しずつほどけていくようだった。
すずは眼鏡の位置を指先で直し、古い記録帳の新しい頁を静かに開く。
万年筆の先を整え、いつもの平静な声で告げた。
「リナ、およびミナ。匂いの変遷記録を開始します」
◇
「まずは、リナちゃん」
もかは芋の皮をていねいに剥きながら、目を細めた。
匂いを思い出す時の、あの少しだけ遠くを見る顔だ。
「リナちゃんの最初の匂いはね、『地図と、乾いた土の匂い』だったの」
すずのペン先が、さらりと紙を滑る。
「地図、ですか」
「うん。ちゃんと道を知ってる匂い。でもね、自分のことだけは、どこにも書いてない地図だった」
もかはくすっと笑ったが、その声はすぐに静かになる。
「静かで、きっちりしてて、無駄がなくて。近くにいても、どこまで入っていいのか分からない匂い。……すずちゃんは、最初のリナちゃんをどう見てた?」
すずは記録帳から目を上げずに答えた。
「正確で、制御が利いていて、感情による誤差が少ない個体です。アムネシアの綻びを、最も静かに、最も継続的に処理していたと記録しています」
「うん。そういう子だった」
もかは頷き、またひと口、お芋を食べる。
「でもそれ、強いっていうより……上手だったんだよ。自分を閉じ込めるのが」
その一言で、部屋の空気がわずかに沈んだ。
「傷ついた匂いも、寂しい匂いも、誰かに触れてほしい匂いも、ぜんぶ『古い裁縫箱の乾いた匂い』の奥に隠してたの。見つからないように。迷惑をかけないように。……たぶん、傷つけないために」
すずの手が、そこでほんの一瞬だけ止まる。
「誰を、ですか」
「自分も。相手も」
もかは即答しなかった。
少し考えてから、静かに続ける。
「リナちゃん、やさしい子だから。やさしい子って、自分が痛い時ほど黙っちゃうこと、あるでしょ」
資料室の上を流れる送風の音が、短く空白を埋めた。
「ですが、完全には隠し切れなかった」
すずがそう言うと、もかは小さく笑った。
「うん。一回だけ、あふれちゃった」
「……ミナに、本音を伝えた夜ですね」
「そう」
もかの声は、今度ははっきりしていた。
「あの夜のリナちゃん、もう『地図』の匂いじゃなかった。行き先を示す紙じゃなくて、ちゃんと迷ってる人の匂いだったの。お母さんの形見の針を握って、震えてて、それでも絶対に手を離さないって決めてて……」
もかは胸の前で、何か細いものを握るように指を丸めた。
「熱かったよ。すごく。真っ直ぐで、ぎこちなくて、でも逃げない匂い。お日様みたいで、泣きそうなくらい人間だった」
すずはまぶたを伏せ、記録帳に一行ずつ置くように書きつける。
「……記録。彼女の沈黙は冷淡さではなく、防壁。自身の脆弱さを隠すためではなく、誰かをこれ以上傷つけないためのもの」
「うん」
「そして、その防壁は、ミナの前で一度だけ、自発的に解かれた」
もかは、うれしそうでもあり、少し切なそうでもある顔で頷いた。
二人の間で、石焼き芋の湯気がゆらゆらと揺れる。
まるで、あの夜にようやく外へ出られたリナの熱を、ここでもう一度肯定するみたいに。
「じゃあ、次はミナちゃん」
もかは最後のひとかけを名残惜しそうに見てから、ぱくりと口に入れた。
「ミナちゃんの匂いはね、やっぱり最初から、このお芋に似てたんだよ。あったかくて、甘くて、ちょっと焦げてて。近くにいるとほっとする匂い」
「しかし」
すずが視線を上げる。眼鏡の奥の瞳が、今度は少しだけ厳しく光った。
「記録上、彼女は『ラヴァ』としてアムネシア最下層に隔離されていました。接触対象を石化させる危険性を持ち、その熱量は破壊的と判断されていた個体です。あなたの表現とは、かなり隔たりがあります」
もかは否定しなかった。ただ、静かに頷いた。
「うん。だからね、旅のはじまりのミナちゃんの匂いは、やさしいお芋の匂いだけじゃなかったの」
その声音が少し落ちる。
「その奥に、ずっと重たいものが沈んでた。あったかいはずなのに、底のほうだけ冷たいの。自分が世界に霧を広げちゃったんじゃないか、自分が大好きなレイナさんを傷つけたんじゃないかって、何度も何度も自分を責めた匂い」
もかは、自分の胸元をそっと押さえた。
「誰かを温められる手のはずなのに、触れたら壊すかもしれないって思ってた。触れるのも怖い、触れられるのも怖い。……あれは、冷たい泥だよ。あったかい火のまわりに、ずっと貼りついて離れない泥」
すずが低く呟く。
「……罪悪感」
「うん。しかも、簡単に消えないやつ」
もかは少しだけ眉を下げる。
「ミナちゃん、ほんとはすごくやさしいのに、そのやさしさがそのまま自分を苦しめてたの。誰かが痛かったら、自分のせいだって思っちゃう子だから」
記録帳に落ちるインクの音だけが、数秒つづいた。
「では、転機は」
すずの問いに、もかはすぐ答えた。
「あの廃墟だよ」
その一言に、場の温度が微かに変わる。
「みんなの気持ちを受け取って、逃げないで、ちゃんと自分の中に通した時。リナちゃんに『あなたは悪くない』って抱きしめられた時。あの瞬間、重たかった匂いが、きれいに形を変えたの」
「……消失ではなく、変質」
「そう。なくなったんじゃないの。温もりになったの」
もかはうれしそうに、でも丁寧に言葉を選んだ。
「ミナちゃんがずっと持ってた熱が、やっと誰かを焼く火じゃなくて、誰かをあたためる火になったの。だから最後に残ったのは、このお芋みたいな匂いだけ。甘くて、やわらかくて、手のひらに置いておきたくなる匂い」
すずは、そこでようやく小さく息をついた。理解のための、短い沈黙だった。
「……なるほど」
万年筆がまた動き出す。青いインクが白い紙に静かに染み込み、言葉になる。
「二人は、互いを解放し合った」
すずは総括するように、しかし独り言にはしない声音で言った。
「リナがミナの凍てついた罪悪感を溶かし、ミナがリナの頑なな沈黙をほどいた。どちらか一方だけの救済では成立し得ない。相互的な調律です」
「うん、お揃いなんだよ」
もかは椅子の上で足を少し揺らし、嬉しそうに笑う。
「お互いに、相手のいちばん痛いところをちゃんと見つけたの。それで、そこに針を通したの。痛いまま終わらせないように、新しい関係になるように、縫い合わせたの」
すずはその言葉を繰り返すように、静かに口の中で転がした。
「……針を通す」
「リナちゃんの針と、ミナちゃんの火。ぜんぜん違うのに、今はちゃんと同じものを作ってる匂いがするんだよ」
もかは鼻先をくんと動かし、目を細める。
「だから今の二人の匂い、すっごくきれい。混ざってるのに、にごってないの」
すずは一度だけ、もかの顔をまっすぐ見た。
「もか」
「なぁに、すずちゃん」
「ミナの内に残されていた、レイナという人物への想いについて。……あなたは、どう感じていますか」
質問の形をしていたが、その声には、すず自身の知りたさが少しだけ混じっていた。
もかはすぐには答えない。少しだけ眉を下げ、それからやわらかく笑った。
「すごい人だったんだろうね」
「根拠は」
「匂い」
もかは即答した。
「何十年経っても消えないんだもん。ミナちゃんのいちばん深いところに、ずっとあったかいまま残ってる。そんな匂い、だれでも遺せるものじゃないよ」
それから、ほんの少しだけ寂しそうに付け足す。
「……私、会ってみたかったな」
すずは目を伏せた。
「……同感です」
短い返答だったが、それで十分だった。
すずは静かにペンを置き、記録帳を閉じる。表紙が重なる小さな音が、ひとつの記録の終わりを告げた。
「記録、完了。役割を捨てるのではなく、役割に縛られていた自分を解放し合ったことで、二人の旅路は新たな頁を得た――そのように結論づけます」
自動ドアが、廊下の風を受けて小さく軋む。
その瞬間、もかの動きがぴたりと止まった。鼻先が、微かに震える。
「あ……」
「どうしましたか、もか」
「……この匂い」
もかは立ち上がりはしない。ただ、廊下の先をまっすぐ見つめた。
「何もないみたいなのに、ちゃんとあったかい。ずっと待ってた匂い。置いていかれたんじゃなくて、これから始まるために空いてたみたいな匂い」
その顔が、ふわりとほころぶ。
「次は、あの空白の中に温もりを隠してたあの子と、それをずっと隣で見守ってたあの子の話をしようよ」
すずが眼鏡の位置を直し、記録帳の表紙をそっと撫でる。
「……いおり、およびゆめ、ですね」
「うん」
「了解しました。次回の記録項目として、仮保存します」
廊下の向こうから、ひだまりに干したタオルのような匂いと、甘酸っぱい果実のような匂いが、静かに重なって流れてくる。
それはまだ物語になっていないのに、もう誰かの帰る場所の匂いがした。
スピンオフ:第三話「リナとミナの匂い」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
https://ncode.syosetu.com/n6938mi/
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